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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

「時の力」としての改元を寿ぐ――長谷川三千子

2025-06-16 | 04-歴史・文化・社会
20年に及ぶブログ活動の集大成 → ★仏様の指
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毎年のお正月、かくも多くの人々が神社にお参りし、皇居の一般参賀に訪れるのも、偶然のことではありません。表立って意識してはいなくともわれわれは身心の奥深くで古来の時のかたちを生きている。そしてそのことがあればこそ、元号という時の区切りが意味を持ち、改元ということに意義があるのです。改元の日、われわれは元旦と同様、ただ晴れ晴れと「おめでとうございます」と言えばよい。それこそがわれわれの「時とは何か」への答えなのです。


御代替わりにあたり
「時の力」としての改元を寿ぐ――長谷川三千子・埼玉大学名誉教授
(「正論」産経新聞 H31(2019).04.24 )

◆元号の意義を根本から考える

本年3月21日付の朝日新聞朝刊に「『改元』を考える」と銘打った、なかなか野心的な社説が載っていました。世の中は「平成最後」だの「平成30年間」だのと騒いでいるが、「でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。『平成』といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。そもそも時とはいったい何なのか」―この社説はそう問いかけています。たしかに、元号というものの意義を根本から考えてみるのに、今はまたとない機会だと言えるでしょう。

それにしても、これは野心的な問いかけです。「そもそも時とはいったい何なのか」―これを問われないうちは知っている(と思っている)が、問われると知らない(ことが明らかになってしまう)と中世の教父哲学者アウグスティヌスは告白しています。実際、これは今なお哲学者たちを悩ませている難問なのです。

ただし、これが難問になってしまうのは、この問いをなにか抽象的に自分とかけ離れたところで問おうとするときです。われわれは、いつでも時を体験しながら生きている。その体験を見つめることの中からしか、「時とは何なのか」の答えは得られないのです。

たとえば、われわれは現に元号による時の区切りをもっている。そこにはどういう時の体験のかたちがあるのか、と見つめ直すところから、われわれなりの答えをさぐるほかありません。

いま名を挙げたアウグスティヌスなどは熱心なキリスト教信者ですから、時間というものも、神が天地を創造したとき同時に創造したのだと考えます。そしてそこを始点として年を数える「創世記元」なるものを定めるのですが、これは始点だけでなく最後の審判という終点をも持っている。これほど徹底して神に支配されている時間観は、およそわれわれとは異質のものと言えるでしょう。

◆生成力を体現した古事記の神々

わが国の神話では、神が時を創造するなどということはありません。『古事記』に描かれる神々は、次々と時のうちに登場してくる。いや、むしろ新たなる時そのものを体現して登場してくると言った方がよいかもしれません。

ことに「次に国稚(くにわか)く浮きし脂(あぶら)の如(ごと)くして、海月(くらげ)なす漂(ただよ)へる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物によりて成れる神」宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)などは、時の生成力そのものを体現した神とすら感じられます。かつて丸山真男氏が『古事記』のこうした記述を評して「つぎつぎになりゆくいきほひ」と述べたのは、まさに本質をついた至言だと思います。

もちろん次々に成りゆくことの裏側には、うつろうこと、滅びゆくことがはりついているわけで、そうしたときの後ろ姿をつくづくと眺めて「もののあわれ」を感じ取ることもまた、わが国の文化の特色です。そうした二枚重ねのかたちに支えられてこそ、「つぎつぎになりゆくいきほひ」も力を持ちうるのです。

このように古くから引き継がれてきた時の体験のかたちが最もくっきりと表れ出るのがお正月です。大みそかに大掃除の済んだ後、除夜の鐘を聞きながら、われわれは去りゆく年の後ろ姿をしみじみと見つめます。そして夜が明けて元旦になると、口々に「明けましておめでとう」と挨拶しあう。

いったい何がめでたいのか、と改めて尋ねられたら、誰でも困ってしまうでしょう。合格だの優勝だのといった、なにか特別のことがあるわけではありません。単に時の目盛りが前年12月31日から1月1日に動いただけのことです。

◆日本に根付く古来の時のかたち

しかし、まさにその動くということ。時が進むということ、一口に言えば、新しさを送り届けてくれる時の力そのものを寿(ことほ)いで、われわれは「明けましておめでとう」と挨拶しあうのです。

元旦に、宮中三殿(賢所(かしこどころ)、皇霊殿、神殿)では、天皇陛下と皇太子殿下が歳旦祭(さいたんさい)を営まれます。これは、皇祖皇宗に旧年の神恩への感謝をささげ、新年の国家隆盛と国民の安寧を祈られる重要な祭祀(さいし)です。そして、全国各地の神社でも、同じく歳旦祭が営まれる。

つまりこのように、毎年新しい年がめぐり来るたびに、われわれは『古事記』の昔からの〈時の体験のかたち〉を、国を挙げて生き生きと再現しているわけなのです。毎年のお正月、かくも多くの人々が神社にお参りし、皇居の一般参賀に訪れるのも、偶然のことではありません。

表立って意識してはいなくともわれわれは身心の奥深くで古来の時のかたちを生きている。そしてそのことがあればこそ、元号という時の区切りが意味を持ち、改元ということに意義があるのです。

改元の日、われわれは元旦と同様、ただ晴れ晴れと「おめでとうございます」と言えばよい。それこそがわれわれの「時とは何か」への答えなのです。
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