電脳筆写『 心超臨界 』

影は光があるおかげで生まれる
( ジョン・ゲイ )

用意ができたとき師が現われる 《 感性とは自由なもの――石原慎太郎 》

2024-08-01 | 03-自己・信念・努力
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禅の中に、「用意ができたときに師は現われる」という教えがあります。自分に準備がなければ、すべては無意味な存在でしかないということです。意志が生まれたとき、手をさしのべる師は現われる。師はいたる所にいる。ふと目にした新聞の記事や子供の質問に答えた自分の言葉であることもある。「師はどのように現われるのか?」との質問への答えは、「これがそうだ」という以外にない。たとえば死にかけた虫を見て、自分の中に同情心がかき立てられた瞬間に、師が出現したことになるのである。


ある日、2時間続きの美術の時間に、みんなで写生に出かけた。教室へ戻って「先生、なに描いたんですか」と覗き込んだら、近くの東海道にできたばかりのカルテックスのガソリンスタンドなんだ。「なんで先生、こんなものを描くんですか」って言ったら、「だっておまえ、新しくてきれいじゃないか」という。言われてみたら確かにきれいなんだな。それで、黒が一番明るいと言って怒られた話をしたら、笑って、「人間の感覚なんて自由なんだ。丸いものだって四角く書いてもいいし、四角いものを丸く書いてもいい。それが芸術だよ」と言った。そのとき、眼から鱗が落ちた気がした。


◆感性とは自由なもの

[特別企画]日本の師弟89人
『文藝春秋』2008年9月号、p221 )

奥野肇/石原慎太郎――唯一の師は美術の教師
石原慎太郎(東京都知事・作家)

昭和24年、高校2年生だった石原慎太郎氏は、秀才
教育に反発して自主休学し、絵や芝居に没頭していた。
その間に赴任した新しい美術教師には、型破りな魅力
があった。石原氏が「唯一の師」と語る洋画家・奥野
肇氏の思い出。

これまで僕はいろんな人に会ってきたけれども、教育の場で、その人の持つ学識に傾倒し、弟子を以って任じたような人はいないし、文学で師と仰いだ存在もいない。ほんとに大事なものを教わったなあ、自分を刺激して育ててくれたなあ、と感じられるのは、奥野肇先生しかいない。

僕は多感な少年で、湘南高校の俗物教育が嫌で、仮病を使って1年休んでいた。休学中に仲間から、新しい美術教師が来たと聞かされて、どんなやつかなあと思っていた。

前の教師は、ガリガリのデッサン至上主義で、写実一辺倒だった。そのころ僕はシュールリアリズムに影響された絵を描いていたが、ほとんど無視されていた。写実の技術があるわけじゃないから上手くはないけれど、絢爛なイメージはあったと思う。

あるときに仲間たちと、どの色がきれいか明るいか、という感覚の話になった。ビリジアン・ブルーとコバルト・ブルーのどちらが明るいか、なんて議論で「黒がいちばん明るい」と言ったら、教師に「ふざけるな」と怒られた。僕は黒がいちばん鮮烈だと思ったんだ、そちらこそ、ふざけるな、と思った。

新しくやってきた奥野先生は、山梨の市川大門の造り酒屋の息子で、家は裕福だった。恋愛に破れて、憂さ晴らしに湘南へ来たらしい、という噂だったけれど、本当かどうか。

先生は、どこか変わって、洒落ていた。チロリアンハットをかぶったり、白い靴を履くような洒落者だった。雨が降ると蛇の目の傘なんかさして、いかにもかっこよかった。新来の先生に因縁をつけた不良の学生たちは、放課後に逆に呼び出されて、「てめえら俺とサシで喧嘩するか、俺は1年兵隊に行っていたんだ」とすごまれて、しゅんとなってしまった。下宿に謝りに行ったら、わかった、じゃあ、酒でも飲むかってことになって、みんな奥野さんの親衛隊になってしまった(笑)。そんな魅力があった。

やがて僕は復学して、授業や美術部で会うようになったけれど、先生は誰に対しても同じようにそっけない態度だった。

ある日、2時間続きの美術の時間に、みんなで写生に出かけた。教室へ戻って「先生、なに描いたんですか」と覗き込んだら、近くの東海道にできたばかりのカルテックスのガソリンスタンドなんだ。「なんで先生、こんなものを描くんですか」って言ったら、「だっておまえ、新しくてきれいじゃないか」という。言われてみたら確かにきれいなんだな。

それで、黒が一番明るいと言って怒られた話をしたら、笑って、「人間の感覚なんて自由なんだ。丸いものだって四角く書いてもいいし、四角いものを丸く書いてもいい。それが芸術だよ」と言った。そのとき、眼から鱗が落ちた気がした。

それからは、僕がシュールなデッサンを描いて持っていくと、これは面白いな、とか、これはちょっと違うんじゃねえか、とか言ってくれた。

下宿に遊びにいくと、いろいろな画集を見せてくれた。初期のビュッフェの鳥のむき身のデッサンを見ながら「こんなもの描くんだよなあ」とうなっていた記憶がある。

「黒はきれいな色だよ。俺の家の襖には鉄斎があるぞ。地が白だと、黒は鮮烈だよなあ」とも言っていた。大学生になってから、仲間と一緒に先生の実家へ泊りがけで遊びにいった。寄宿していた鉄斎が酒代がわりに襖に描いたという絵は、やっぱり鮮烈だった。

奥野先生から僕は、感性とは自由なもので、自己規制したら芸術なんて成り立たないということを教わった。好きなように生き、好きなように感じればいいんだと絵を通じて言ってくれたことで、初めて他者から自分を肯定された。先生には、自分の生き方をギャランティーしてもらったという感じがする。

先生は早く亡くなってしまったけれど、今でも僕は奥野先生の絵を、自宅の玄関に飾っている。
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