20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』 55.1K
■安倍晋三総理 移民受入れ4連発動画 419.7K
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国鉄時代、私は常に主力組合であった国鉄労働組合(国労)と真っ向から対峙(たいじ)した。分割・民営化の信念を掲げ、これを曲げることもなかった。当然、私への風当たりはきつくなり、それは家族にも及んでいた。陰に陽に寄せられる様々な苦情、いやがらせ。国労関係者だけでなく、彼らと連帯を組む勢力が入れ代わり立ち代り、妻や3人の子供たちに圧力をかけていた。
◆郁子を追い込んだ連中を私は一生、許さないっ
妻の死――JR東日本相談役・松田昌士(まつだ・まさたけ)
(「私の履歴書」08.11.29日経新聞(朝刊))
《 嫌がらせで心労、病気に――葬式で許せない思いが爆発 》
どんな人の人生においても「特別な人」の存在は欠かせない。私の場合、少なくとも即座に3人の人物の顔が思い浮かぶ。
まず浮かぶのは国鉄改革の同士だった井出正敬氏である。彼とは入社年次は2年違うが、生まれは学年が同じになる昭和10年度。「天の時、人の和、地の利」とよくいわれるが、彼なくして国鉄改革はありえなかった。この先、互いの人生がどうなるのかはわからないが、残った方が友人代表として弔辞を詠むという約束は今も忘れていない。
次に考えるのは文字通り、自分の手となり、足となって私を支えてくれた秘書・江藤尚志君のことである。1991年6月秘書役就任以来、彼の支えがなかったら今日までの私の活動もあり得なかった。同じく秘書の横山恭子さんにも大変、お世話になった。
最後に妻・郁子のことをお話したい。
2003年10月18日夕。私は東京・青山葬儀所で郁子に最後の別れを告げた。学生時代に岐阜で出会って以来、40年余。鉄道記念日(10月14日)を律義に見届けた後、その翌日に妻は別天地へと旅立っていった。
国鉄時代、私は常に主力組合であった国鉄労働組合(国労)と真っ向から対峙(たいじ)した。分割・民営化の信念を掲げ、これを曲げることもなかった。当然、私への風当たりはきつくなり、それは家族にも及んでいた。陰に陽に寄せられる様々な苦情、いやがらせ。国労関係者だけでなく、彼らと連帯を組む勢力が入れ代わり立ち代り、妻や3人の子供たちに圧力をかけていた。
国鉄民営化への道筋がたったころからJR発足にかけては特にひどかった。当時住んでいた埼玉県与野の自宅ではプロパンガスの周辺に幾本ものマッチ棒がばらまかれていた。組合の街宣車は近隣を練り歩き「松田は大悪人」と大音量で流し続けた。社内に泊まり込みを続けると「浮気をしている」とデマも流された。
ある時、同居している長女の息子が極度に水を怖がることを知った。理由を尋ねると、近隣のプールで指導員とおぼしき人物に無理やり顔を水に押し付けられたという。孫にまでの陰気ないじめにはさすがに慄然(りつぜん)とした。
そんな苦労が蓄積した結果だろう。妻は40歳を過ぎたころに舌の動きをつかさどる筋肉がまひするという病気に襲われた。ひどい時は立っていると呼吸すらできない。多くの病院を訪ね歩いたが、原因は不明のままだった。
発病時、「13年しか持たない」といわれた妻は20年以上も頑張った。この間、家庭や子供の教育などはすべて任せきり。泣きたいぐらい辛く、苦しいこともたくさんあったはずだ。それでも国鉄再生に駆け回る私をいつも自由に走り回らせてくれた。
土曜の夕刻、薄暗い空の下で始めた喪主のあいさつは当初、淡々と終えるつもりだった。しかし、元気だったころの郁子と相対した時、私の中で何かが弾けた。気が付いた時には「郁子を追い込んだ連中を私は一生、許さないっ」と叫ぶ自分がいた。
焼香された中曽根康弘元首相が私に歩み寄り、「奥さんに『今までよく頑張ったね』と言っておいたよ」と耳元でささやかれた。本当は「絶対に泣くまい」と思っていた。しかし、この時ばかりは両目からあふれ出る涙を止めることができなかった。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』 55.1K
■安倍晋三総理 移民受入れ4連発動画 419.7K
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国鉄時代、私は常に主力組合であった国鉄労働組合(国労)と真っ向から対峙(たいじ)した。分割・民営化の信念を掲げ、これを曲げることもなかった。当然、私への風当たりはきつくなり、それは家族にも及んでいた。陰に陽に寄せられる様々な苦情、いやがらせ。国労関係者だけでなく、彼らと連帯を組む勢力が入れ代わり立ち代り、妻や3人の子供たちに圧力をかけていた。
◆郁子を追い込んだ連中を私は一生、許さないっ
妻の死――JR東日本相談役・松田昌士(まつだ・まさたけ)
(「私の履歴書」08.11.29日経新聞(朝刊))
《 嫌がらせで心労、病気に――葬式で許せない思いが爆発 》
どんな人の人生においても「特別な人」の存在は欠かせない。私の場合、少なくとも即座に3人の人物の顔が思い浮かぶ。
まず浮かぶのは国鉄改革の同士だった井出正敬氏である。彼とは入社年次は2年違うが、生まれは学年が同じになる昭和10年度。「天の時、人の和、地の利」とよくいわれるが、彼なくして国鉄改革はありえなかった。この先、互いの人生がどうなるのかはわからないが、残った方が友人代表として弔辞を詠むという約束は今も忘れていない。
次に考えるのは文字通り、自分の手となり、足となって私を支えてくれた秘書・江藤尚志君のことである。1991年6月秘書役就任以来、彼の支えがなかったら今日までの私の活動もあり得なかった。同じく秘書の横山恭子さんにも大変、お世話になった。
最後に妻・郁子のことをお話したい。
2003年10月18日夕。私は東京・青山葬儀所で郁子に最後の別れを告げた。学生時代に岐阜で出会って以来、40年余。鉄道記念日(10月14日)を律義に見届けた後、その翌日に妻は別天地へと旅立っていった。
国鉄時代、私は常に主力組合であった国鉄労働組合(国労)と真っ向から対峙(たいじ)した。分割・民営化の信念を掲げ、これを曲げることもなかった。当然、私への風当たりはきつくなり、それは家族にも及んでいた。陰に陽に寄せられる様々な苦情、いやがらせ。国労関係者だけでなく、彼らと連帯を組む勢力が入れ代わり立ち代り、妻や3人の子供たちに圧力をかけていた。
国鉄民営化への道筋がたったころからJR発足にかけては特にひどかった。当時住んでいた埼玉県与野の自宅ではプロパンガスの周辺に幾本ものマッチ棒がばらまかれていた。組合の街宣車は近隣を練り歩き「松田は大悪人」と大音量で流し続けた。社内に泊まり込みを続けると「浮気をしている」とデマも流された。
ある時、同居している長女の息子が極度に水を怖がることを知った。理由を尋ねると、近隣のプールで指導員とおぼしき人物に無理やり顔を水に押し付けられたという。孫にまでの陰気ないじめにはさすがに慄然(りつぜん)とした。
そんな苦労が蓄積した結果だろう。妻は40歳を過ぎたころに舌の動きをつかさどる筋肉がまひするという病気に襲われた。ひどい時は立っていると呼吸すらできない。多くの病院を訪ね歩いたが、原因は不明のままだった。
発病時、「13年しか持たない」といわれた妻は20年以上も頑張った。この間、家庭や子供の教育などはすべて任せきり。泣きたいぐらい辛く、苦しいこともたくさんあったはずだ。それでも国鉄再生に駆け回る私をいつも自由に走り回らせてくれた。
土曜の夕刻、薄暗い空の下で始めた喪主のあいさつは当初、淡々と終えるつもりだった。しかし、元気だったころの郁子と相対した時、私の中で何かが弾けた。気が付いた時には「郁子を追い込んだ連中を私は一生、許さないっ」と叫ぶ自分がいた。
焼香された中曽根康弘元首相が私に歩み寄り、「奥さんに『今までよく頑張ったね』と言っておいたよ」と耳元でささやかれた。本当は「絶対に泣くまい」と思っていた。しかし、この時ばかりは両目からあふれ出る涙を止めることができなかった。