20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』 55.1K
■安倍晋三総理 移民受入れ4連発動画 419.7K
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「人間発見」漫画家・やなせたかしさん
ぼくの分身 アンパンマン (1)
ぼくの分身 アンパンマン (2)
ぼくの分身 アンパンマン (3)
ぼくの分身 アンパンマン (4)
ぼくの分身 アンパンマン (5)
ぼくの分身 アンパンマン (3)
(「人間発見」09.04.01日経新聞(夕刊))
高知新聞社で運命の人、上京したのですぐ即退社
三越入社、「包装紙」の文字いまも恥ずかしい
独立後は低空飛行、多才な「便利屋さん」に
◆高知新聞社の記者となり、雑誌「月刊高知」の編集部
に異動。妻となる小松暢さんと運命の出会いがあった。
父の跡を継ぐように新聞記者になると、社会部に配属されました。面白くなってきたら夕刊担当、またすぐ新しく出す「月刊高知」の編集部にと短期の異動が続いたのです。編集長はじめ4人の小さな所帯で、企画から取材、正月付録のすごろくづくりまですべて自前でやる。ときには表紙を自分で描くこともありました。
原稿依頼で、田宮虎彦さんや大原富枝さんなど郷土ゆかりの作家にもお会いする機会を得ました。そうするうちに、自分の前の席にいた小松さんが地元選出国会議員の秘書になるため上京。「ぼつぼつ東京に出たい」と思っていたぼくも後を追うように退社願を出しました。入社後まだ日が浅く、会社に怒られたのも当然です。
◆上京したものの簡単には仕事は見つからなかった。
そんなとき、三越の宣伝部社員募集を知る。
田辺製薬時代の友人がやっていた図案会社の仕事を手伝っているとき、三越が主催した第1回ポスター展に入賞しました。その三越が宣伝部の社員を募集するという。応募すると運良く採用されたのです。もっとも、後で聞くと、本当は「生意気な男だ」と不採用だったのが、高知出身の重役が「どこか見どころがあるから」と強く推してくれたとの話でした。
三越に入れたことは、本当に幸運でした。百貨店だから取り扱う商品は、食料品や化粧品、ファッション品など色とりどり。日本橋本店には三越劇場があって、劇場講演ポスターを描く機会も多い。劇場に入り浸りになり部長から怒られたこともあったほどです。
一番の思い出は今も活躍する包装紙のことです。クリスマス用包装紙のデザインをお願いした猪熊弦一郎画伯が「Mitsukoshiの字は君が描いて」と言われたので、下手ながらも描きました。重役会での包装紙の評価は当初、「これは何だ」と厳しいものでした。ところが「猪熊先生のデザインです」と恐る恐る言うと「そういえば、いいね」となったのです。実際、包んでみると目立つしすごくいい。クリスマス限定だったのが、今に至るまで使われるようになりました。包装紙を目にするたびに「自分の字は下手だなあ」と恥ずかしい思いをしています。
三越の仕事の一方で、雑誌のカットなど漫画の仕事が増えてきました。いつしかその収入が月給の3倍にもなった。三越を辞め独立しようかと迷っているとカミさんがどんと背中を押してくれたのです。「やめなさいよ。仕事がなければ私が食べさせてあげる」と。
◆1953年に独立。漫画家生活は低空飛行が続いたが、
アンパンが人気になるまでの20数年間に、多才ぶりを
発揮しテレビなど活躍の舞台を広げていった。
独立後はまずまずでした。ところが人生は決して順風万帆とはいきません。有能な漫画家の相次ぐ台頭で漫画界の地図がどんどん塗り替わり、これという代表作がなく、漫画家としての軸足がはっきりしないぼくは、谷間の細道を歩くような存在になったのです。
頼まれる仕事は「穴があくので明日の朝まで4ページ頼みます」といった便利屋さん的なものが多くなりました。生活があるから仕事を選べない。そつなくこなしているうちに「困ったときはやなせ君」という雰囲気が広がりました。
ときには宮城まり子さんに頼まれたリサイタルの構成をやり、ラジオの脚本を書く。手塚治虫さんの長編アニメ「千夜一夜物語」の美術監督をしたり、永六輔さんの依頼でミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の舞台装置を手掛けたり。漫画家としてあまり知られていないのにNHKのテレビ番組「まんが学校」の先生役を3年間務めたりもしました。
作曲家のいずみたくさんと知り合い、作詞も手掛けました。そこから生まれたのが「手のひらを太陽に」です。いずみさんとは生涯の付き合いとなり、「すすめ!アンパンマン号」が最後の曲になりました。
(聞き手は編集委員・栩木誠)
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』 55.1K
■安倍晋三総理 移民受入れ4連発動画 419.7K
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「人間発見」漫画家・やなせたかしさん
ぼくの分身 アンパンマン (1)
ぼくの分身 アンパンマン (2)
ぼくの分身 アンパンマン (3)
ぼくの分身 アンパンマン (4)
ぼくの分身 アンパンマン (5)
ぼくの分身 アンパンマン (3)
(「人間発見」09.04.01日経新聞(夕刊))
高知新聞社で運命の人、上京したのですぐ即退社
三越入社、「包装紙」の文字いまも恥ずかしい
独立後は低空飛行、多才な「便利屋さん」に
◆高知新聞社の記者となり、雑誌「月刊高知」の編集部
に異動。妻となる小松暢さんと運命の出会いがあった。
父の跡を継ぐように新聞記者になると、社会部に配属されました。面白くなってきたら夕刊担当、またすぐ新しく出す「月刊高知」の編集部にと短期の異動が続いたのです。編集長はじめ4人の小さな所帯で、企画から取材、正月付録のすごろくづくりまですべて自前でやる。ときには表紙を自分で描くこともありました。
原稿依頼で、田宮虎彦さんや大原富枝さんなど郷土ゆかりの作家にもお会いする機会を得ました。そうするうちに、自分の前の席にいた小松さんが地元選出国会議員の秘書になるため上京。「ぼつぼつ東京に出たい」と思っていたぼくも後を追うように退社願を出しました。入社後まだ日が浅く、会社に怒られたのも当然です。
◆上京したものの簡単には仕事は見つからなかった。
そんなとき、三越の宣伝部社員募集を知る。
田辺製薬時代の友人がやっていた図案会社の仕事を手伝っているとき、三越が主催した第1回ポスター展に入賞しました。その三越が宣伝部の社員を募集するという。応募すると運良く採用されたのです。もっとも、後で聞くと、本当は「生意気な男だ」と不採用だったのが、高知出身の重役が「どこか見どころがあるから」と強く推してくれたとの話でした。
三越に入れたことは、本当に幸運でした。百貨店だから取り扱う商品は、食料品や化粧品、ファッション品など色とりどり。日本橋本店には三越劇場があって、劇場講演ポスターを描く機会も多い。劇場に入り浸りになり部長から怒られたこともあったほどです。
一番の思い出は今も活躍する包装紙のことです。クリスマス用包装紙のデザインをお願いした猪熊弦一郎画伯が「Mitsukoshiの字は君が描いて」と言われたので、下手ながらも描きました。重役会での包装紙の評価は当初、「これは何だ」と厳しいものでした。ところが「猪熊先生のデザインです」と恐る恐る言うと「そういえば、いいね」となったのです。実際、包んでみると目立つしすごくいい。クリスマス限定だったのが、今に至るまで使われるようになりました。包装紙を目にするたびに「自分の字は下手だなあ」と恥ずかしい思いをしています。
三越の仕事の一方で、雑誌のカットなど漫画の仕事が増えてきました。いつしかその収入が月給の3倍にもなった。三越を辞め独立しようかと迷っているとカミさんがどんと背中を押してくれたのです。「やめなさいよ。仕事がなければ私が食べさせてあげる」と。
◆1953年に独立。漫画家生活は低空飛行が続いたが、
アンパンが人気になるまでの20数年間に、多才ぶりを
発揮しテレビなど活躍の舞台を広げていった。
独立後はまずまずでした。ところが人生は決して順風万帆とはいきません。有能な漫画家の相次ぐ台頭で漫画界の地図がどんどん塗り替わり、これという代表作がなく、漫画家としての軸足がはっきりしないぼくは、谷間の細道を歩くような存在になったのです。
頼まれる仕事は「穴があくので明日の朝まで4ページ頼みます」といった便利屋さん的なものが多くなりました。生活があるから仕事を選べない。そつなくこなしているうちに「困ったときはやなせ君」という雰囲気が広がりました。
ときには宮城まり子さんに頼まれたリサイタルの構成をやり、ラジオの脚本を書く。手塚治虫さんの長編アニメ「千夜一夜物語」の美術監督をしたり、永六輔さんの依頼でミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の舞台装置を手掛けたり。漫画家としてあまり知られていないのにNHKのテレビ番組「まんが学校」の先生役を3年間務めたりもしました。
作曲家のいずみたくさんと知り合い、作詞も手掛けました。そこから生まれたのが「手のひらを太陽に」です。いずみさんとは生涯の付き合いとなり、「すすめ!アンパンマン号」が最後の曲になりました。
(聞き手は編集委員・栩木誠)