電脳筆写『 心超臨界 』

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D・パイプス

人間学 《 立派な宗教家——伊藤肇 》

2024-08-17 | 03-自己・信念・努力
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「三人の心友」とは「一人はすぐれたジャーナリスト。一人は立派な宗教家。一人は名医」である。「立派な宗教家」が、何故、心友として必要か。


『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p211 )
第8章 幕賓(ばくひん)の人間学

◆三人の心友をもて(2/3)――立派な宗教家

「立派な宗教家」が、何故、心友として必要か。

フランスの心理学者、エミール・クーエは

「人間というものは、自分の心の中にはかりがたい力をもっている。これを無意識にとり扱う時には、しばしば有害になるが、反対に意識的にかつ賢明な態度で取り扱えば、自分を支配することができ、しかも、生理的、精神的障害から自分を避けることができる」

といっている。

これを意訳すると、こういうことになる。

たとえば、30センチ幅の板を地上に置いたとする。誰でも、片目片足で、その上を歩くことができるが、同じ板を百メートルの空中に吊ったとすると、恐ろしくて這って渡ることもできはしない。

何故だろうか? 理由は簡単である。地上では足をすべらせても絶対にケガをすることはない、という確信が精神を闊達にし、これが肉体に作用して、のびのびと行動させることになるのだ。その反対に、板が空中にある時には、もし、足を踏みはずしたら、脳天を打ち砕いて即死である。その思いが頭にこびりついて離れないために肉体が萎縮(いしゅく)してしまって、地上なら平然とやれることが空中では手も足もでない状態に陥ってしまうのである。

本来、信仰とか、宗教心とかは、そういうものであるが、一人の作家と一人の学者とが、その核心を衝いた発言をしている。

一人はスエーデンの作家、ストリンドベリである。

「君が経験か、直感かで、宗教とは何であるかをすでに知っていなければ、宗教についての説明はできない。また、説明してきかせたところで、君たちには馬鹿げたこととしか思わないだろう。だが、君がもし、宗教とは何かを知っているなら、いろいろと説明することがある。そして君にもわかるだろう」

もう一人は『善の研究』で有名な哲学者、西田幾多郎である。

「世の中には、往々、何故(なにゆえ)に宗教が必要であるか、などと尋ねる人があるが、かくの如き問いは、何故に生きる必要があるのか、と問うのと同一である。宗教は己の生命を離れて存在するのではない。その要求は生命そのものの要求である。したがって、かかる問いを発するのは、自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え、真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感せずにはいられないのである」

昔から、北条時宗における無学祖元(むがくそげん)、足利尊氏における夢窓疎石(むそうそせき)。徳川家康における天海。住友財閥の名総理事といわれた伊庭貞剛(いばさだたけ)における峨山。共和發酵会長の加藤弁三郎における松原致遠。日本信販会長、山田光成における梶浦逸外(かじうらいつがい)。資生堂相談役、岡内英夫における苧坂(おざか)光龍。宮崎交通相談役、岩切章太郎における木津無庵といったように一廉(ひとかど)の人物の陰には必ず偉大な宗教家がついている。

しかし、この宗教家にもホンモノとニセモノとがある。いや、ニセモノのほうが幅をきかせている世の中である。

たとえば、本当の禅坊主は、あっけらかんとしているものである。毎日、きちんと座禅をやっているくせに座禅などやっているようなことは一言もいわずに飄々(ひょうひょう)としている。それがホンモノである。ところが、自分が禅僧であることを意識して、いかにも豪放磊落にふるまうのは大体、インチキと思って間違いない。そんなのは、一見、豪放にみえて、裏のほうでは小心翼翼として俗世間のことばかり気にしているつまらぬ坊主である。事実、峨山老漢を師として、禅の深淵を高めた伊庭貞剛などは、生涯を通じて、在家の人々の前では禅を談じたことは一度もなかったし、居士などと称して、わがもの顔に偈(げ)などをひねくったり、ことさららしく禅語を喋々(ちょうちょう)する奴は大嫌いだった。

そういえば、ヒトラーに対するレジスタンス運動で倒れた牧師にして神学者のディトリッヒ・ボンヘッファーは「神の前に、神と共に、神なしに生きる」という名言を遺している。

信仰者の真の生きかたは無心論者のような生きかたである、というのである。

神について、もっともらしいことや、わかったようなことをいう人間は最も神から離れた存在である。あたかも、人生や恋愛について得々と語るのは、本人の体験の浅はかさを物語っているようなものである。しかも、それらは自分のことをしゃべっているにすぎないのだ。同様に、神について饒舌すぎる連中は、神にことよせて、自分のことを語っているのだ。
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