電脳筆写『 心超臨界 』

計画のない目標はただの願望にすぎない
( ラリー・エルダー )

悪魔の思想 《 竹内好――シナ文化の受容を「隷属」と呼ぶ侮言/谷沢永一 》

2024-05-23 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


わが国の歴史を批判的に論じた人は数多くありますが、「日本の文化の独立は過去にはなかった」とまでの全面否定を断言した抹殺評価は、前例のない極言でありましょう。竹内好は日本史2千年をふりかえって、わが国は遠い過去から現代まで一貫して文化的植民地であったと、これ以上ない最大限の貶価(へんか)と侮蔑の姿勢を以って、傲然(ごうぜん)と観察するわけです。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p218 )
日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好(たけうちよしみ)への告発状
第9章 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

  竹内好(たけうちよしみ)
  明治43年生まれ。東京帝大卒。専門は中国近代文学・慶大講師、
  都立大教授を歴任。シナに仕える筋金入りの反日的日本人。昭和
  52年没。

  魯迅を論じたり訳したりしただけで、ただそれだけのけちくさい“
  学識”で、シナの事は何でも知っているという顔をした鉄面皮な竹
  内好は、3千年のシナ文明史をなにひとつ勉強していないのですか
  ら、その劣等感(コンプレックス)の裏返しとして、現代シナをひた
  すら持ち上げ神聖視する戦術に出ました。そして毛沢東政権のもと
  シナは美しく立派な尊敬すべき国となっているのに反して、日本は
  愚劣な卑しむべき国であると言い募る一点張りで通しました。


9-6 シナ文化の受容を「隷属」と呼ぶ侮言(ぶげん)

夢みる乙女みたいなとでも言いたくなるほど、ことほど左様に、シナ人に対しては浪漫的(ロマンチック)な憧れに身を燃やす竹内好が、ふりかえってひとたびわが国について論ずるや否や、掌(てのひら)を返したように、冷酷な蔑みと貶(おとし)めの言辞を弄します。竹内好にとって祖国日本は、まったくとるに足らぬ卑しい詰まらぬ国なのです。竹内好の見るところ、昭和33年に至っても、シナは日本より先進国であり、日本はシナより後進国であるにすぎず、文化の面においてわが国はこれからシナに追いつかなければならぬのだそうです。

  日本が歴史的に中国の文化に隷属していたことは事実です。明治の
  初期までそうだ。それがあとまだずっと尾を引いて無意識にせよ残
  っている。それに対するコンプレックスが今でもあるが、それが日
  本の再生に栄養分として作用するというだけでは、日本の国民的使
  命感が宙に浮いてしまう。私の考え方からすれば、日本の文化が中
  国の文化と対等の関係に立たないと本当の連帯が出てこないと思う。
  これは日本の文化の独立は過去にはなかったが、将来にあるという
  考え方だ。
    (昭和33年5月『世界』〈座談会〉「アジアのなかの日本」)

わが国の歴史を批判的に論じた人は数多くありますが、「日本の文化の独立は過去にはなかった」とまでの全面否定を断言した抹殺評価は、前例のない極言でありましょう。竹内好は日本史2千年をふりかえって、わが国は遠い過去から現代まで一貫して文化的植民地であったと、これ以上ない最大限の貶価(へんか)と侮蔑の姿勢を以って、傲然(ごうぜん)と観察するわけです。

隷属、という言葉を最もわかりやすく解きあかしたのは『三省堂国語辞典』だと思いますが、その明快な解釈の言うところ、隷属とは、相手の支配を受けてしたがうこと、の意なんですね。隷属、という言葉の核心には、支配、という概念が据えられています。

そもそもわが国の文化がシナの文化を意欲的に採り入れたこと、文化史的用語で言うなら、受容に熱心であったことは事実です。しかし影響と感化と受容は、ふたつ以上のあいことなる文化が接触したときに必ず生じる普遍的な現象であるにすぎません。

そして、積極的に受容する学習の意欲と、支配され押しつけられる消極的な追随とは、これはもうまったく次元が違います。わが国はシナの文化を貪婪(どんらん)に受容しました。しかし事実の問題としてシナ文化に支配されたことはありません。竹内好は日本文化を蔑み、卑しめ、見下すために、受容という歴史的事例を隷属という極端な貶斥語(へんせきご)に言い換え、祖国2千年の歴史を暗黒に塗りつぶして快(こころよ)しとしたわけです。

隷属どころか、支配どころか、シナ文化と日本文化とは相互にまったく独立した関係にあったという歴史的事実を、津田左右吉は次のように言葉をつくして説きあかしています。

  〈注・本書の収めた〉この二篇に共通な考(かんがえ)は、日本の文
  化は日本の民族生活の獨自なる歴史的展開によって獨自に形づくら
  れて來たものであり、随(したが)って支那の文化とは全くちがった
  ものであるということ、日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文
  化をもっている別々の世界であって、文化的にはこの二つを含むも
  のとしての一つの東洋という世界はなりたっていず、一つの東洋文
  化というものは無いということ、日本は、過去に於いては、文化財
  として支那の文物を多くとり入れたけれども、決して支那の文化の
  世界につつみこまれたのではないということ、支那からとり入れた
  文物が日本の文化の發達に大なるはたらきをしたことは明かである
  が、一面またそれを妨げそれをゆがめる力になったということ、そ
  れにもかかわらず日本人は日本人としての獨自の生活を發展させ獨
  自の文化を創造して來たということ、日本の過去の知識人の知識と
  しては支那思想が重んぜられたけれども、それは日本人の實生活と
  ははるかにかけはなれたものであり、直接には實生活の上にはたら
  いていないということ、である。日本と支那と、日本人の生活と支
  那人のそれとは、すべてにおいて全くちがっている、というのがわ
  たくしの考である。
    (昭和13年11月7日『支那思想と日本』岩波新書、全集20巻)

竹内好の隷属論は、なにがなんでも日本を貶めるために辞(じ)をかまえた北京政府代理人(エージェント)一流の日本叩き(ジャパンバッシング)罵倒語なのです。また「日本の文化の独立は過去にはなかった」などの放言は、悪意に満ちた歴史の歪曲であり、こういうあからさまな虚偽を申し立てるには、よほど鉄面皮な無頼漢型の度胸が必要でしょう。内藤湖南は「日本文化の独立」(大正11年)をこう説いています。

  いままで日本はシナをもって日本文化の師匠であると仰いでおった
  ところが、その師匠と仰いでおったシナが、犬の子孫であるところ
  の蒙古〈国難祈願の願文に当時そう記した〉のために亡ぼされてし
  まって、その蒙古はさらに日本にまで襲来し、そうして日本の前に
  は国難が横たわっておったわけであるが、とにかく伊勢の大神宮や
  岩清水八幡、三千余座の神々に祈願して神の子孫が犬の子孫に勝っ
  たわけであります。そんなわけでいままで貴いと思っておったシナ
  も、犬の子孫に統一されるようではそう大したこともないというの
  で、ついにシナというものが日本人にとってあまりありがたくなく
  なった。そしてそのシナを亡ぼしたところの蒙古をも日本が神の力
  で退けたのですから、日本はよほど偉いのだというので、その神の
  保護を受けるということはよほど偉い事に思われただろうと思いま
  す。(中略)

  そういうわけで、この日本が世界中一ばん尊いのだという思想は当
  時において新思想といってよかろうと思います。つまり前にはシナ
  を崇(たっと)んでおったが、シナはつまらない。インドもまたつま
  らない、日本くらい尊い国はないというのが当時の新思想であって、
  それが根本になってそのころ文化の独立というものが出来たのだと
  思います。
       (講談社学術文庫『日本文化史研究』(下)、全集9巻)

湖南は何事をも控え目に論じる癖があり、この場合も年代を思いきって繰りさげ、これは絶対に確かだという時点を求めながら指示しているわけですが、日本独立の文化が聖徳太子の時代からすでに見出せることは周知でありましょう。

竹内好は日本の伝統を辱めるために極端な侮言を弄しました。このような歴史の歪曲と貶斥が、反日的日本人に例外なく共通する立言の動機だったのです。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京裁判はインチキ 《 なぜ... | トップ | 真珠湾攻撃の真実 《 「マッ... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事