電脳筆写『 心超臨界 』

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手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

読む年表 戦国~江戸 《 応仁の乱勃発——渡部昇一 》

2024-11-01 | 04-歴史・文化・社会
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日本の家系は、大名家であれ、名門の家であれ、皇室と一部の公家(くげ)を除けば、そのほとんどが応仁の乱以降に始まる。それより前にさかのぼれないのである。源氏とか平氏を名乗る大名は多いが、実は応仁の乱を境にほとんどの家系がそれ以前と切り離され、勝手に「誰々の子孫」と称するようになっただけのことだ。応仁の乱とは、それほどの歴史的大変動だった。このとき日本史上に大断層(だいだんそう)が生じたと言ってもよい。


◆応仁(おうにん)の乱(らん)勃発

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p96 )

1467年(応仁元年)
《 応仁(おうにん)の乱(らん)勃発 》
日本史上に大断層(だいだんそう)を生じさせた天下の大乱

南北朝(なんぼくちょう)が統一されてようやく幕府に権力が集中し、六代将軍足利義教(あしかがよしのり)のときには完全に諸大名を制し、足利幕府は絶対的な権威を持つようになった。

ところが、嘉吉(かきつ)元年(1441)、義教が重臣赤松満祐(あかまつみつすけ)によって暗殺された後は、嫡男(ちゃくなん)である義勝(よしかつ=9歳)、とその弟の義政(よしまさ=8歳)と幼少の将軍が二代続いた。さらに幕府を支えてきた功臣たちも相次いで亡くなり、幕府の基盤(きばん)がゆらぎはじめる。

八代将軍となった義政と正室の日野富子(ひのとみこ)とのあいだには子供がなかったため、僧職にあった弟の義尋(ぎじん)(後、義視(よしみ)と改名)を還俗(げんぞく)・元服(げんぷく)させ、次期将軍として養子に迎えた。

ところが、その翌年、富子に男児(後の足利義尚(よしひさ))が誕生したことによって家督(かとく)相続の問題が起こった。これに管領(かんれい)家(斯波(しば)・細川・畠山)の家督相続をめぐる内紛が絡(から)む。やがて三管領のなかで細川氏の力が突出してくるが、その一方で、山名(やまな)家が復活・台頭(たいとう)してきた。

山名家は元来、侍所(さぶらいどころ)の長官をつとめる「四職(ししき)」の一つである家柄だったが、明徳(めいとく)2年(1391年)に山名氏清(うじきよ)が三代将軍義満(よしみつ)に対して挙兵し(明徳の乱)、一度は討伐された。ところが、氏清の娘婿(むすめむこ)・時熙(ときひろ)とその子宗全(そうぜん)が山名家を再興し、細川家と並び立つ存在になった。

次期将軍を約束された義視には執事として最高実力者である細川勝元(かつもと)がついているので、自分の息子義尚を将軍職につけたかった富子は、山名宗全に援助を求めた。これでさらに細川・山名の対立が大きくなった。

芸術には天才的なところがあったものの、意志薄弱でもあった義政は、権勢欲の旺盛な富子や、三人の「魔」と呼ばれた今参局(いままいりのつぼね=い[ま])、烏丸資任(からすますけとう=からす[ま])、有馬持家(ありまもちいえ=あり[ま])の側近たちにふりまわされて、幕政は大いに乱れた。

さまざまな人物の欲と思惑が入り乱れ、場当たり的な政策が横行したから、幕府の統制力が弱まり、細川・山名の対立は各大名の間にまで広がった。ついには全国の武士が細川の東軍と山名の西軍にわかれて争い、「応仁(おうにん)の乱(らん)」と呼ばれる全国的な大乱に発展する。それは応仁元年(1467)から11年も続いた。

日本の家系は、大名家であれ、名門の家であれ、皇室と一部の公家(くげ)を除けば、そのほとんどが応仁の乱以降に始まる。それより前にさかのぼれないのである。源氏とか平氏を名乗る大名は多いが、実は応仁の乱を境にほとんどの家系がそれ以前と切り離され、勝手に「誰々の子孫」と称するようになっただけのことだ。

応仁の乱とは、それほどの歴史的大変動だった。このとき日本史上に大断層(だいだんそう)が生じたと言ってもよい。
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