電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
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D・パイプス

日本史 古代編 《 たえず神話と繋がっている日本人の生活――渡部昇一 》

2024-07-16 | 04-歴史・文化・社会
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次男のアメノホヒノミコトは出雲家を継いでここの千家(せんげ)家の先祖になられた。ここの五十五代千家孝宗(たかむね)のとき、弟の貞孝(さだたか)が一家を立てて北島(きたじま)家になっている。その後、八十代の千家尊福(たかとみ)は政府に仕え、文部省普通学務局長や東京府の知事などをやっていた。「神話に出てくる神様の八十代目の子孫が東京のガバナーをやっていて、ロシア革命の翌年死んだ」などと言うと、外人も日本史の特殊性にはじめて目を向けるのである。その妾腹(しょうふく)の子(千家元麿(もとまろ))は著名な現代詩人であるなどというのは、さらに面白い。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p93 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(6) 「伝統への敬意」こそ民主主義の精神

◆たえず神話と繋(つな)がっている日本人の生活

神社のついでに、もう2、3の例を挙げておこう。

たとえば日本三景の一つとして名高い安芸(あき)の宮島なる厳島神社であるが、ここにはイツキシマヒメノミコト、タゴリヒメノミコト、タギツヒメノミコトという三人の女神を祀ってある。

これは天照大神(アマテラスオオミカミ)とスサノオノミコトの間に争いが起こったときに、お互いが悪意ないことを証明するためにみそぎをしてから、天照大神のほうは三人の女神を産み、スサノオノミコトは五人の男神を産み、これらの神々を交換して互いに養子にしたという『日本書紀』の記事に由来している。これによって天孫系と出雲系は平和裡に合体したので、まことに重要な神話である。

そのときの天孫系から出雲系に与えられた三女神が厳島神社に祀られているというわけである。そしてこの神社が創立されたのは推古(すいこ)天皇の御代(みよ)(593年)であり、のちには平清盛が、特に尊崇したという。

この女神たちは、さらに北九州の宗像(むなかた)神社にも祀られている。特にタゴリヒメノミコトは海上50数キロにある沖の島に祀られている。そして、この島の祭祀の跡からは古墳時代の豊富な遺物が発見されている。これらの三女神は古来朝野(ちょうや)の尊敬を集め、特に神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐には霊験(れいげん)あらたかであったということで、その後も国家的大事件があるときは、かならず朝廷から幣使(みてぐらつかい)がつかわされる例になっていた。

神功皇后の朝鮮征服については史家の間に異論がある。書紀によれば西暦200年ごろであるが、韓国側の資料では369年から390年にかけて、かなり大じかけな遠征が日本から行われたらしい。こっちのほうの資料によっても、4世紀末には、この神社が朝廷の尊敬を受けていたことは確かである。そして宗像氏がこの神に仕えてきた。この神社の存在が、少なくとも4世紀にさかのぼるというのは、たいへんな古さなのである。西のほうでは、まだイギリスの島にゲルマン人、つまり、のちのイギリス人が渡来していないのであるから。

ついでだから、スサノオノミコトが天照大神に与えられた五人の男神はどうなったかを見てみよう。

まず、長男のアメノオシホミミノミコトは高天原(たかまがはら)を相続することになった。つまり現在の皇室のご先祖になられたわけである。皇室のご先祖が養子ではじまるというのはおかしな話だが、弟の子、つまり甥であるから血統は切れていない。

次男のアメノホヒノミコトは出雲家を継いでここの千家(せんげ)家の先祖になられた。ここの五十五代千家孝宗(たかむね)のとき、弟の貞孝(さだたか)が一家を立てて北島(きたじま)家になっている。その後、八十代の千家尊福(たかとみ)は政府に仕え、文部省普通学務局長や東京府の知事などをやっていた。

「神話に出てくる神様の八十代目の子孫が東京のガバナーをやっていて、ロシア革命の翌年死んだ」

などと言うと、外人も日本史の特殊性にはじめて目を向けるのである。その妾腹(しょうふく)の子(千家元麿(もとまろ))は著名な現代詩人であるなどというのは、さらに面白い。

このような神社の銘々伝(めいめいでん)をやりはじめたらきりがない。日本の山や森かげには無数の神社がある。むしろ神社のない山のほうが少ないであろう。富士山にもコノハナサクヤヒメを祀ってある。この女神は神武天皇の曾祖母に当たる方だ、などというのは楽しいことではないか。

日本は現代風の味気ない工業世界になってきているが、少し気を付けて見れば、自分たちと血の繋がった神話の世界と共存しうるわけで、一つの国民的特権というべきものであろう。
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