電脳筆写『 心超臨界 』

見事になされた仕事への報酬は
すでにそれを達成したことにある
( エマーソン )

文化圏ごとに異なる歴史意識――西尾幹二教授

2014-12-23 | 04-歴史・文化・社会
★ついに「心超臨界」の時来る → http://tinyurl.com/l7v2lbt
  百万人目のあなたの参加が求められています!
( 心が臨界質量を超えるとは ⇒ http://tinyurl.com/5kr6f

『国民の歴史 上』http://tinyurl.com/mtrmbzp
【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p72 】

2 時代区分について

2-0 時代区分について

歴史は科学ではない。地球上のどこにおいても妥当する客観的な法則に貫かれているわけではない。歴史は言葉によって語られて初めて成立する世界である。言葉というあやふやなものによってつくりだされる不確かな人間の知恵の集積であり、現代に生きるわれわれの未来への希望や不安や欲求と切り離せない、人間的解釈の世界である。

歴史はだから民族によってそれぞれ異なって当然である。国の数だけ歴史があっても少しも不思議ではない。国ごとに、あるいはせいぜい大きく見ても、限られた文化圏ごとに、歴史意識そのものにいちじるしい差異が認められるからである。


2-1 文化圏ごとに異なる歴史意識

たとえば、キリスト教文化圏では、人は事実の一回性にこだわり、過去の行為の絶対性を意識し、したがって記録保存の価値を疑わない。それでいて、というよりそれだからこそ、ヨーロッパでは歴史には進歩があり、目的があり、終末があると考えられている。三つに分けられた時代区分、すなわち古代、中世、近代の三区分法はこのうえもなく西洋的であり、キリスト教文明圏に特有のにおいが強い。

中国は各王朝の自己正当化の歴史を持つにすぎない。前の王朝を批判し、今の王朝の正当性を主張するためとあれば、事実をねじ曲げることもさして省みない。古代史から教訓を引き出し、現代の自分につごうよく解釈することにも大きなためらいはない。中国人は神秘主義的宗教意識よりも、合理主義的歴史意識に立ち勝っている。だから、中国文明は歴史の文明であるといわれるが、現代のわれわれが考える事実の客観性ということをめざすものではない。中国史はどこまでも王朝交代の歴史である。王朝が天の命を受けて改められ変わるたびに、歴史は一から新しくなるのである。

一方、インドには歴史意識そのものがないといわれる。たとえば聖典ヴェーダは、おおよそ紀元前1500年から前500年ぐらいに漸時成立をみた、という程度のことしかわかっていない。インド人は悠久無辺のいわば無時間を生きている。時間は過去から未来へ直線をなして進むのではなく、永遠に同一のものが繰り返す円環をなしているのである。

日本は、以上述べたどの文化圏とも異なっている。異なった独自の歴史意識を持っている。それはヨーロッパとも中国ともいちじるしくタイプを異とするものである。詳しくはこれから考えるのだが、ごく大雑把に言って、無意識のうちに連続性の観念を抱いているのが日本人の歴史意識であるといってもさしつかえないのではなかろうか。

広いこの地球上で、ともあれ歴史意識を強く持っている文明は限られている。地中海沿岸と、日本を含む東北アジアにほぼ尽きる。われわれは当然他の文明圏と異なる日本独自の歴史意識に基づいて、自国の歴史を回顧し、探求し、展開することが必要であろう。しかしながら、日本人が今、学校で習っている日本史も、歴史学会が研究に従事しているそれも、ヨーロッパ中心史観に大略沿うていることが、ここで疑問とされ、検討されねばならない。古代、中世、近代という例の三区分法である。

日本史は現在、通例、古代、中世、近世、近代と四つの時代区分によって研究が行われ、教育の場にも持ち込まれている。これが日本独自の歴史観念に由来するものではなく、ヨーロッパ産の時代区分を日本史にあてはめ、どことなくこれと一致しない江戸時代のみを近世として別扱いし、無疑問に今日に及んでいる。しかし近世などという奇妙奇天烈な時代区分を用いている歴史学会は、日本のほかには世界のどこにもない。

★これらの記事を発想の起点にしてメルマガを発行しています。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 平成26年-Q4 メルマガ『心... | トップ | 世界最古の縄文土器文明――西... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事