電脳筆写『 心超臨界 』

何もかもが逆境に思えるとき思い出すがいい
飛行機は順風ではなく逆風に向かって離陸することを
ヘンリー・フォード

袁世凱はお手盛りで皇帝に就任した。これが危機を招いた――古荘光一さん

2012-03-16 | 04-歴史・文化・社会
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誰が「南京大虐殺」を捏造したか[3]
古荘光一・フリージャーナリスト
【「WiLL」2012年4月号
http://tinyurl.com/74bcyp6、ワック出版、p279 】

  ◆清朝の末期症状
  ◆反乱軍、敵将を頭に戴く
  ◆北京の中華民国
  ◆無能さらけ出す孫文
  ◆孫文の亡命騒ぎと反乱
  ◆テロに走る袁世凱

◆テロに走る袁世凱

少し後戻りする。袁世凱を元首とする政府は1912年12月から翌年2月にかけて、国会議員選挙を実施した。結果は、同盟会など共和派の勝利だった。

袁世凱は困った。自らの野望達成への第一歩として国会で正式に総統に任命されることを期待していたのに、目論みが外れた。

そこで袁世凱は共和派を潰しにかかる。買収可能な議員は買収し、買収に応じない相手は暗殺した。一連のテロで有名なのは、1913年3月に起こった「革命党」(のちに孫文が組織する「革命党」とは別)の宋教仁(そうきょうにん)の暗殺である。国会に出席するため、上海から汽車に乗ろうとした瞬間に狙撃されて死亡した。

袁世凱は、一連のテロのあとに開かれた国会をゴロツキどもに包囲させて脅し、総統指名を取り付けた。

やがて、袁世凱は帝位に登る意図を明らかにする。当然、共和派は反発し、袁世凱は打倒に動いたが失敗し、孫文も鉄道相を解任され、日本に亡命して「革命党」を結成した。

袁世凱はお手盛りで皇帝に就任した。これが危機を招いた。1915年12月、軍隊を擁する地方の長官が相次いで反旗を翻(ひるがえ)したのだ。

これを見た袁世凱は、即位後、わずか80日あまりで訂正を取り消し大総統に戻ったもののよく1916年6月、病死した。

袁世凱の死後、副総統だった黎元洪が昇格し、黎元洪は段祺瑞(だんきずい)を国務院総理に任命した。

黎元洪はさらに、西南部の独立派との間を調整してもらうため、徐州にいた実力者の張勲(ちょうくん)を北京に呼び寄せた。これが裏目に出た。

張勲は北京に着くと直ちにクーデターを起こし、溥儀を再び皇帝につけ、黎元洪や段祺瑞を追放した。

天津に逃れた段祺瑞は手勢をまとめて反撃し、張勲を追い出して1917年、通産四度目の段祺瑞内閣を組織した。

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