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王粲、東西奔走ス

 やっぱりサクサク三国志にはドラマがあります。

 昨日一緒にゲームマーケット用の広告やPOPなどを作って貰う都合、連れにサクサク三国志のルール説明を兼ねて、プレイしました。連れは豫州に割拠する袁紹。×△と2マークなんで、配下の武将を得やすいかと思ったのですが、今回は全般的に有名どころの強い武将が初期に出なくって、連れは仕方なく袁紹と×つながりでマークが×○の王粲を選び、○○の武将を出すことを考え、将軍として場に場してゲーム開始です。

 王粲って劉表に仕えその後曹操の元で働き、建安七士に数えられる文学者です。優れた記憶力を持っており儀礼など文書を手掛け、魏建国に貢献した逸材ですが、戦争に出る将軍でなければ、策を練る軍師でも無かったので、『三国志』ではかなりマイナーな政治家です。
 一応、その政治能力をかって政治のみ4※をつけていたのですが、これが袁紹軍きっての政治家となり、また折りしも連れの手札が戦争に適さないカードばかり引く為、王粲は弘農に赴いては住人に袁紹への帰順を説いたり、敵国の支配下になった陳留に間者を出しては暴動を起こすように仕向けたりと、東西奔走の活動を行います。必ず袁紹の手番で使用されるぐらいの働きっぷりです。
 ゲーム中、有名どころの諸葛亮や荀イクなどの名軍師は、空白地の勢力のところで出てきては、さらにマークが合わずに使用されることなく消えていく中、王粲は最後まで袁紹を支え活躍し続けます。
 
 その後、王粲の陽動で手薄になった袁術軍の文聘を、下ヒの戦いで袁紹配下の黄忠が打ち破ったことで、パワーバランスが一挙に逆転し、袁紹は中原一帯を制圧します。そして遂に袁紹は皇帝に即位してゲームエンドです。
 これだけ大活躍した王粲ですが、皇帝 袁紹に請われて丞相に推されますがこれを辞退。庵に籠もって「英雄期」の編纂に晩年を費やしたとサ。ちゃんちゃん。
 
 と言った具合のまさかの展開でした。
 
※現在、再検討によって王粲は1/1/4/2を是正して 1/1/3/3 となっています。
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サクサク三国志:袁紹

所属:独立
年齢:約47歳(200年の時)

 三公の家柄と言われる汝南袁氏の御曹司。袁術は異母弟で従弟でもあると言う間柄です。若いときから威厳がある風貌で、しかも名門出身を鼻に掛けず謙虚に接した為、多くの人に慕われ、洛陽で彼を尋ねる客は後を絶たなかったといいます。この時期に曹操や、許攸らが仲間となっています。
 その後、何進と宦官勢力の一掃を計画しますが、何進がまごついている間に先手を打たれ、何進は殺されてしまいます。これに対して袁紹は袁術と共に宮中に兵を入れて宦官を誅殺します。
 その後、董卓が朝廷で実権を握るとその董卓と衝突し洛陽から退避します。一時、董卓は袁紹の首に賞金を掛けますが、官僚がこぞって袁紹を殺すことに反対し、代わりに懐柔することを勧めた為、渤海太守の地位を与えます。しかし、袁紹は渤海太守の地位を使って兵を集め挙兵し、反董卓連合に参加しその盟主となります。反董卓連合は袁紹も含め各諸侯が自軍の保全を図った為、戦うことなく瓦解します。その後、袁紹は董卓に対抗する為に、皇族である幽州牧 劉虞を皇帝として担ごうとします。しかしこれは清廉潔白な劉虞に丁重に断られます。
 次に袁紹は逢紀の献策に従って韓馥から冀州を奪います。土地だけでなく配下の名士も自身の配下とした為、その勢力は強大になります。特に新しく配下となった沮授の意見に従って、東の青州には客将 臧洪を派遣して制圧、冀州の西側を荒らしていた黒山賊には同じく袁紹を頼ってきた呂布を派遣して討伐、北の幽州 公孫サンには元韓馥の配下で対騎馬戦のスペシャリスト 麹義を派遣して撃破したことで、冀州を中心とした四州を支配下に置くと言う一大勢力を築きます。この時、南のエン州を抑える曹操と、荊州の劉表と同盟関係にあったので、袁紹派と考えれば漢の領土のほぼ半分を影響下においていたので袁術よりも皇帝に近かった存在でした。
 その後、情勢は袁紹と曹操の対決になります。曹操も献帝を保護したこともあり、司隷・徐州・豫州を影響下に置いていました。しかし、肥沃で人口の多い袁紹の華北に比べて、曹操の中原は荒れ果てており、保有兵力には大差がありました。袁紹はその過信からか曹操が劉備を討つ為に南下すると言う絶好のタイミングでの奇襲を息子の病気を理由に行わず、またその後長期戦を挑めば生産力の差から曹操が自滅すると言う軍師 田豊の献策にも従わず、あえて短期全面戦争で曹操を潰しに掛かります。こうして開かれたのが官渡の戦いです。
 官渡の戦いでは初戦で勇将 顔良・文醜を討ち取られるなど思わぬ反撃を受けますが、物量で勝る袁紹軍はジワジワと曹操軍を追い詰めます。しかし、袁紹軍内での参謀同士の争いから、許攸が曹操に寝返り袁紹側の食料貯蔵庫の在り処を教えた為、そこを強襲されたことで、戦争を継続できなくなり大逆転負けします。その後の倉亭の戦いでも負け、冀州に撤退せざる得なくなります。この戦いで顔良、文醜の他に淳干ケイ、沮授が討ち取られ、許攸の他に張コウ、高覧が寝返り、また逢紀の讒言によって田豊を処刑するなど、多くの人材も失っています。
 しかし、袁紹はその後冀州で起こった反乱を鎮圧し、曹操よりも有利な立場を維持しつつけます。曹操も袁紹存命中は更なる追撃を行うことは出来ず、再度曹操が進撃を再開するのは袁紹が202年に病死し、後継者争いが勃発してからになります。
 
 統率は戦争が上手というほどではないものの大軍を率い、自らも率いていたことから3、武力は一騎打ちの記述はさすがに無いですが、まったく剣を振えなかった訳ではないので2、政治は冀州に安定した基盤を作っていたことから3、知力は悪くは無いのですが後半、連続的に悪い献策ばかり取り上げたことと、自らが策を練ることが無かったので2としました。

 一大勢力を築き上げ、英傑と言っても良い人物(負けたのは歴史上名だたる曹操ですから)なのでもう少し評価してあげたいのですが・・・2マークという事で。
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サクサク三国志:袁術

所属:独立
年齢:約46歳(200年の時 ※45歳で死亡)

 三公の家柄と言われる汝南袁氏の御曹司。袁紹は異母兄で伯父の養子となった為、従兄でもあると言う間柄です。若いときは仲間達と義侠心ある行いをしていましたが、後に改めて仕官するようになります。
 宦官が何進を殺すと、袁紹と共に宮中に押し入って、宦官達を切り殺しまくります。その後、董卓が朝廷を牛耳ると、董卓から後将軍位を貰いますが害が及びそうなり、荊州南陽に逃れます。そこで兵糧を与える条件で孫堅に董卓を攻撃を仕掛けさせます。董卓を洛陽から追い払うと、次は豫州の支配権を巡って袁紹と争います。これによって各地の群雄は袁術派、袁紹派に分かれるようになります。袁術派となったのが孫堅、公孫サン、陶謙。袁紹派となったのが曹操、劉表などです。
 豫州の支配権は公孫サンの弟公孫越が戦死するも、袁術側が勝利を収めます。しかし、その後劉表を攻めさせた孫堅軍は孫堅の死により敗退。翌年、袁術は配下の武将を使って曹操を打つべくエン州に攻め入りますが、その隙を劉表に付かれ南陽を追われます。
 袁術は揚州に移動し、寿春を攻め落として今度は寿春を拠点として孫堅の遺児 孫策を使って揚州の各地を攻めさせ、支配地域を広げます。
 徐州の劉備が朝廷(曹操)の勅により袁術の討伐に動くと、劉備の客将として徐州に残る呂布に兵糧を与える条件で、劉備の背後を突くように依頼、これによって呂布は劉備の本拠地 下ヒを占領した為、劉備は撤退せざる得なくなります。袁術はこのドサクサに徐州の一部を剥ぎ取って自領に組み入れています。
 197年袁術は、孫策から得た玉璽を使って皇帝の即位を宣言しますが、曹操の元に後漢の皇帝が存続していた為、この即位は誰も認めず、配下の孫策も袁術を諌める書状を送り、以後は自立してしまいます。 
 その後、袁術は呂布と約束した兵糧を出さなかった為に関係が悪化します。これに対して袁術は自身の息子と呂布との娘を婚姻することで同盟を行おうとします。これは陳珪・陳登によって阻まれ、これに怒って軍隊を派遣しますが、これも陳珪の離間の策によって楊奉が寝返った為に敗退してしまいます。
 さらに曹操が進軍してくるとこれを迎え討たせますがこれにも敗退、また地盤の寿春でも悪政がたたって維持できなくなり、寿春を捨てて元部下を頼ろうとするも断られ、袁紹を頼ろうとする最中に病死します。その死に様は蜂蜜入りの飲み物を所望しますが、得ることが出来ず「袁術ともあろうものが、こんなざまになったか!」と怒鳴り2リットルも吐血して死んだとあります。
 袁術は豫州の汝南出身で、ここには荀イクや、郭嘉、許攸など多くの名士が居ましたがその殆どが袁紹、そして後に曹操を君主と仰いでいます。一方袁術は変わりに、楊奉などの放浪する武将を軍隊ごと受け入れています。これによって袁紹と互角に渡り合えるほどの兵力を保持しますが、それらを維持する為に南陽や、寿春だけでは養いきれず、結果住民から搾取することとなりました。

 統率は自ら軍を率いることも無ければ、軍を率いることは苦手と書かれているため1。武力は若いときに剣を振っていたので2、政治は拠点とした南陽や、寿春から搾取するだけで内政らしいことを行っていないので1、知力は失敗した策謀もありますが、多くの計略を巡らせていたことから3としました。
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サクサク三国志:徐庶

所属:劉備→曹操
年齢:約22歳(200年の時)

 もっとも演義のイメージが定着してる人物です。正史では、若いときには剣術に打ち込み撃剣の使い手となり、その技で友人の敵を討つなどの義侠家でした。しかし、人を傷つけることに虚しさを覚えたのか、以後は学問の道を進みます。
 荊州に移り、諸葛亮と同じく司馬徽の門下生となります。そして荊州に有名な劉備が逃れてくると会見し、劉備の軍師として諸葛亮を推薦します。劉備がそれならと連れて来るように命じますが、徐庶は劉備自らが訪れるよう勧めたことで、三顧の礼が実現します。その後、曹操が劉備を追い払い荊州を支配するようになると、そのまま曹操の配下となります。以後は政治家として御史中丞にまでなります。
 これだけです。伝が立てられていないのでこれ以上が何も無いのです。それなのに演義では、劉備の最初の軍師として仕え、攻めてきた曹仁を計略で華麗に撃退し、その事で曹操に目を付けられ、程の策で偽の母の手紙によって母が人質になっていると知らさせ、泣く泣く劉備のところを去ります。その際に諸葛亮を紹介することと、曹操の為には一切献策をしないと誓いを立てます。さらに後に赤壁の戦い際にも登場し、ホウ統の連環の策を見破って見せます。
 演義でもその登場は僅かなのですが、あまりにも華麗で義理堅く描かれている為、ファンが多い1人です。
 
 その能力は、演義をまったく加味しなかれば×□のマークで1/2/3/3ぐらいでしょう。しかし、これだけ有名な徐庶をこんな凡庸な能力にしたくなかったので、徐庶については演義の記述を参考にしました。またファンの間では、徐庶は劉備との誓いを守り曹操陣営ではわざと活躍しなかったのは事実では? と言う熱望がありますので、それを是としました。
 統率は軍を率いるのにも問題ない武闘派軍師なので3、武力は撃剣の使い手ですが実戦は少ないので2、政治はほどほどで3、知力を文句なしの5としました。マークは、劉備だけに仕えることを望んでいたので、他のマークは付けず□□です。
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サクサク三国志:夏侯惇

所属:曹操
年齢:約44歳(200年の時)

 曹操の従兄弟として曹操の旗揚げの時から従軍します。
 陶謙との徐州戦の最中、陳宮の策謀でエン州の各地が離反し、呂布軍に付くと、速やかに鎮圧に取り掛かりエン州が奪われるのを防ぎます。しかし、その後の呂布の攻防で曹操の家族を護衛中に呂布軍に捕らえられてしまいます。ことのときは副官の韓浩の活躍により救い出されています。その後の本格的な呂布討伐が行われると、戦いの最中に流れ矢が左目に当り負傷してしまいます。これ以降、盲夏侯とあだ名されます。演義ではこのときのシーンが誇大され、親に貰った左目を捨てられるかと、左目を食ったことにされています。
 その後、陳留に太守として赴任してそこで治水や開墾などの屯田を行い、内政に尽力します。袁紹戦では後詰、さらにその後の劉表の客将となっていた劉備が新野から幾度と無く侵攻してきますがこれを迎撃し、さらに味方の李典が止めるのも聞かずに追撃して、伏兵にやられその李典に助け出されています。
 赤壁の戦い敗戦後は、張遼などを指揮して揚州方面の総指揮官として留まります。魏軍が関羽との戦いが本格化すると、曹操は夏侯惇を呼び寄せます。当時、王位を得ていた曹操は、同じ車に夏侯惇を乗せたり、寝室への自由な出入りを認めたりと、曹操は破格の待遇で接します。まさに家臣としてではなく友として扱った為「不臣の礼」と言われました。夏侯惇自信は、規律を守る為にも特別待遇されることは望んで居なかったようです。
 暫くして呉に備える為に寿春に赴任し、その直後に関羽を討伐した曹操は後を追うように病死します。曹操は、もしかしたら竹馬の友だった夏侯惇に最後に会いたかったのかもしれません。その夏侯惇も曹丕が後を継ぐのを確認してまもなく曹操の後を追うように病死します。
 
 戦争は意外にも負け戦が多く、戦術面でも屈指の強さはありません。ですので統率は良将ぐらいの3、武力は夏侯淵よりも一騎打ちの記述が多いのですが、こちらも負けは引き分けが多いです。しかし、片目を失っても奮戦するところと、他に4のつけどころが無かったので武力は4としました。政治は、夏侯淵と同じく後方での活動や軍の統括、そして屯田などを行っていることを評価して3、知力はあるとは思うのですが、計略に引っかかってしまうところを愛嬌としたく、強調して1としました。
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サクサク三国志:徐晃

所属:曹操
年齢:約35歳(200年の時)

 魏の五将軍の1人です。夏侯惇や夏侯淵、張遼に比べると若干マイナーですが、実は常勝無敗の戦績を持つ「常勝将軍」です。徐晃は初め車騎将軍 楊奉に仕えます。楊奉に献帝の保護を訴えたり、曹操に帰服を勧めるなど適切な進言をしますが、最終的に楊奉が曹操と敵対した為、以降徐晃は曹操の元で働くこととなります。
 その後の活躍が凄い! 呂布戦では呂布配下の2将軍を降伏させ、さらに曹操に反乱を起こした劉備を下し、その後の官渡の戦いでは、白馬で主力を率いて顔良と戦い、関羽が顔良を討ち取れる状況を作り出します。さらに文醜の部隊を迎撃し、その後も袁紹の兵糧輸送隊を襲って焼き払うなどの戦果を上げます。
 その後も袁譚・袁尚の討伐、荊州、西涼と各地で功績を挙げ続けます。潼関の戦いでは曹操軍が渡河できない状況に対して、別働隊を率いて、敵の背後を突く動きをした為、これによって曹操軍が渡河でき勝利に貢献します。そして、夏侯淵を失い大敗した定軍山の戦いでも実は別働隊を率いて、蜀の陳式を討ち取るなど1人だけ功績を上げています。
 そしてもっとも活躍したのは、樊城の戦いです。魏の荊州の要である樊城を関羽が包囲、援軍に出した干禁らが水攻めにより、大敗した後での救援です。とり急いだ為、徐晃の率いる兵は新兵ばかり、この急を要する事態でも徐晃はあせらず状況分析を行い、樊城が持ちこたえると踏んで、更なる増援部隊が来るのを待ちます。そしてその増援がくると樊城の近くの城を攻め無血開城させると、そこを拠点としてさらなる増援の到着を待ちます。十分な兵が集まると遂に関羽を攻めます。その際、関羽が拠点としている囲頭と四家のうち囲頭に攻撃を仕掛けると将兵に伝達します。これは関羽の間者によって知ることなり、関羽は囲頭を重点防備します。しかし、徐晃は攻撃当日に四家への攻撃に切り替えた為、関羽は急遽四家への救援に赴くことになります。その部隊を徐晃は打ち破り、関羽は樊城包囲を解いて撤退する事となります。
 この戦果を聞いた曹操は、徐晃は春秋戦国時代の兵法家 孫武にも勝ると絶賛します。さらにその功績を祝う酒宴の際、徐晃の兵のみが宴にも浮かれずに規律正しくしていることにさらに感銘を受けたといいます。
 その後もいくつかの功績を上げ、結局敗戦することなく、曹叡の代に病死します。
 
 常に戦いに勝つ為の戦略を巡らせ、また負けた場合のことも念頭に置いていたといい、その結果 常勝無敗でしたので、統率は5としました。武力は演義では大斧の使い手ですが、実際は指揮官として戦いに望んでいる為、3としました。政治は行っていないのでほどほどの2、知力は情報戦に卓越していましたが、その点も統率にいれたので2です。統率4で知力3と言う選択もありましたが、その能力は張コウにしました。
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サクサク三国志:夏侯淵

所属:曹操
年齢:約38歳(200年の時)

 曹操の従兄弟として曹操の旗揚げの時から従軍します。夏侯淵は「三日で五百里、六日で一千里」と言われるほど行軍が早く、また当人も勇猛果敢で、弓の名手だったこともあり、前線指揮官のイメージが強いのですが、この夏侯淵は補給輸送などの後方支援も得意としていました。特に官渡の戦い後の袁譚・袁尚との戦いでは、エン州・徐州・豫州からの兵糧の取立てから輸送までを完璧にこなし、前線への供給を滞りなく行い、勝利に貢献しています。
 また、曹操の支配地域が広まることで、広くなった領内をものともせずに、反乱が起こった地域に迅速に行軍しては鎮圧します。
 赤壁の戦い後は曹操が韓遂・馬超を討伐する潼関の戦いに従軍します。その後、徐晃や張コウを率いて再び抵抗を見せる韓遂・馬超を打ち破り、さらに安定の楊秋や、西涼の羌族、河首平漢王の宋建などを下し、さらにこの過程で漢中の張魯が曹操に降伏したことで、涼州一帯を支配下に置きます。曹操は引き上げる際に、これらの功績により夏侯淵を征西将軍に任命し、西方における総司令とします。
 この魏の漢中支配に危機感を持った劉備軍が漢中に侵攻した為、夏侯淵は一進一退の攻防を繰り広げます。しかし、次第に劣勢になり本陣のある定軍山まで追い詰められます。劉備軍の猛攻に張コウが苦戦すると、夏侯淵は自らの部隊から半分を裂き、援軍に回します。これを勝機と見た劉備軍参謀の法正は黄忠に夏侯淵本陣を叩くことを進言。黄忠は夏侯淵の背後に回りこむと突撃を掛けます。夏侯淵もさらに黄忠を迂回しさらに背後に回りますが、多勢に無勢討ち取られてしまいます。

 方面軍司令官を任されるなど、軍全体の統括や、統治まで含めたトータル的な能力は最高クラスですは、戦術だけに特化した場合、徐晃や張コウよりは劣ると考え統率は4としました。武力は弓の名手でしたが、戦場での一騎打ちの戦果があまり華々しくないのと、その戦い方は個人の武勇ではなく、軍のを率いて活躍するタイプのように思えて3、政治は後方での補給など軍務を一手にこなしていたこと、その地の住民を移動させてあたらな土地を与えたりしていたことを評価して3、知力は特に加点も減点も無いので、2としました。政治が3あるので、万能に近くこれが総指揮官らしさを表しているかなーっと
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サクサク三国志:張遼

所属:丁原→呂布→曹操
年齢:39歳(200年の時)

 後世、魏の五将軍の筆頭と評価される張遼です。最初は丁原の配下で、その後、何進の命で兵を集めに赴いている間に何進も丁原も殺されてしまった為、その軍団を引き継いだ董卓・呂布の配下となります。そして呂布が董卓を殺した後、朝廷を追い出されると、呂布と共にあちこちを用兵として転戦します。この呂布の元で戦いが張遼を成長させたのか、呂布軍の騎兵一万を率いるほどに頭角を現します。しかし、その呂布も曹操に敗れたことで、曹操に仕えることになります。
 そこからの活躍が目覚しく、袁紹戦では客将だった関羽と共に白馬で先陣を務めて顔良を破り、その後の袁尚戦でも華北一帯を転戦してあまたの功績を挙げます。張遼は単に武勇が優れているだけでなく、相手に降伏を勧めるために使者として単身乗り込んだり、客将として曹操の元に居た関羽と親交を深めるなど、良い人柄が残っています。
 赤壁の戦いの敗戦後、曹操は引き上げる際に合肥に守りの要として張遼を駐屯させます。215年に孫権がこの地を制圧すべく10万の大軍を率いてくると、李典とともに合肥城を死守します。それまで李典とは折り合いが悪かったのですが、「国家の危機に私怨は問わない」として協力して守ります。さらに曹操から方策を得るとそれに従って、孫権軍が取り囲む前に僅か800騎で夜襲を掛けます。これによって、孫権軍は突き崩され本陣まで迫る勢いでした。孫権も自ら矛を振って撤退戦を行う有様でした。孫権は直ぐに大軍を使って張遼を幾重にも包囲しますが、張遼は奮戦し続け包囲を破ってしまいます。その際、部下が取り残されると再び呉軍に突撃し、部下を救出したのち撤退すると言う神業的戦いを行います。
 このあまりにも勇猛な戦いに呉軍は攻めあぐね撤退します。そこをすかさず追撃を行い、孫権を後一歩まで追い詰めます。この時は呉の凌統が身を挺して孫権を守った為、孫権はからくも逃げることが出来ました。この戦いが評価され張遼は征東将軍を任せられます。これは曹操の一族である夏侯淵と曹仁がそれぞれ征西将軍、征南将軍となっている中、唯一一族以外での抜擢であり、それだけに曹操が張遼を高く評価していたことが伺えます。
 その評価通り張遼は以後も合肥に駐屯し呉の侵攻を許さず、呉ではあまりの勇猛さから「遼来来」(張遼が来るぞ!)と言うと泣く子も黙ったという逸話が生まれるほどでした。
 
 一騎打ちではないのですが僅かな兵での鬼神のような活躍を評価すると武力は5でしょう。統率はさすがに武力と共に5と言う訳には行かなかったので4としました。合肥の守備は評価できるのですが、逆に侵攻しての攻撃の活躍や、大軍を率いての活躍の記述が少ないと言ったのも4で止めた理由です。政治は行っていないのでほどほどの2、知力も献策ということはやっていないので2です。
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サクサク三国志:劉基

所属:劉繇→孫策→孫権
年齢:約14歳(200年の時)

 普通はゲームでは扱わない劉繇の子の劉基です。ゲーム上10人目の群雄として劉繇を採用したので自動的にその息子 劉基の採用も決まりました。しかし、実は史書に記述が無かったり、凡庸だった訳ではなく、そこそこ経歴や逸話まで残っている有能な人物です。
 劉基は、父が孫策に追われて豫章で没したため、そこで慎ましく家族を養って暮らしていました。そこにかつて父の部下だった者が現れても、見舞品などは一切受け取らず、深い関係にはならないようにしていました。もし、父の部下と深く関われば次第に多く旧臣が集まってしまい、それはじきに豫章をも支配下に治めるであろう孫策に敵対することに繋がりかねないと言う聡明な判断からでした。

 そして暮らしているうちに孫策が豫章を治めると招かれ、仕官することになります。劉基は史書に記されるほどの美青年で、孫策の後を継いだ孫権に気に入られます。またそれだけでなく、特に内向きの政治が得意で財政を管理する司農や、宮中を管理する光禄勲などを歴任します。そんな彼を孫権は大変気に入っており、あるとき孫権が船上で酒宴を開いた際に、突然の雷雨に見舞われました。皇帝たる孫権は大きな傘を差し雨宿りします。しかし、家臣は皇帝と同列と言う訳にはいかないので、傘をさせずにスブ濡れです。しかし、孫権は劉基にも同じ傘を差し掛けるよう命令したとあります。どうでしょう!この気に入りようは!
 また、気骨がある逸話も残っています。あるとき、酒宴で孫権は自分を侮辱した虞翻に腹を立てて、酔いに任せて殺害しようとした。しかし、劉基が懸命に諌めた為、虞翻は救われます。さらに孫権は酔いが冷めた後、反省し自分が酒を三度呑んだときの殺害命令は聞かないよう周囲に厳命したとあります。

 そんな劉基は、僅か49歳で病死します。その死の際の贈り物の量は張昭に匹敵したといいます。

 さて、能力ですが戦いの記述が一切無いので、統率と武力は1です。内向きの内政官という事で、政治4(少し上げすぎの気もありますが)の、知力は逆に落として2としました。
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サクサク三国志:劉繇

所属:後漢(独立)
年齢:約44歳(200年の時)

 マイナー君主、劉繇です。演義や某ゲームですと単なる孫策のやられ役の劉繇ですが、実はかなりマシな君主なのです。劉繇はどこかの誰かとことなり、劉邦から連なる直系の末裔です。しかも19歳の時盗賊に捕らわれた叔父を救出をやってのけ、仕官しては賄賂を行う上官を訴え、まさに血筋良し、頭良しで正義感もある人物です。
 茂才に推挙に推挙された時、既に兄も推挙されていたことから、2人もか?と渋られた際、推挙した者はこの2人の兄弟を推挙するのは2匹の龍を得るようなものとまで言ったそうです。

 そんな劉繇が戦国の世に登場するのは、193年前後に揚州刺史に任命されてからです。この時、揚州の治所である寿春には袁術が割拠して近隣に侵攻を繰り返し、民を苦しめている状況でした。そんな袁術を討伐しようと思った劉繇は、しかし今はその力が無いので、対岸の呉郡の曲阿に居を構えます。そこには袁術配下だった呉景と孫賁が居ましたが最初は友好な振りをして、その間に力を蓄えてそして2人を追い出してしまいます。怒った2人が攻めてくる際には樊能・張英・薛礼・笮融と言った豪族を配下にしており、寿春から対岸となる曲阿は攻め難く、1年経っても落ちない状況でした。
 この間、劉繇は対岸一帯を支配下に置き、守備を固めつつ良き統治を行い、さらに人材登用を行います。この中には太史慈や、後に呉の初代丞相となる孫邵らが居ました。これらの方策には人物鑑定家で有名な許劭が関わっていました。恐らく参謀的に数々の助言を行っていたものと思われます。そして劉繇は曹操(朝廷)に使者を出し、袁術を挟み打つ計画を立てます。

 順調な統治を見せる劉繇ですが、状況が一変する自体が置きます。袁術側から援軍として孫策が出陣し、呉景・孫賁軍と合流すると瞬く間に、張英らを各個撃破していきます。総兵力では劉繇軍の方が勝っていたのですが、劉繇軍は樊能・張英らがバラバラに軍を動かしていた為、そこを突かれてしまいます。これは劉繇自身や劉繇配下に軍全体を統率する者が居なかったからです。
 武勇誉れ高い太史慈も太史慈自身は1兵も兵を持っていないことと、許劭が嫌っていたため、劉繇は上手く扱うことが出来ず、ただ偵察の任務を与えるだけでした。

 かくして曲阿は陥落します。劉繇は最初、友人の王朗がいる会稽に逃げようとしますが、許劭が会稽が次に孫策が攻める場所になると考え、長江を遡って豫章に逃亡することにし、曹操や劉表の援助を期待します。しかし、豫章では笮融が反乱を起こし、劉繇はこれと戦い何とか追い出すことに成功したものの暫くして病死してしまいます。
 平安な世ならば良い政治家になったのでしょうが、乱世では成すすべがありませんでした。

 さて能力ですが、一応軍隊を率いて曲阿で孫策と戦っていること、そして笮融の反乱を鎮圧していることから最低限の2、武力はまったく体を動かせない文官ではなかったことから2、政治はマシな政治を行っており、有能であったことから3、知力も対袁術の戦略眼は確かだったことから3としました。悪くは無いのですがそれ以上では無い能力です。しかし、最も優れているのはマークです。もっともマーク数が多い×と、次にマーク数が多い○をマークをマークにしていることです。
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