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簡体三国志:諸葛瑾

所属:孫権
年齢:約26歳(200年の時)

 諸葛亮の兄です。三国志でもっとも物腰柔らかな人物と名高いです。孫策が亡くなり孫権が跡を継いだころで、孫権の姉婿に推挙され孫権に仕えることになります。孫権もかなり気に入り、何かにつけて「瑾!」「瑾!」と呼んでは相談したとあります。
 その信頼関係の深さを示す逸話として、劉備の使者として弟の諸葛亮が来た際に、諸葛亮を説得して仕えさせられないかと言われると、「私が我が国を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と言ったとされます。

 彼の能力としては、以外にも戦争で軍を率いたりしています(臨機応変ではなく手堅い、勝てないけど負けない用兵との評価)。また政治や献策も行ったりと、弟ほどではないにしろ有能でした。しかし、彼の最も有能なところは、孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく、諭すような感じで取り成し、また孫権と不仲になった者を取り成したり、弁護したりしたところかもしれません。
 
 蜀との間で何度も同盟の使者として赴いていることから、特殊「和睦」の能力としました。ちょっと悩んでいるのは、呉蜀同盟を推し進めた魯粛の方が「和睦」が適任かと言うことです。
 魯粛の能力が勿体無いですが、もしそうするなら、総指揮官もこなし、政治手腕に長け、献策も行っている諸葛瑾は、3/1/4/3ぐらいでしょうか・・・
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ウボンゴ<ゲームレビュー>

 昨日、自分のところで行ったボードゲーム会にて遊んだゲームです。各プレイヤーにパズルの題材である形の書かれたボードが配られます。で、砂時計が落ちる前に決められたブロックをボードの形に当てはめていき、最初の当てはめれたプレイヤー順に、3点、2点、1点と宝石を得ていくゲームです。勿論、砂時計が落ちる前に完成しなければ、点は得られません。
 ボードは40シートぐらいあり、その全てが題材となる形が異なりますし、また使うブロックはサイコロを振って出た目で3つないしは4つが決まるので、パズルのパターン数はかなり多いです。
 また、得られる得点もボード上から駒を動かして、宝石をその数だけ得るのですが、接戦になるように取得した数ではなく、取得した中で、同色で最大数となっているところも良く出来ていると思いました。

 じっくり熟考するタイプではなく、短時間で脳を振る活動させ、時間を気にしながらパズルを解くというのは、今までと違ったタイプのゲームで衝撃を受けました。
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簡体三国志:諸葛亮

所属:劉備
年齢:約19歳(200年の時)

 稀代の天才と言っても良い人物で、政治家・軍師としてだけでなく、発明家でもあり武器や輸送器具を考案したり、南征の際に現地の生贄の風習を改めさせるために代用品として饅頭を作った話もあります。
 しかし、若いときは戦乱を逃れて荊州で世捨て人の暮らしをしており、劉表が名士を優遇する人物だった為か仕官せずにいました。そんなおり友人の徐庶が劉備に諸葛亮のことを話したために、三顧の礼を持って迎えられることになります。一介の書生だった諸葛亮の元を左将軍だった劉備が3回も訪れたと言うのはちょっと諸葛亮の箔付けの気が少ししますが…

 諸葛亮は劉備と合うとまずは現在の劉備の置かれている状況を説明し、最終的に漢王朝再興を願うとしても、現状は北に曹操、東に孫権が割拠しているので、それに対抗できる第三勢力になることを目標とし、その具体的な方針として荊州・益州を領有することを勧めます。これが天下三分の計と言われる隆中策です。

 劉備と諸葛亮はこの方針に沿って、赤壁の戦いで第三勢力として孫権と同盟し、そして戦後は呉を退けて荊州の大半を所有。そして益州の劉璋を攻略し、順調に隆中策を実現していきます。そして、荊州・益州を足がかりとして、荊州から関羽が北上し洛陽を伺い、そして益州からは漢中を攻略し、そこから長安を伺い、漢王朝を再興する為に魏へ攻勢を仕掛けますが、呉が魏と手を組んだことにより、荊州を呉に奪われ荊州の要であった関羽を失ったことで、隆中策は頓挫します。

 そしてその後、劉備が病死すると、諸葛亮が丞相として蜀の実権を握って劉備の意思を継いで、魏への侵攻である北伐を幾度となく敢行するのです。しかし、成果を挙げることなく、五度目の北伐において五丈原で没してしましまいます。その死は過労とも言われ、細かい事務処理も一手に自身の手で行うほど異常なほど働いていたとされています。

 さて、相性を示すマークですが劉備とは合っていたのでしょうが、関羽などとは微妙な関係であり、また劉禅時代になって劉備の時代とは違った体制を築いていたことから、劉備・関羽などとは異なる□□としました。
 能力は、戦争に使用する統率は実は言われるほどではなかったと指摘があるとおり、1ランク落として4、武力は1、政治と知力のみ5としました。
 
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簡体三国志:張飛

所属:劉備
年齢:約33歳(200年の時)

 中国ではもっとも親しまれている武将だそうです。演義ですとどうしてもトラブルメーカー的な扱いを受ける張飛です。関羽と同じく、劉備に早くから仕えて、劉備が各地を転々とするのに付き従います。
 劉備が陶謙から徐州を譲られ、その後劉備が袁術と戦う為に遠征すると留守を任されます。しかし、陶謙の旧家臣曹豹と対立し、それにつけ込まれて呂布に徐州を奪われてしまう失態をしてしまいます。これが原因で、劉備は曹操の元に身を寄せることになります。その後、曹操が呂布討伐を行った際は劉備とともに従軍し、その戦いでの功績を上げて曹操より中郎将に任命されています。
 しかし、劉備が曹操に背き、袁紹・劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦します。そして張飛のもっともの晴れ舞台は、「長坂橋大喝」です。荊州の劉表に身を寄せていた際に、劉表の病死によって曹操が侵攻してきます。劉備は妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様で、そんな中、張飛は殿軍を任され、長坂において敵軍を迎え、わずか二十騎の部下とともに川を背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た。とあります。
 この時、曹操軍は勝ち戦を進めており、兵たちもこれで生き残れば報奨にありつける状態なのに、猛将として名高い張飛に敢えて挑み、死ぬ危険を冒したくないと言う気持ちがこの状況を生んだとされます。

 いずれにしろ、張飛が曹操軍にも有名が轟くほどの猛者だったのは確かです。

 その後、益州攻略においては、巴郡太守の厳顔を生け捕りにしたり、漢中戦では張郃の軍を撃退するなど、武功を上げ続けます。しかし、その最後はあっけないものでした。

 劉備が関羽の仇を討つため、呉に対して戦の準備をしている最中、かねてから張飛に恨みを抱いていており、この際に呉に寝返ろうと企んだ部下の張達・范彊に寝首をかかれてしまいます。張飛は関羽と逆で、部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であったのが災いしたと言われています。

 最後に、張飛の妻についてです。妻は魏の夏侯淵の姪とも言われる夏侯一族の娘で、200年頃劉備が曹操に攻められ袁紹のもとに身を寄せていたときに、劉備と合流できないで居た張飛が山賊まがいに少女(だって当時14歳ぐらいだもの!)ををかっさらったところ、その少女が夏侯一族だと判明し、後日正式な妻として娶ったとあります。
 普通なら自決しそうな少女ですが、その後も張飛に付き従って入蜀し、張飛との間に生まれた娘は劉禅の妻、つまり皇后になっています。

 さて、その能力は武力は屈指なので5、政治・知力はそれを使った活躍が無いので1、統率はさすがに主人公クラスの贔屓目も加味して4としました。4/5/1/1なら能力が偏っていて楽しいと言うのもあります。
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簡体三国志:関羽

所属:劉備
年齢:約38歳(200年の時)

 神にまでなった男、関羽です。年齢は劉備より1歳年下ですが、年上だった節もあるみたいです。中国最大の塩湖である「解池」で生まれ、暴利を貪る塩商人を殺してしまった為幽州に逃げ、そこで劉備に出会い仕えるようになります。
 以後は、劉備に同行し各地を転戦します。

 関羽の最初の見せ場は、猛将 華雄を勧められた酒が冷めないうちに斬った話ですが、これは演義だけの話。しかし、その後、徐州で劉備の妻子と共に曹操降ると、曹操の客将として、官渡の戦いで突出した顔良軍に突っ込み、顔良を討ち取ってその首を持ち帰ったのは、魏書にもある話です。
 こうして曹操への義理を果たしてから、劉備の元にいくのです。

 赤壁の戦いで劉備が荊州を得て、そして益州を得るために留守にすると、荊州を預かることになります。この時の荊州は北から曹操が配下の楽進に何度も国境を侵させており、また東の同盟国の孫権は好きあらば、荊州の返還を目論むと言った難しい情勢でした。そして、益州を得た劉備側が荊州の返還を拒むと、孫権は実力行使に移り荊南の長沙・桂陽・零陵を攻略します。これに関羽が援軍として出兵すると呉蜀同盟が終わるかと思われましたが、魯粛との話し合い(単刀赴会)により、長沙・桂陽の返還と同盟の維持が決定します。

 その後、曹操時代に関羽の部下だった侯音と内通し、宛で曹操に対して反乱を起こさせたのを皮切りに、関羽は水陸両軍を率い、樊城を守る曹仁を攻撃します。曹操は曹仁の援軍として、于禁・龐徳を援軍として出させますが、龐徳は討ち取られ于禁は投降してしまいます。
 この関羽の猛攻は凄まじく、また曹操軍内部でも反乱者・内通者が続出するなどして、曹操は一時遷都まで考えたと言われますが、この関羽の猛攻を封じたのは、司馬懿の計略と、呉の呂蒙でした。
 司馬懿は荊州問題で劉備に不満を持つ呉に荊州を与える約束をすることで味方に引き込みます。これによって関羽は留守にしていた本拠地の江陵・公安を呂蒙に奪われてしまいます。
 後方の支援を絶たれた関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権軍に降伏、そして関羽と養子の関平は退路を断たれ、潘璋の部下の馬忠に捕らえられ、斬首されます。

 死後、曹操・呂蒙が病死したことで、関羽の祟りと噂されます。またその功績や義理堅さ、ヒロイックなところなどから、神格化され関羽は道教の神となります。

 さて、能力は 武力は間違えなしの5です。統率も多くのゲームや他の評価でも最大級なのですが、意外と軍隊戦は最後の樊城の戦いの前半の凄さぐらいなんですね。まあ半生はそんなに多くの軍隊を率いるチャンスも無かったでしょうが…
 それでも屈指であるでしょうから統率も5、これで2マークで5を2つ持つと言う、このゲームで最強キャラの1人となります。政治は荊州を任させていたのですが、荊州を奪われる原因となった「士大夫を見下す」という悪癖がありその行政の行い方などに問題があったと思われるので2、知力は樊城の戦いが単なる戦争だけでなく、魏に多くの内通者を出させるなどの策謀が行われていたことなどから3としました。

※2マークだと、例えば○○の1マークの陸遜に比べて、付けられる手持ちカードの種類が多くなるのでかなり有利です。その点も加味して、計算した武将番号(脇の水色の数字)は、98と高い数値を出しました。
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簡体三国志:劉備

所属:独立→(公孫瓚)→(陶謙)→独立→(呂布)→(曹操)→(袁紹)→(劉表)→独立
年齢:39歳(200年の時)

 三国志の主人公の1人です。前漢の中山靖王劉勝の末裔と称していますが、単なる自称でそれを証明するものはありません。父が早く亡くなった為、家は貧乏で筵を織って生活していたと言うのは有名な話です。
 それでも地方豪族の家柄ですので、少しは財があった叔父の援助で、儒学者として有名な盧植の下で学問を学びます。ここで9歳年上の公孫瓚と仲が良くなります。ここで劉備は派手な服装で男伊達を気取り、豪侠と好んで交わったとありますから、かなりやんちゃで人気者だったようです。
 劉備23歳の時に黄巾の乱が起こり、知り合った関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し参加しその名を挙げ、その功により中山国安熹県の尉に任命されます。ここで関羽・張飛と知り合っているのですが、演義で語られる桃園の誓いは無かったようですが、ここから約30年寝食や生死を共にする仲となり、生まれた日は違えど、死ぬ日は一緒ということぐらいは言い交わしていたようです。ちなみにこの時から簡雍も苦楽を共にしているのですね。で、田豫の方は、後に劉備が公孫瓚を頼ったあたりで、公孫瓚の配下となり別れています。
 劉備の方は、公孫瓚の命令で曹操に攻められる陶謙の援軍に向かいます。ここで公孫瓚配下の趙雲が同行し、知り合うことになります。徐州 陶謙のところでは曹操軍を撤退させると、そのまま徐州に留まり陶謙が病死した後、徐州牧の地位を受けこの地を治めることになります。このときに糜竺や孫乾が配下となります。
 やっと領地を得たのも束の間、逃げ延びて来た呂布を招きいれた為に、その後裏切られ徐州を奪われてしまいます。それから劉備は、曹操・袁紹・劉表と言った群雄の下を渡り歩く流浪生活を余儀なくされます。
 そんな中、諸葛亮とめぐり合い、三顧の礼をもって配下にすることで、流浪生活に終止符を打ちます。諸葛亮の政略により、赤壁の戦いのドサクサに紛れて、荊州南部を占拠して再び本拠地を得ます。そして荊州を足がかりに蜀・益州を攻略し、諸葛亮が示した天下三分の計を実現します。
 さらに漢中を得て家臣の勧めにより、漢中王となり、曹丕が魏の皇帝になると、追って蜀漢の皇帝へと即位します。

 しかし、荊州の所有問題により、呉が魏と組んで荊州を守る関羽を攻め、関羽が討ち取られると、家臣の制止も聞かずに呉への復讐戦を開始します。この中で張飛も失い、劉備も陸遜に破れ、事後を諸葛亮に託して没します。時に劉備62歳、筵売りから皇帝にまでなった男の半生に幕が下りました。


 さて、まずマークですが、あちこち渡り歩いた都合、□□と揃えるよりも△□ぐらいの方が、あちこちを配下にしやすかったので、△□としました。これによって、公孫瓚△○、袁紹×△、劉表□○、劉璋□○とマークが1つは合うようになりました。
 また、諸葛亮の方を□□としたのは、蜀の政権が劉備時代と、諸葛亮時代とであきらかに異なっていた為にそうしました。一説には諸葛亮と劉備が水魚の交わりと言われるほどべったりではなかったと言う説もありましたし…

 さて能力は、あまり高くしませんでした。戦争はそれなりに死線を掻い潜ってきたのですが、如何せん負け戦が多く、一騎打ちもしていますが、勝利という訳ではありません。また政治も策謀も駄目ってことも無ければ優れている訳でもなかったので、3/3/3/3 としました。
 唯一、特殊能力として、戦争で負けても必ず逃げれているので、「戦争で死なない」をつけました。これで気軽に負け覚悟で戦争が行える利点があります。
 
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簡体三国志:韓馥

所属:独立→(袁紹)→(張邈)
年齢:51歳(200年の時) ※42歳で死亡

 三国志で最も意気地が無いとも評される群雄です。元は御史中丞という宮中に仕える身でしたが、董卓の元で人事を行った周ヒによって冀州牧に任じられます。この周ヒは董卓入洛による混乱の中、宦官による腐敗した政治を少しでも正そうと、志ある人物や、賄賂などとは無縁な人物を登用しようとした節があり、その中で荀爽や劉岱、孔伷など共に任じられます。
 こうした中、周ヒの上司の董卓が暴虐の限りを尽くすようになります。すると、劉岱や孔伷と言った面々は、漢王朝を守るために打倒董卓を掲げて立ち上げってしまいます。
 韓馥もこの反董卓同盟に参加し挙兵します。しかし、用兵には疎かったのか、何もしないうちに反董卓同盟は瓦解し、韓馥は冀州に戻ることになります。
 ここで、冀州を見てみると、同じ冀州の渤海に名門の御曹司の袁紹が力を伸ばしており、また北の幽州には公孫瓚が幾度と無く、冀州に侵攻する構えを見せます。この打開策として韓馥は袁紹と共に皇族の劉虞を皇帝として擁立することで、その威光を持って戦乱を収めようとしますが、劉虞にはきっぱり断られてしまいます。
 そうこうしているうちに公孫瓚の侵攻が激しくなります。そんな中袁紹の使者として、荀らが訪れ冀州を袁紹に譲ることを勧められます。公孫瓚に対する恐怖心を煽られた韓馥は、沮授らの制止も聞かずに冀州牧の地位を譲ってしまいます。

 その後、暫くは袁紹の元に身を置きますが、元韓馥の部下で個人的な恨みを持っていた朱漢が、今は袁紹の家臣として袁紹の権威を笠に長男に暴行を働くと言う事件が起きます。勿論、袁紹は激怒して直ちに朱漢を逮捕しますが、韓馥は袁紹に対して恐怖をいだき、袁紹の下を去り張邈の下に身を寄せます。しかし、その後、張邈と袁紹の使者が会見しているのを見て、張邈が自分を袁紹に売るのではないかと勘違いをして、恐怖のあまり厠で自殺してしまいます。

 この様なありさまでしたので、弱い能力でカードの所持枚数制限に掛からないキャラとして扱うこととしました。
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簡体三国志:陸遜

所属:孫権
年齢:17歳(200年の時)

 遂にスペシャルキャラ登場です。陸遜の家は江東の有力豪族の家柄でその傍流でしたが、家長の陸康が当時袁術配下でその命令を受けた孫策によって滅ぼされてしまうと、陸遜が一族の長となります。後に、陸家と孫家は和解し、陸遜は孫権に仕えると共に、孫策の娘を娶ります。
 陸遜はまず最初に、揚州の南に居る山越という不服従民族の反乱を鎮圧し、また服従もさせ軍隊への編入と、治安回復に功績を挙げます。そして呂蒙の配下となります。当時、呂蒙は、赤壁の戦いの混乱に乗じて荊州を占拠していた蜀の関羽と対峙していました。
 陸遜は呂蒙が病気のため太守の任を若い無名な陸遜交代させることで関羽させる献策を行います。これによって油断した関羽は後方への備えを怠った上で、北上し魏への遠征を行います。これによって呂蒙は不在となった荊州を抑え、戻って来た関羽を討ち取ることに成功します。
 その後、関羽の敵を討つ為に劉備が侵攻してくると、韓当など歴戦の将軍を差し置いて大都督に任じられます。この劉備との戦いでは、冷静に状況を見極め、優勢に攻めてくる敵を自陣奥地まで誘い疲れさせ、その上で火計を持って大勝を修めると言う名指揮官ぶりを発揮します。このとき、陸遜39歳。

 その後も陸遜は、228年には石亭の戦いで曹休を撃破します。また、国政にも携わり、内外ともに功績を挙げ、ついには244年に顧雍の後を継いで丞相にまでなります。
 しかし、晩年は孫権の後継者問題である二宮の変に巻き込まれ、嫌疑を掛けられ憤死する最後を遂げています。

 さて能力ですが、戦争に関しては鮮やかな勝利を修めており、世間の評でもベスト5に入りますので統率は文句なしで5でしょう。武力は一騎打ちの記述が無いので2、政治も活躍していることから4、知力は名参謀ぶりを発揮していますし、孫呉ではNo.2の能力なので、5でも良かったのですが、5にすると 5/2/4/5 となってしまい、No.1である周瑜の能力が 5/3/2/5 なのでこれよりも上となってしまいます。で苦渋の選択でいまのところ 5/2/4/4としました。

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簡体三国志:王粲

所属:劉表→曹操
年齢:23歳(200年の時)

 ゲームに登場する「建安の七子」の最後は、記憶力抜群!王粲です。彼は、碁盤の石の配置を元に戻したぐらい記憶力が良かったそうです。

 王粲の家系は、曽祖父・祖父が三公を務める程、大政治家家系でした。そして彼自身も当時の大文学者である蔡ヨウに「このかたは王公の孫じゃ。特別な才能をもち、わしも及ばない。わしの家の書籍や文学作品は全部彼にやるがよい」と言われるほどその才能を評価されております。ですが、当時の朝廷は李搉・郭シが争いあう状況で、そんな長安から逃げ劉表の元に身を寄せます。
 しかし、劉表は人の能力は風貌に出ると言う古来考えを持つ人物で、貧相な面立ちだった王粲は重用されることはありませんでした。そんな中、能力ある者なら誰でも登用すると公言している曹操が侵攻してきます。
 病死しした劉表の後を継いだ劉を説得し、曹操への降伏を実現させ、以後は曹操の元に仕え、その能力を開花させます。
 王粲は博学多識であり、多くの儀礼制度の制定を行い、また計算が得意で、算法も作っています。そして文学者として六十編に近い詩・賦・論・議を著しています。

 さて彼もゲームとしては能力が発揮できないキャラでですので、彼の記憶力が役立つと言うことで 1/1/3/3 としました。
 
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1050円也!

本屋で、三笠書房の『三国志 群雄データファイル』なる本が文庫サイズで出ており、170人に及ぶ武将の経歴と評価がレーダーチャートで書かれていたので、欲しいなって思ってヤフオクで探していたのですが、写真のセットがなんと送料と合わせて1050円で売っており、こちらに飛びついてしまいました。

で、この中の 別冊歴史読本『三国志群雄 野望のデータファイル』が、本屋で見つけた内容と全く同じ! まあサイズが一回り大きいので、コンパクトさは無いのですがね。欲しいものを手に入れて満足です。

で、この本の評価はというと、立ち読みしたときから割り切っていたことですが、武将の評価のレーダーチャートは使えないです。多分、作者はゲームとかはやらない人ですね。8項目もあるのに 政治力 とか無いんですもの。かわりに実行力とか決断力とか、洞察力とか…、演義や史書から評価しにくいし、それが知りたい人ってどれだけ居るんだろう。
また、せっかく、戦闘力と統率力といった項目もあるのですが、戦闘力って補記をみると一騎打ちなど腕力的評価のようなんですが、孫権が 10段階で 9点 で、 張遼が 7点ってどうなのよ!?

ってな具合で、評価はまあ流しながら、173人の経歴事典として使っています。
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