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北方大戦争:デンマークVSスウェーデン

 大航海時代の列強諸国になって、各地に植民地を築いていくカードゲーム「植民地戦争」の追加宗主国を、2011年のゲームマーケットで出します。
 出す宗主国は、デンマークとスウェーデン!

 デンマークはノルウェーを従えて、その版図をアイスランドやグリーンランドに広げた海上帝国です。スウェーデンはデンマークからバルト海沿岸の支配権を奪って、バルト帝国と呼ばれた北欧の二大大国です。
 是非、既存の植民地戦争に混ぜて新しい宗主国をお楽しみください。

オリジナルカードゲーム 植民地戦争
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サクサク三国志:蔡瑁

所属:劉表→曹操
年齢:約45歳(200年の時)

 荊州の有力豪族で、劉表が荊州刺史として赴任するとこれに仕え、さらに次姉が劉表の後妻となった為、劉表の側近として重用されます。劉表は荊州でも随一とも言われる蔡氏と婚姻関係となり、その支援を得たことで荊州の支配を比較的スムーズに出来たと言われます。その後、劉表と次姉との間に生まれた劉ソウに、姪が嫁ぎ更に関係を強化します。劉表の死後は、一族の張允と共に長男の劉キとそれを支援する劉備を追い出し、劉ソウを後継者にすることに成功します。その後、曹操が侵攻してくると降伏し、曹操に従事中郎・司馬として迎え入れられます。水軍の諸事に詳しい蔡瑁は魏軍内でも重用され、その後も長水校尉・漢陽亭侯と昇進を重ねていきます。
 
 演義では、劉表の元に身を寄せる劉備を危険視して暗殺を主導し、それが失敗し劉表が病死すると遺言を偽造して劉ソウを跡継ぎに据えるなどの暗躍を行います。曹操降伏後は、赤壁の戦いで水軍都督として主力を任されますが、周瑜の計略により曹操に離反を疑われて殺されてしまいます。

 劉表は10万とも言われる軍隊をもっていたとされます。その1つは黄祖が所有していた江夏の兵など各地域の有力者が所有していた兵と、もう1つは赤壁で魏の主力となった水軍です。この水軍の大部分は蔡瑁と張允が所有する水軍だったと思われます。蔡瑁は軍人で政治家とありますので、この水軍の実効指揮にも当たっていたと推測されます。正史では水軍を指揮した記述が見つけられませんが、演義で水軍都督となっていたのは空想だけでは無いと考えます。統率はこの考えから3、武力も軍人として最低の2としました。政治・知力 特に策謀も率なくこなしているので3・3としました。
 
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サクサク三国志:カイ良

所属:劉表→曹操?
年齢:約45歳(200年の時)

 正史ではカイ越との関係は不明ですが、同族の可能性が高いとされます。演義ではカイ良が兄となっています。劉表が荊州に赴任した際にカイ越と蔡瑁と共に招かれ仕えるようになります。劉表が荊州の豪族を従わせる方法を聞くと、カイ越は利益で誘って反乱分子を一掃する案を提案したのに対し、カイ良は仁愛と信義に基づいた統治を行えば、自然と豪族は従いざるを得なくなると進言します。劉表はカイ越の案を採用しますが、カイ良の案に対して仁義を重んじた昔の晋国の雍李のようだと、理解を示します。
 カイ越・カイ良と並び証される二人ですが、カイ良の記述はこれだけです。その後の動向は不明で、曹操が荊州に侵攻する前に亡くなったとも、その後曹操に仕えたともあります。
 
 演義では、カイ越の謀略のすべてを行う謀臣振りを発揮しています。孫堅が攻めてくると呂公に落石の策を授け孫堅を殺すと、その遺骸を返す際に漬け込んで、一挙に孫一族への攻撃を進言したり、劉備を殺そうとするのにも関わります。
 
 正史での記述が少なく不明ですが、カイ越と同じ立場だと判断して、また演義で軍事に関わっていたことから統率は2としました。武力はさすがに1。政治と知力では正史の記述から見る限り、策謀ではなく政治よりと判断して4・3としました。マークは曹操との関係が不明なことから、劉表と同じの□○です。
 と言うことで、マークも能力も異なるので、カイ良・カイ越2枚揃えると結構強力です。
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サクサク三国志:カイ越

所属:劉表→曹操
年齢:約43歳(200年の時)

 最初は何進に仕えます。横専を行う宦官を殺害するように進言しますが何進は決断出来なかった為、カイ越は諦めて都を去ります。その後、劉表に仕官し大将となり、知略と弁舌を駆使して荊州の豪族を次々と滅ぼしたり、従わせたりしていきます。これによって劉表は荊州の北半分を支配下に置くことに成功します。この功績によりカイ越は上奏され章陵太守に任命されます。
 その後、劉表が病死すると、蔡瑁と共に劉ソウを後継者に推し、さらに曹操が荊州に侵攻してくると曹操に降伏するように劉ソウに進言しそれを受け入れさせています。曹操は荀イクへの手紙で、荊州を得たことよりもカイ越を得たことが嬉しいと書いているぐらいカイ越を評価しており、列侯・光禄勲と言う破格の地位で迎え入れます。
 しかし、カイ越は魏で活躍することなく、僅か6年後に病死します。その死にあたってカイ越は曹操直々に家族のことをお願いしており、その親交関係が伺えます。

 なお蜀書先主伝の注に、劉表の元に身を寄せる劉備を蔡瑁と計って宴で暗殺しようとしており、劉備はとっさに凶馬 的盧に跨って逃走すると言う記述がありますが真偽は定かではありません。

 兵を率いた記述はありませんが軍事に関わっていたことから統率は2としました。武力はさすがに1。政治と知力では正史の記述から見る限り、策謀の軍師なので3・4としました。マークは曹操との関係が深いことから、劉表の曹操派の×○です。
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サクサク三国志:ほぼ最終調整

 こんばんは先週、自身のコンベンションでテストプレイを行いまして、そこでの結果を受けてのルールの調整をかけました。

1.局地戦の導入
 要望のあった武力で都城を落とせる効果を採用しました。これをそのまま「一騎打ち」と言う呼称にしてしまいます。同一州内の白い都城に限って、都城と相手将軍を指定して、武力で勝てば城都を奪えるってものです。戦争と同じく負けた方の将軍は死亡で、相手が受けなかった場合は、その都城を奪われる上に指名将軍も失います。
 戦争より効果が良い反面、州を越えられないので、かならず統率による戦争の局面が必要となりますし、前に比べて一騎打ちで相手将軍を斬りまくると言うのも制限されて、バランスが取れました。

2.地図の変更
 上庸(孟達が居た)と、襄陽(劉表が居た)が読みがどちらもジョウヨウと判りにくかったので、襄陽を南陽に変更しました。また調べてみると上庸って荊州だと思っていたのですが、益州の漢中郡の上庸県なんですね。と言うことで、漢中の範囲に変更です。
 しっかし、某SLGでも幾つかの書籍でも、上庸が荊州の範囲になっているのは何故?

3.南斗北斗の回数-1
 ゲームが思った以上に長かったので、もう少し短くします。

4.特殊カード(看破・和睦など)の将軍配置
 これはまだ検討中ですが、ルールを簡素化する(無駄なルールのケース分岐を無くす)為に、特殊カード(看破・和睦など)の将軍配置を可能としようと思います。今までどおり、特殊カードは戦争や支配など能力を使った行動は行えず、手持ちでも将軍でもその特殊効果を使い切りで使用するだけです。
 将軍配置を許可することで、最初に君主を決める際に特殊カードを脇に置いたりしていたのをそのまま使用できるようになります。但し、これ1枚だと何も出来なくなるおそれがありますので、これが勢力の場合、さらに1枚追加して引くなどは必要です。
 これの採用を検討しているのはどちらかと言うと、5.の検討が大きいかな・・・

5.献帝、玉璽
 献帝が結構捨てカードになっていたのと、見せると+1点と言うのがルール上特殊だったので、4.の改変によって、将軍にしたらさらに+1点に変更します。なので将軍にするため、マークを×□に変えます。
 一方、玉璽はマークを△○(袁術と同じ)に変えて、将軍にしたら所持枚数制限に含まない効果を付けます。(前は王位をもっていたらさらに+1点でしたがこれは廃止です)
 これによって玉璽の方は、所持枚数を圧迫することが無くなるので、もう少し使われるかな…。


 あとは最後に、今行っている武将の能力調整をGWまでに終わらせて(最後までは到底無理なんで、出来る限りかなー)、GWに量産を進める計画です。
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サクサク三国志:韓当

所属:孫堅→孫策→孫権
年齢:約44歳(200年の時)

 孫堅四天王の1人で演義では大刀の使い手です。黄巾の乱の際にその筋力・弓術・馬術が優れていたことから孫堅に取り立てられ活躍します。程普・黄蓋と同じく孫堅の戦いにはすべてに参加しており、その後の孫策の劉ヨウ戦や孫策死後の混乱期における各地への反乱鎮圧、そして赤壁の戦いと常に戦いの最前線に身を置きました。赤壁の戦いでは厠に捨て置かれた黄蓋を発見し、涙ながらにその衣服を取替え、治療させると言う場面があります。
 その後、陸遜が指揮をとる夷陵の戦いに参戦し、演義では若い陸遜の作戦に古参の武将を代表して不服を言う役をやっています。この時代になると程普・黄蓋が亡くなっているので、韓当が古参唯一の生き残りでした。その後も、曹真と三方面での戦いや、領内での反乱鎮圧を行い、その後病死するまで常に戦いに身を置いていました。
 なお、孫堅四天王の4人目は祖茂です。董卓戦で孫堅の身代わりを務めるなどしますが、それ以降の記述が無い為、このゲームでは採用を見送りました。

 統率は孫堅時代から夷陵の戦いでの活躍があるものの大軍を指揮してと言う訳でなかったので3、武力は一騎打ちの記述は少ないものの並外れた筋力と、弓術・馬術を心得ていたとあることと、演義でも大刀の使い手として武力派として扱われていることから4、政治は程普・黄蓋と違ってその統治の記述が無いに等しいことから1、知力は特筆することも無ければ失敗談もないので2としました。
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サクサク三国志:黄蓋

所属:孫堅→孫策→孫権
年齢:約46歳(200年の時)

 演義では孫堅四天王として登場する孫呉最古参の武将1人です。黄蓋も役人でしかも先祖は太守の家柄だった為、孝廉に推挙されています。そんな中黄巾の乱で各地を転戦する孫堅に従い、董卓討伐などにも参加します。最初の方は家柄の為か程普よりも位は上だったようですが、程普が大活躍して出世した為、孫堅、そしてその後の孫策・孫権軍団内の地位は逆転します。
 それでも黄祖戦への参戦や、孫権が引き継いだ頃には反乱を繰り返す領地へ赴くと、鎮圧するだけでなく統治者としての能力を発揮し、強きを抑えて弱きを助ける統治を行い住民に慕われたとあります。
 その後、赤壁の戦いでは周瑜に付き従って、火計を進言しこれが決定打となって勝利に貢献します。この時の火計では先陣として奮戦していた為、流れ矢が当たって長江に落ちてしまいます。救い上げられたものの、黄蓋だと判らず、負傷したまま厠に放置されていたところ、韓当に発見され九死に一生を得たといいます。また、演義では火計を成功させる為に「苦肉の策」も進言しており、周瑜に自らの身体を鞭で打たせることでその不仲を曹操に信用させる見せ場が書かれています。
 赤壁後は武陵太守としてこの地を統治し、ここでもその統治能力をいかんなく発揮した後、病死しています。その統治はすばらしく、近隣の部族までもが従って来たとあります。
 
 統率は赤壁で先陣を切る活躍をしていますが、程普よりは全般的に活躍が少ないことから3、武力も同様に3、政治はその統治能力が素晴らしかった記述が多いのですが、中央の政治を行った政治家ではないので3としました。知力は赤壁での火計の献策を評価して3です。

 
 
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サクサク三国志:徐盛

所属:孫策→孫権
年齢:約23歳(200年の時)
 
 故郷が徐州なので戦乱を逃れ、後に呉郡で孫策・孫権に仕えます。最初に江夏の黄祖を食い止める役目を受けます。その際、黄祖の部下の黄射が攻めてきますが、これを寡兵で迎撃し徹底的に破った為、黄射は二度と攻めてこなくなったと言います。その後山越討伐などいくつかの戦功をあげます。そして213年に濡須に曹操が攻めてきた際は、悪天候により董襲などが戦死する最中、徐盛の船も座礁し敵軍に孤立する状態となった。味方の兵は死を覚悟しますが、徐盛は果敢に敵に攻撃をしかけ、敵軍に攻撃を諦めさせ無事帰還します。
 215年の合肥の戦いでは、張遼軍に攻められ負傷、自軍の旗を奪われてしまいますが、味方に救援されます。221年に孫権が蜀との戦争に備える為に魏と同盟すると、その見返りとして曹丕から呉王の位を授かった際、魏の使者が孫権に傲慢な態度を取りました。魏の臣下となる都合、孫権も張昭をはじめとする家臣達も腸煮え返りながら我慢をしていたところに徐盛が進み出て、自分達が不甲斐ないために、この様な恥を受けると言い号泣します。魏の使者は感服し、呉がいつまでも魏の臣下では居ないだろうと感じたといいます。
 その後の劉備との夷陵の戦いや、魏との三方面の戦いでも功績を挙げます。そして224年曹丕自らが呉に大挙して押寄せた際は、総司令官となるべき陸遜が荊州方面に赴いていた為にこれに当たれなかった際、自ら指揮官に志願します。そして、他の者が無駄だと言う中、長江沿いにハリボテの城壁を延々と築きます。長江に到着した曹丕はこれを見て、呉の備えが完璧だと騙されて撤退します。
 演義ではここで味方の将軍の1人が勇んで、曹丕に攻撃を仕掛けた為、開戦となり、徐盛も仕方なく戦います。そして徐盛は火計を仕掛けて、曹丕に赤壁を越える壊滅的な損害を与えたことになっています。
 
 某SLGではこの演義の誇張によって統率が高くなっていますが、朱然の方が戦果が多いのでやや蒙将ぎみの統率3、武力4としました。政治はやっていないので1、知力は最後の城壁の策を評価して3です。
 
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サクサク三国志:朱然

所属:孫策→孫権
年齢:18歳(200年の時)

 孫権のクラスメイトにして、呂蒙の本当の後継者です。朱然は母の弟、つまり叔父が朱治で、朱治に子が居なかったので朱治の養子となります。その後、孫権と年齢が同じだったこともあり、机を並べて学びます。その後、孫権が当主の座に就くと、朱然は県を治めそして郡を治めるようになります。呉での登竜門と言うべき、山越の反乱も見事に平定して、その能力を発揮します。
 その後、呂蒙に従い関羽討伐戦に参加し、別働隊を率いて関羽を生け捕りにすると言う大功をあげています。その力量を呂蒙にかわれ、呂蒙の後継者に指名されます。実際、呂蒙が抑えていた荊州の重要拠点である江陵の守備を任されるようになります。しかし、孫権は計略や内政にも通じる陸遜の方を荊州全体を総括する後継者と考え、劉備が攻めてきた夷陵の戦いでは陸遜に総指揮権を与えます。朱然は陸遜の元、別働隊を率いて撤退する劉備軍の退路を断つなどの功績を挙げます。
 その後、魏の動向が気になり、陸遜と共に劉備の追撃は行わず、将兵を説得して対魏に備えると、その通りに魏が三方面からの侵攻を開始してきます。この戦いでは江陵にて曹真・夏侯尚・張コウ軍と戦います。張コウの奮戦により味方の孫盛が破れ、江陵は包囲され孤立無援となります。また城内で疫病も発生した為、実際に戦える兵は5000人になってしまいます。しかし、朱然は兵を励まし、敵の隙を付いては奇襲を行い、敵の陣地を2つ落とすなど戦果をあげます。そうしている内に魏軍においても疫病が発生した為、魏軍は撤退し、朱然は江陵を守りぬきます。
 226年には孫権が曹丕の死に乗じて石陽に出兵しますが文聘に阻まれて戦果をあげることなく撤退となります。その際、撤退に乱れをみせた為に魏の追撃を受け、しんがりの潘璋が持ちこたえられなくなると、朱然はすかさず援軍に駆けつけ、魏軍を蹴散らすと悠々と撤退出来たといいます。
 その後も朱然は長生きしたこともあり、ベテランとして数々の戦いに参加し呉を支え続けます。
 
 その能力は、統率3・武力3ぐらいが適切な感じもしたのですが、意外にも多くの戦いをこなしており、そのいずれにも戦果をあげているので、戦争に強いということで統率4・武力2と寄らせました。統率4・武力3は評価しすぎだと思ったのと、演義では趙雲に一刀両断されていると言うイメージもあります。
 政治・知力はほどほどで特にあげる要因も無かったので2・2です。
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サクサク三国志:曹丕

所属:曹操→君主
年齢:13歳(200年の時)

 曹操の三男で若いときから文章巧みで、馬・弓・剣術にも優れていたと言います。長男の曹昴が戦死し、次男の曹鑠も病死した為、後継者と目されるようになり、その後曹丕に付く家臣と弟の曹植に付く家臣との間で激しく権力闘争が行われますが、曹丕が跡を継ぐことが決まると曹植派は次々と粛清され、後に曹植自身も曹丕によって左遷されています。
 その後、曹丕は献帝に禅譲を迫って父が成し得なかった魏国皇帝の座に就きます。その治世は父が築いた国の基盤を整えることであり、陳羣の進言による九品官人法を制定したり、宦官が一定以上の高位に就けないように制限したり、同様に外戚や皇族についてもその権力を制限することで、後漢末期からの政治の腐敗を改めます。しかし、これが逆に後に司馬一族が権力を握っていくのを皇族が防げない原因となってしまいます。
 外政面では臣下の礼を取った呉の孫権に呉王の位を与えた為、これが後に孫権が皇帝を自称するきっかけを与えてしまいます。また、呉への出兵も3度行っていますが、いづれも成果をあげることなく撤退しています。その後、肺炎をこじらせ僅か6年の在位期間で没します。
 曹丕は、妻甄氏に死を賜ったことや、干禁を発狂死させたことなど陰湿な逸話が多く残っており、曹丕のダークなイメージとなっています。
 
 その能力は内政面の政治や、知力は4で問題ないと考えます。武力はさすがに実戦はありませんが、かなり剣術が上手かったとあり、3ぐらいはあるかと。統率は、戦争に関する戦略眼は持ち合わせていなかったのか、無駄な出兵や、敗戦などがあり、こちらは2としました。
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