植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:曹仁

2011年03月26日 11時29分09秒 | ゲームシステム
所属:曹操
年齢:32歳(200年の時)

 魏軍で最強とも言われる武将の1人で、その守備力には定評があります。曹操とは、曹操の義理の祖父である宦官曹騰の兄の孫と言う関係で、董卓討伐の際に合流して以来、まさに曹操の片腕として各地を転戦とします。

 ・193年匡亭の戦い 袁術軍の将兵の多くを倒す
 ・193年第一次陶謙討伐 別働隊隊長として陶謙軍を撃破。
 ・194年第一次陶謙討伐 虐殺しながら侵攻し、陶謙の救援部隊を撃破
 ・195年エン州争奪戦 別軍を率いて呂布軍の将軍劉何を捕虜にする
 ・196年豫州平定 豫州の反抗勢力を平定する
 ・197年宛城の戦い 別軍を率いて張繡軍を撃破、その後曹操軍が敗戦すると
           しんがりを務めて張繡の追撃軍を撃退
 ・200年官渡の戦い 別軍を率いて後方攪乱する劉備軍を撃破
           袁紹軍の別軍を率いた韓荀を撃破し

 ・206年河北平定 高幹が并州で反乱を起こしたとき壺関を攻略
 ・209年南郡攻略 最重要拠点である江陵を1年間守備、その後撤退
 ・211年潼関の戦い 総司令官として潼関を防御し、渭水で馬超軍を打ち破る

 ざっと経歴を並べただけでもこれだけの戦いに参加して活躍しています。そして、曹仁にとって最も活躍したのが、219年の樊城の戦いです。この時、関羽が北上して樊城を攻めて来たとき守備にあたり、援軍の干禁が捕虜となるなど苦戦を強いられる中、城兵を激励して徐晃が来るまで樊城を守ります。

 これだけ凄い人なのですが、現在統率5をつけている武将に比べると、知名度がどうしても劣り5をつけるのを躊躇しています。それに最後の樊城の戦いが守備戦だったことと、副官の満寵や援軍の徐晃の活躍もあったので彼らと評価を分け合っているのもあります。
 蜀なんかは数名の最強な武将に支えられているのに対して、魏は名将があまた居るって感じもあるので、特に最強にしなくても名将クラスでも良いかなーと言う判断です。もっとも武力4で4・4でも高順や黄忠ぐらいしか居ないので屈指の強さになるのですが・・・

 ちなみにネットで検索しても曹仁・張遼・張コウ・徐晃のいづれかが魏軍最強かは人によってまちまちです。

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サクサク三国志:劉循/張任

2011年03月22日 22時20分56秒 | ゲームシステム
 ちょっと横着してこの2人を一緒に書きます。張任は益州の貧しい家の出でしたが劉璋に指揮官として取り立てられた経緯から劉璋への忠義厚い老将です。張任は劉備の入蜀合戦で綿竹で戦いますが破れます。劉璋軍の主将クラスの冷包が討ち取られ、劉カイが行方不明になる中、張任は最終防衛ラインであるラク城まで撤退します。ラク城は劉璋の長男 劉循が防衛していました。劉循は父 劉璋に似ておらず、武勇があり血気盛んな若者でした。そこに合流することで劉備軍に最後の抵抗を行います。この劉循&張任の激しい抵抗により、劉備は軍師のホウ統を失っています。その為、劉備は荊州から諸葛亮の援軍を待ちざるを得なくなり、結局ラク城は1年もの間、劉備軍を食い止めることに成功します。しかし、その戦果もこれまで。ついに張任は捕虜となり劉循のみが成都に逃げ帰る結果となりました。
 張任の能力をかっていた劉備は何とか配下になるように説得しますが、張任は老将は二君には仕えずと言って拒んだ為、惜しみながら処刑し手厚く葬りました。一方、劉循はその後あっさり劉璋が降伏した為、同じく降伏し劉備の配下となります。そして父と違って成都に留め置かれます。血気盛んな劉循を遠方にやりたくなかったと言う判断だったのでしょうか? その後は飼い殺されたのか目だった記述がありません。
 なお、演義では張任の記述が際立っており、ホウ統が酒宴の席で魏延に剣舞を行わせて劉璋の暗殺を目論むと、それに気がつき劉璋を守るように剣舞に参加したり、ホウ統も張任が放った矢が馬に当たり落馬して死んだことになっています。

 ここからが想像ですが、ラク城の指揮官は劉循です。これは劉循が元からラク城に居たのに対して、張任は綿竹の戦いに敗退した後、合流しているからです。そして劉循の指揮下の元、激しい篭城戦が行われるのですが、劉循は単に城に篭っただけでなく、劉備軍の隙をついては打って出て幾度と無く奇襲を行ったと考えられます。指揮は劉循で実行部隊として張任が先陣を切ったのかもしれません。この奇襲によってホウ統は亡くなります。この仮説は、諸葛亮の援軍を得られる劉備軍がホウ統を失うほど強行な城攻めを慣行したとは思えないからです。さらに劉循は、劉備軍が荊州から援軍を呼ぶ情報を得ると、最後の掛けに出ます。成都には劉璋の元まだ3万の兵が居ました。この兵とラク城の兵とで援軍が来る前に劉備軍を壊滅するのです。本来ならこの作戦に成都側でも気がつくべきですが、成都の指揮官は劉璋で補佐する者もいません。ですので劉循は張任に包囲を突破し、成都まで行って兵を連れて帰ってくることを命じます。しかし、張任は包囲を突破できず、劉備軍の捕虜となり処刑されます。これが張任だけが先に捕虜となった理由です。打つ手が無くなった劉循はその後も劉備軍に援軍が到着するまではラク城を守り通しますが、援軍が到着すると勝ち目が無いと判断し成都に帰還し、そこで最後の戦いを考えるのですが、これは父の降伏により無血開城となりました。正史にラク城が陥落する記述が詳しく書かれていないのと、劉循が逃げ帰れているのは劉循側で兵を連れての撤退で、劉備側はホウ統を失っているので、諸葛亮と合流するまでは追撃など危ない行動は行わなかったのではないでしょうか。
 こう考えると演義の記述を逆転させ、ラク城の防衛戦とホウ統の死亡の功績を劉循のものとすることが出来ます。しかしあくまでこれは仮説ですので、もっとも手堅いのは、熟練の将軍であった張任は綿竹戦では采配するだけの指揮権がなかったものの、劉循のお陰でラク城の防衛戦では幅広い指揮権を得てその能力を発揮できたと言う考えです。これによる能力評価ですが、張任の統率はホウ統への奇襲なども加味して4、武力は一騎打ちなどで討ち取っているわけでは無いので3、政治はしていないでしょうから1、知力は多少演義の記述が加味されていますが、その防衛において知将としての上手さがありますので3としました。一方、劉循ですが某SLGではオール2ぐらいの能力になってしまうのですが、それではあんまりですので統率と武力を3としましました。政治はラク城での長期防衛を評価して特に1には落としませんでした。

 ちなみに張任、生年不詳ですが、某ゲームでは168年生まれです。しかしこれだと老将だと言って死んだ際、45歳です。ちょっと老将と言うには足りないような…、10歳ぐらい違わないかなー。
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サクサク三国志:劉璋

2011年03月21日 11時31分37秒 | ゲームシステム
所属:劉焉→独立
年齢:約38歳(200年の時)

 兄が3人ともなくなったので劉焉の後を継いだのは四男の劉璋です。劉璋が跡を継ぐとこれを好機と考えた長安政権の李カクが、劉璋を倒そうと別に益州刺史を任じて荊州で兵を募らせ益州に攻め入らせます。これに劉璋は父から譲り受けた東州兵を使って撃退します。さらに、父劉焉には従っていた漢中の張魯が劉璋には従わない行動を起こすと、手元に居た張魯の家族を殺します。以来、漢中の張魯とは仇敵の間柄になります。
 その後は、これらの活躍で東州兵が領内で好き勝手な振る舞いをしますが、劉璋はこれを取り締まることが出来ず、住民に不満が溜まります。特に元から益州を地盤とした豪族や名士達の劉璋へ対する忠誠心は低くなっていたものと思われます。そんな中、曹操が勢力を次第に伸ばしてくると、漢中の張魯が曹操の支援を受けて攻めてくるのではと心配しだします。そこで配下の張松を使者に出し曹操の様子を伺うように命じます。この時、曹操は赤壁の決戦の前だったこともあり、張松をあしらって追い返した為、張松は憤慨し、曹操は危険でこれに対抗する為に武勇に秀でた劉備軍を迎え入れて張魯に当たるように進言します。しかし、その実は劉備に益州を取らせようと言う魂胆でした。黄権や王累などが劉備を迎え入れることは危険だと反対しますが、結局 劉璋は劉備を迎え入れてしまいます。後に、張松の魂胆が発覚して彼を処刑しますが、その時には劉璋配下のものの多くが劉備軍に下っており、劉備軍は破竹の勢いで成都に迫っていました。一部の配下が屈強に抵抗しますが、これが敗れると劉璋はこれ以上民を戦乱に巻き込みたくないと言う理由で益州を明け渡します。この劉備の入蜀で迎え入れた張松や、いち早く劉備に下った呉懿などは東州兵に不満を持つ益州の名士や豪族でした。逆に劉璋に付いたのは劉璋が登用した益州でも日の目を見なかった下級の役人(黄権・王累・張任)や、東州兵の指揮官(おそらく楊懐・高沛・冷包など)でした。
 劉備に降伏後、劉璋は荊州公安郡太守として任地に赴きます。その後、関羽の敗戦後 荊州の所有権が呉に移るとそのまま帰順し、暫くして病死します。

 能力は、譲ったことから枚数カウントをしない能力を付けているので、前半に戦乱を潜り抜けたことから統率のみ2としました。政治は益州を治めていたものの、上手く治めることが出来なかったとの評価があるので1、知力も後先考えず張魯の家族を殺したり、劉備を迎え入れたりしているところからこちらも1です。
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サクサク三国志:劉焉

2011年03月20日 09時03分04秒 | ゲームシステム
所属:独立
年齢:約68歳(200年の時 ※62歳で死亡)

 前漢の皇族ですが後漢の時代では不遇な家柄です(それでも太守や刺史を歴任するぐらい)。その為、早くから後漢王朝には見切りを付けており、霊帝に各地の混乱を収めるために刺史に兵権を持たせた「牧」の地位を新設し、各地に派遣することを上奏しますが、その実は自らがその地位になってその地で独立王国を築くことを目論んでいました。
 劉焉は思惑通り牧の地位になります。最初は交州に赴くことを考えますが、益州に天子の気があると進言を受けたため益州牧として蜀の綿竹に赴きます。当時、益州は刺史が賄賂を取って居たために住民の不満が溜まっており、そこに黄巾の乱の残党が合流して、役所を襲って刺史を殺してしまうと言う事件が起きていました。
 劉焉は私兵を集め、綿竹に乗り込むとこれらの首謀者を始末します。これによって益州各地の豪族は劉焉に従うようになります。次に劉焉は五斗米道の張魯を洛陽・長安と益州の通路となっている漢中に派遣しその割拠を認めます。そして都へは五斗米道が割拠しているのでなかなか指示を仰ぐことが出来ません!と言って半ば独立を公然と実施します。まずは、隣の荊州から入ってくる流民(敗残兵)を東州兵として統率して兵力にします。つぎに、この兵力を使って、益州の豪族で従わないものを誅殺することで自らの権威を高めます。これに反発した部下の反乱にも合いますが、東州兵の頑張りと羌族の支援を受けこれを打ち破ります。
 その後、長安で董卓が死に李カクが政権を握ると、その李カクと同盟を結ぼうとして断られた馬騰が挙兵します。劉焉はチャンスと思い、長安に残した次男に手引きをさせ、長男には兵を引き入らせて馬騰に協力されますが、計画が事前に漏れ次男は処刑され、長男も討たれると言う最悪の結果となります。
 さらに、もっとも溺愛していた三男が病死し、綿竹の居城も落雷による火災で焼失してしまうと言う災難に逢い、劉焉はさらに奥地の成都に移ると今までのショックからか病を発症し没してしまいます。

 かなり演義ではここら辺が書かれていないので、正史を見るとかなり曲者の劉焉です。統率は直接の指揮は恐らく無いものの10万と言われる兵を傘下に修めた事、武力を持って益州を制圧したことから、戦えると判断して3。馬ではなく豪華な車に乗っている記述があるので武力は無いと判断し1、政治は益州を支配した手腕から3、知力も益州独立構想を成功させたこと、失敗したもののクーデターを行うなどかなりの策謀家なので3としました。
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サクサク三国志:華キン

2011年03月19日 14時23分12秒 | ゲームシステム
所属:孫策→孫権→曹操
年齢:43歳(200年の時)

 若いときから繁華街では遊ばないまじめな性格だったようで、勉学に励み一龍の一人と言われています。霊帝時代に中央に仕官し尚書郎までなりますが、後に董卓が朝廷を牛耳るとこれを危険視して、中央を離れて袁術の元に行きます。袁術に董卓を倒すために兵を起こすように進言しますが、聞き入れて貰えなかった為に、袁術の元を離れます。
 その後、豫章太守に任じられます。その政治は簡潔で公正だったので官民は華キンに敬意を表したと言います。まもなく江東に勢力を拡大していた孫策から虞翻が降伏を促す使者としてやってきます。孫策は用兵が巧みだった為、戦わず隠士の頭巾をかぶって降伏します。孫策も華キンの名声は知っていたので、礼を尽くして迎え入れます。その後、孫策が死んで孫権の代になると曹操(朝廷)からの招聘を受けます。孫権は惜しんでこれを引き止めますが、華キンは孫権と曹操との関係を取り持ちたいと願って旅立ちます。しかし、その後 曹操は孫権への派兵を決め華キンは軍師の1人として任命されます。軍師として活躍した記述はありませんが、その後も中央の要職を歴任し、曹操が魏王になると御史大夫、曹丕が皇帝になると司徒にまで登り詰め、曹叡の代まで仕えます。
 
 魏に仕えてからが長いのですが、意外に魏で何を行ったかの記述が無く、あるのは呉を旅たつ際に多くの人から貰った贈り物を返したとか、曹丕の即位に良い顔をしなかったことを咎められ、同僚の陳羣に庇われるとか、王郎よりも優れていると言う人物的な逸話が多く書かれているだけです。
 なお、後に呉で書かれた書物では、曹操が献帝の皇后を廃そうとした際に、華キンが兵を連れて宮中に入り隠れる皇后を引きづり出すシーンが描かれており、演義でもこのシーンがそのまま採用された為、権力者に従う悪人として描かれています。
 
 能力は、統率・武力は1、政治は中々評価しにくいのですが司徒にまで登っているのですが、業績が判らないので4、知力は献策が多くは無いのですがいくつかはあるので3としました。
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3月21日のセルフコン中止

2011年03月19日 10時25分04秒 | ゲームシステム
こんにちは。誠にすみません。東電の計画停電により、小田急電鉄の運行状況が現時点では夕方より小田原方面が運休するとなっており、また多摩地区の停電により、市民館の利用が見えないなどの理由で誠に恐れ入りますが、明後日21日の開催を中止します。
急遽の中止となりますので恐れ入りますが、お知り合いなどにご連絡して頂けると助かります。
なお、次回 4月10日は今のところ開催しようと思います。よろしくお願いいたします。
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サクサク三国志:顧雍

2011年03月16日 21時18分59秒 | ゲームシステム
所属:孫権
年齢:32歳(200年の時)

 呉郡の四姓と言われる名士の出で、若いとき名政治家 蔡ヨウが呉に来た時、そのもとで学びました。そして驚く程の才能を見せた為、蔡ヨウから「雍」を授かるほどでした。
 合肥の県長を皮切りに婁、曲阿、上虞の地方官を歴任しその政治能力を発揮します。孫権が会稽太守に任命されると、孫権は任地に赴かず、顧雍に太守の仕事を代行させます。それほど彼の政治能力は卓越したものでした。
 その後も孫権に信任され、孫権が呉王になると大理奉丞となり、その後、初代丞相の孫邵が亡くなると二代目の丞相に任命されます。

 寡黙な性格で、普段意見することは少ない無いのですが、重要なときには必ず的を射た意見を言ったそうです。また、逆にあまりにも押し黙っていると、孫権は間違った考えを改めたとも言います。顧雍はさらに下戸だった為、酒宴好きな孫権にとってはお酒がまずくなるとも揶揄されています。しかし、孫権の信任は変わらず、呉でもっとも長い19年間 丞相の任を全うします。

 能力は戦争関係はまったく無いので、統率・武力は1です。政治は5を与えたい気持ちもあったのですが、これ以上○○に政治5は付け難く4です。知力は政治を5にしていれば献策の発言が少ないので2でも良かったのですが、4・2ではあまりにもなんで3です。しかし、4・3だとやや優れた程度のキャラになってしまいました。
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サクサク三国志:袁渙

2011年03月13日 18時05分09秒 | ゲームシステム
所属:袁術→呂布→曹操
年齢:不明

 正史には独立した伝があるのに演義には登場しないので、まったく無名な政治家ですがかなり濃いキャラです。豫州の出身で劉備が豫州牧の時に推薦されて役人として働くことになりますが、豫州が袁術の支配下になった為、袁術に仕えることになります。袁渙は清廉潔白な性格だった為、袁術とは合わない気がしますが、袁渙は穏やかに、そして確固たる信念を持って正論を常に説いた為、袁術も袁渙の意見には従い敬意を持って接したとあります。あの袁術がです!
 その後、袁術が呂布と戦った際に、袁術が敗戦して袁渙は捕虜となりそのまま呂布の元で働くこととなります。あるとき呂布は劉備と敵対した為、袁渙に劉備をを罵倒する檄文を書くように依頼します。袁渙は劉備に恩義があるので書こうとしません。呂布は剣を抜いて脅しますが、袁渙は平然と温和な表情で、もし私がまた別の将軍の下になった際に呂布様を罵倒する文を書いても良いのですか? と言うとさすのが呂布も諦めるしかなかったと言います。
 その後、呂布が曹操に敗れたことで、袁渙は曹操に仕えることになります。同じく呂布の元から投降した者に、後に九品官人法を作る陳羣もいました。その陳羣でさえ曹操に媚び、仕官の見返りに呂布の持っていた財宝を貰いますが、袁渙だけは曹操に対しても毅然と接し、貰ったものも書物と僅かな食料だけだったと言います。
 その袁渙は曹操の元で大活躍します。曹操の配下の政治家では鐘ヨウが実際の統治を行ったり、陳羣が制度を作ったりしていますが、袁渙は珍しく内政オンリーで曹操に数々の献策を行います。
 曹操が屯田を実施した際に、民が土地を離れてしまう問題が相次いだ際、袁渙は民は今いる土地を離れたくないもので、強制的に新しい土地に移住させても上手くいきません。希望者のみを募るようにしましょうと進言して屯田が上手くいくようになったと言います。また、社会の秩序を戻す為には武力を持って平定し、その後は道徳をもって完成させるべきとも説いています。
 曹操の袁渙に対する信頼は厚く、御史大夫の地位にまでなります。袁渙が死んだ際、曹操は悲しみ遺族に対して宮中から1000石、国庫から1000石を出します。何故、わざわざ分けるのかと聞かれた曹操は、国庫から出すのは袁渙の功績を評価してで、宮中から出すのは私の友情だと言ったそうです。
 
 今回、演義で登場しなかったこの袁渙を入れたのは、袁術のマーク△○の強化で入れました。Wikiでも袁術のところに配下として載っているので、マークが△○なのは大目にみてください。
 統率・武力は1で、政治を4、知力を2で考えていますが、この組み合わせの能力って多いんですよね。ちなみに袁渙は華キンよりも先に御史大夫になっており、陳羣は当時はまだその下の御史中丞。官位だけ見ても飛びぬけて高評価です。某ゲームで出てこないので能力が評価しにくいのですが、いっそう1/1/5/1をとんがらせても良いのかもしれません。

△○ 統率1/武力1/政治4/知力2
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サクサク三国志:王脩

2011年03月12日 15時09分20秒 | ゲームシステム
所属:孔融→袁譚→曹操
年齢:約32歳(200年の時)

 青州北海の人で、最初は北海相の孔融に仕えます。孔融は名声はあったものの実務や、軍事は苦手で、豪族が勝手を行うのを取り締まれないでいました。そこで王脩は豪族の元に数騎で赴き、いきなり斬り伏せます。これによって王脩の覚悟を知った他の豪族は従うようになります。以後も王脩は孔融が困難に直面すれば必ず助けに来たと言います。
 しかし、青州に袁紹が攻めてくると孔融は追い出されてしまい、代わりに袁譚が赴任してきます。以後、王脩は袁譚に仕えます。最初は青州別駕の劉献に嫉妬され讒言された為、何も出来ないでいましたが、袁紹に召された後、再び青州に戻ると別駕に抜擢された為、青州の統治に力を発揮します。
 その後袁紹が死ぬと、袁譚が郭図と辛評の進言に従って袁尚と戦いを始めてしまいます。さらに追い詰められていると聞き王脩は北海の兵を率いて救援に駆けつけます。王脩は兄弟で争うのは、自分の腕を切り落とすようなもので、侫臣(郭図と辛評)を斬って袁尚との戦いを止めるべきだと進言しますが、袁譚は聞き入れず結果、袁譚は最後は曹操に討ち滅ぼされてしまいます。
 曹操は袁譚の死を悲しむものは厳罰に処すると言明しますが、王脩は公然とその亡骸の前で泣くとそれだけでなくその亡骸を埋葬することを訴えます。忠義の人材が好きな曹操は埋葬することを許し、代わりに王脩を召抱えます。その後は曹操の配下として主に郡太守として統治にあたります。曹操が王脩に、軍師が華やかな活躍をして、魏を支えているのは王脩のような内政官だと言う手紙を送っており、如何に曹操が信頼し、王脩が尽力していたかが伺えます。
 
 統率は何度も軍隊を率いていることからかなり大目の3、武力も豪族切り込みがあるので2、政治は優秀で最終官位は大司農なのでぎりぎり4でも良かったのですが、統率をあげたこともあり3、知力は3で3/2/3/3です。山を付けるなら 2/2/4/3もありかなー。
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サクサク三国志:辛評/辛ピ

2011年03月09日 23時10分26秒 | ゲームシステム
そろそろマキが入ってきました。画像は後載せサクサクです。(苦笑)

【辛評】
所属:袁紹→袁譚
年齢:約35歳(200年の時)

 豫州潁川郡の出身袁紹と同郷で、袁紹が冀州を得た頃に仕えたとされます。しかし、辛評の記述が出てくるのは、袁紹の死後からで、長男の袁譚を支援していた事から、もしかしたら袁譚の参謀として一緒に青州に赴任していたのかもしれません。勝手な想像ですが辛評が袁譚の従軍参謀、辛ピは平原を統治、王脩が北海を統治です(青州の主要都市は平原と北海)。
 袁譚と袁尚の後継者争いでは、郭図と共に袁尚への先制攻撃を進言しますが、敗戦してしまい逆に追い詰められます。この後、郭図は曹操への降伏を袁譚に勧めて、その使者に辛評の弟 辛ピが立ちますが、以後 辛評の記述は一切なくなりますので、袁尚の反撃を受けた際に戦死したと考えるべきでしょう。

 記述がかなり少ない辛評ですが、袁尚の反撃を受けた際に袁譚や郭図やが生き残る中、戦死したのであれば前線に出ていた可能性が高く(そこそこ)戦える軍師なのかもしれません。ひとまず統率・武力は2、政治は弟の辛ピが後に魏で大政治家となっていることから政治家家系であると考え3、知力は郭図同様の進言をしていたことから3と。弟の辛ピがそこそこ良いキャラなのに使えないキャラになってしまいました。
 某ゲームでは、統率は3程度となり、かなり戦える軍師扱いにされています。

△× 統率2/武力2/政治3/知力3


【辛ピ】
所属:袁紹→袁譚
年齢:約29歳(200年の時)

 辛評の弟で、兄と共に袁紹に仕えた後、その後の後継者争いでも袁譚に組します。演義では青州平原の令とありますので、袁譚と共に青州統治を任されていたと思われます。袁譚が袁尚の攻撃により窮地に立たされると、郭図の進言により曹操に降伏することになり、その使者に抜擢されます。曹操は袁譚の降伏を喜び、その支援を約束しますが数日すると心変わりし、引き続き袁譚と袁尚を争わせようと考え出します。この心変わりを読み取った辛ピは同郷の郭嘉に頼み曹操との面会の機会を貰い、堂々と袁譚を支援する利を説いた為、曹操に袁譚を支援させることに成功します。しかし、その後、袁譚は曹操と盟約違反を理由に滅ぼされてしまいます。以後は曹操に仕えます。
 曹洪の下弁攻略では、曹休とともに補佐役として従軍したり、また曹真の江陵攻略の際も軍師として従軍するなどしています。もっとも辛ピの活躍を示したものとしては、諸葛亮の北伐の際です。総司令官の司馬懿は守備に徹することで勝利を得ようと考えていたものの、諸葛亮の度重なる挑発により交戦を望む将兵を抑えきれずにいました。そこに辛ピが到着し、司馬懿の意思を汲み取ると、将兵の意見に従って交戦しようとするふりをする司馬懿の前に進み出て、魏帝は守備に徹しろと言うご命令だと言い、将兵を押しとどめさせました。これによって最後の北伐は失敗に終わります。
 これ以外でも、文帝が冀州の民を移動させようとした際、ちょうど蝗害が発生していた為、多くの家臣が反対を思いつつも言い出せないでいた中、率先的に反対を述べたり、呉への出兵を行おうとした際も、兵の疲労があるので止めるように進言するなど、適切な献策を行っています。

 統率は、軍に従軍した軍師と言うことで最低の2、武力はさすがに戦えないと判断し1、政治と知力では軍師としての献策が多かったことから、知力を4として政治を3としました。

△× 統率2/武力1/政治3/知力4
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