植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:袁紹

2011年02月27日 08時52分53秒 | ゲームシステム
所属:独立
年齢:約47歳(200年の時)

 三公の家柄と言われる汝南袁氏の御曹司。袁術は異母弟で従弟でもあると言う間柄です。若いときから威厳がある風貌で、しかも名門出身を鼻に掛けず謙虚に接した為、多くの人に慕われ、洛陽で彼を尋ねる客は後を絶たなかったといいます。この時期に曹操や、許攸らが仲間となっています。
 その後、何進と宦官勢力の一掃を計画しますが、何進がまごついている間に先手を打たれ、何進は殺されてしまいます。これに対して袁紹は袁術と共に宮中に兵を入れて宦官を誅殺します。
 その後、董卓が朝廷で実権を握るとその董卓と衝突し洛陽から退避します。一時、董卓は袁紹の首に賞金を掛けますが、官僚がこぞって袁紹を殺すことに反対し、代わりに懐柔することを勧めた為、渤海太守の地位を与えます。しかし、袁紹は渤海太守の地位を使って兵を集め挙兵し、反董卓連合に参加しその盟主となります。反董卓連合は袁紹も含め各諸侯が自軍の保全を図った為、戦うことなく瓦解します。その後、袁紹は董卓に対抗する為に、皇族である幽州牧 劉虞を皇帝として担ごうとします。しかしこれは清廉潔白な劉虞に丁重に断られます。
 次に袁紹は逢紀の献策に従って韓馥から冀州を奪います。土地だけでなく配下の名士も自身の配下とした為、その勢力は強大になります。特に新しく配下となった沮授の意見に従って、東の青州には客将 臧洪を派遣して制圧、冀州の西側を荒らしていた黒山賊には同じく袁紹を頼ってきた呂布を派遣して討伐、北の幽州 公孫サンには元韓馥の配下で対騎馬戦のスペシャリスト 麹義を派遣して撃破したことで、冀州を中心とした四州を支配下に置くと言う一大勢力を築きます。この時、南のエン州を抑える曹操と、荊州の劉表と同盟関係にあったので、袁紹派と考えれば漢の領土のほぼ半分を影響下においていたので袁術よりも皇帝に近かった存在でした。
 その後、情勢は袁紹と曹操の対決になります。曹操も献帝を保護したこともあり、司隷・徐州・豫州を影響下に置いていました。しかし、肥沃で人口の多い袁紹の華北に比べて、曹操の中原は荒れ果てており、保有兵力には大差がありました。袁紹はその過信からか曹操が劉備を討つ為に南下すると言う絶好のタイミングでの奇襲を息子の病気を理由に行わず、またその後長期戦を挑めば生産力の差から曹操が自滅すると言う軍師 田豊の献策にも従わず、あえて短期全面戦争で曹操を潰しに掛かります。こうして開かれたのが官渡の戦いです。
 官渡の戦いでは初戦で勇将 顔良・文醜を討ち取られるなど思わぬ反撃を受けますが、物量で勝る袁紹軍はジワジワと曹操軍を追い詰めます。しかし、袁紹軍内での参謀同士の争いから、許攸が曹操に寝返り袁紹側の食料貯蔵庫の在り処を教えた為、そこを強襲されたことで、戦争を継続できなくなり大逆転負けします。その後の倉亭の戦いでも負け、冀州に撤退せざる得なくなります。この戦いで顔良、文醜の他に淳干ケイ、沮授が討ち取られ、許攸の他に張コウ、高覧が寝返り、また逢紀の讒言によって田豊を処刑するなど、多くの人材も失っています。
 しかし、袁紹はその後冀州で起こった反乱を鎮圧し、曹操よりも有利な立場を維持しつつけます。曹操も袁紹存命中は更なる追撃を行うことは出来ず、再度曹操が進撃を再開するのは袁紹が202年に病死し、後継者争いが勃発してからになります。
 
 統率は戦争が上手というほどではないものの大軍を率い、自らも率いていたことから3、武力は一騎打ちの記述はさすがに無いですが、まったく剣を振えなかった訳ではないので2、政治は冀州に安定した基盤を作っていたことから3、知力は悪くは無いのですが後半、連続的に悪い献策ばかり取り上げたことと、自らが策を練ることが無かったので2としました。

 一大勢力を築き上げ、英傑と言っても良い人物(負けたのは歴史上名だたる曹操ですから)なのでもう少し評価してあげたいのですが・・・2マークという事で。
コメント
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