植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:李厳

2011年02月11日 10時36分25秒 | ゲームシステム
所属:劉表→劉璋→劉備→劉禅
年齢:約28歳(200年の時)

 物資輸送を滞らせた上、諸葛亮を落としいれようとしたイメージが強い李厳ですが、その評価はオールラウンドに有能な武将です。
 李厳は、荊州生まれでそのまま荊州を治めていた劉表に仕えます。若くて有能で幾つかの県令を歴任します。益州との州境にある県令だったときに、劉表が病死してまもなく曹操が押し寄せてくると、荊州が混乱するであろうことから、益州の劉璋の元に逃れます。
 劉璋の元でも李厳はその有能さを発揮し、成都の県令を任せられます。その後、劉備が攻めてくると、李厳は兵を率いて綿竹の守備を任されますが、劉璋不利と感じたのか真っ先に劉備に降り、劉備に仕えるようになります。
 劉備の元では、将軍兼太守として内外共に大活躍します。内政面では、劉備が蜀を統治する為の法整備を、諸葛亮や法正、許靖、伊籍らと共に行い、蜀科と言う法を制定します。戦争面では賊が数万規模の反乱を起こした際は、僅か手勢5000の兵力で鎮圧するなどの功績を残しています。
 これらの活躍により、劉備臨終の際は諸葛亮と共に、劉禅のことを託されるまでになります。その後、諸葛亮が北伐を開始すると、後方の補給を一手に任されるようになります。しかし、第4次の北伐の際に、長雨の為に物資輸送が行えない事態となり、そのことを諸葛亮に伝え、これによって優勢だった蜀軍は撤退することになります。ところがこの後、李厳は諸葛亮が勝手に撤退したと嘘の報告を劉禅に挙げ、撤退の責任を諸葛亮に負わせようと画策します。勿論、諸葛亮も黙っている訳も無く、李厳と撤退についてやり取りした文章を提出し、李厳が嘘をついていることを証明したことで、逆に李厳が罪に問われ李厳は官位を剥奪されます。数年後にそのまま世を去ります。
 
 李厳は何故 諸葛亮を陥れようとしたかに付いては意見が割れるところです。1つは場当たり的に撤退の責任を自分が負いたくなかったと言うのと、もう1つは諸葛亮に次ぐ地位だったので、全権を握る為に諸葛亮を失脚させようとしたと言うものです。諸葛亮を失脚させようとした場合、諸葛亮との関係が問題になりますが、諸葛亮と共に劉備から事後を託されたのに諸葛亮のみが全権を握っていることへの不満や、諸葛亮が後方任務しか与えなかったことへの不満があったのかもしれません。一方、諸葛亮に劉禅から皇帝位を簒奪するように薦めたり、自分の官位が剥奪された後も、諸葛亮ならいづれは自分の復権を認めてくれると思っていたらしい記述もあります。
 このゲームでは場当たり的であっても結局は諸葛亮を落としいれようとしたこと、蒋琬や陳震などからも良く思われていなかったことなどから、マークをあわせず劉表側の□○としました。
 一方、各能力はオールラウンドプレイヤーらしく、すべて3としました。武力も含めて、2以下が無いのは今のところ程普とこの李厳だけです。そこが私の評価ポイントです。
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サクサク三国志:程普

2011年02月08日 20時49分32秒 | ゲームシステム
所属:孫堅→孫策→孫権
年齢:約50歳(200年の時)

 演義では孫堅四天王の筆頭人物です。最初は州郡の役人でかなりの知恵者だと評判でした。しかし黄巾の乱が起こるとその討伐に参加します。参加した軍が孫堅が居た朱儁で、以来程普は孫堅と共に各地で功績を挙げていきます。特に凄いのは苑城の戦いで孫堅と共に城壁をよじ登って城内部に入り込み陥落させたとあり、その奮戦ぶりが伺えます。その後、孫堅が反董卓連合に参加するとそれにも従って陽人の戦いでは、黄蓋や韓当らを抑えて唯一、野戦も城攻めも奮戦したと言う記述を残すほど一人活躍しています。当時、程普が孫堅軍にとって最も戦略や策略に通じていた為か、演義では孫堅の参謀的な役割として登場し、孫堅が洛陽で見つけたものが玉璽であることを説明したりしています。
 そんな程普ですが、孫堅が劉表攻めで亡くなると他の軍団メンバーと共に袁術配下となります。そして、その軍団を遺児 孫策が引き継いでから再び程普の活躍が始まります。
 程普は孫策と共に陸康攻めから劉ヨウ攻め、そして会稽の王朗攻めなど江東・江南の各地を転戦し戦果を挙げます。この孫策の電撃的なまでの勢力拡大戦においてその実行部隊として最も戦ったのが程普と言えるでしょう。特に祖朗との戦いにおいては孫策と共に敵軍の中に孤立してしまうと、味方に孫策の護衛をお願いすると、只一騎で矛を持ち大渇しながら敵兵に突っ込みます。あまりの奮戦振りに敵は恐れをなした為、退路が出来 孫策は脱出することが出来たとされます。
 そんな中、孫策が没すると崩壊しそうな軍団を取り纏め孫権に従わせ、またこれを機とみて各地で反乱を起こす諸勢力を鎮圧しており、この頃の周瑜の記述が無いので、実際に軍事面で孫権をサポートしたのは周瑜ではなく程普だったと思われます。そして赤壁の戦いでは復活した周瑜と共に総指揮官になります(右督なんで一応は次官)。この際、実際に孫権を支えていたと言うプライドからか、幾らか周瑜と衝突したようですが、周瑜が年長の程普を敬い礼を尽くした為、打ち解けたとあります。
 かくして、周瑜の戦略と、黄蓋の策略、そして程普の指揮によって赤壁に呉軍は勝利します。この赤壁の戦いを最後に年を取った為か程普の参戦の記述はなくなります。しかし、今度は統治者として貢献します。呉の荊州における重要拠点となる江夏郡の太守としてこの地を10年余り統治して没します。後に、皇太子の孫登が歩隲に有能な人材を問うと、荊州で活躍した人として陸遜や諸葛瑾、潘シュンと共に程普の名も挙げられるほど、この地の安定に寄与し、住民からも慕われたとされます。

 統率は孫堅配下中の数々の功績と、赤壁で右督を任されたことで4、武力は各戦いで常に先陣をきって勇猛果敢だったこと、孫策を助け出した逸話、それに演義で鉄脊蛇矛と言う武器を使っていたと武器名まで登場することから武力を4としました。政治はその統治能力が優れていることから3、知力も孫堅の参謀的な役割をしていたと思われることから3としました。
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ゲームマーケット2011参加

2011年02月07日 21時34分08秒 | ゲームシステム
 今年は三国志が出来ましたので、ゲームマーケットにブース参加します。一応、このサクサク三国志を30部ちょい、あと植民地戦争、それに間に合えば植民地戦争の追加セットとしてスウェーデン・デンマークを持ち込もうと思っています。

ゲームマーケット
http://gamemarket.jp/
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サクサク三国志:朱治

2011年02月06日 08時12分59秒 | ゲームシステム
所属:孫堅→孫策→孫権
年齢:約46歳(200年の時)

 呉が続きます。呉にとって重要な武将ですが、某ゲームではビミョウーな内政よりの能力と言う方です。
 元、揚州の従事でしたが孫堅の配下になり、孫堅が長沙太守として区星の反乱を鎮圧するのを助け、さらに陽人の戦いにも参戦し、孫堅と共に出世します。その後、劉表攻めで孫堅が亡くなってしまうと、行き場を無くした孫策に袁術を頼って力を蓄えるように勧め、さらに孫策が基盤を整えると、劉繇攻めを勧めることで孫策の自立のきっかけを作ります。劉繇攻めでは開戦前に劉繇が治める曲阿に赴き、孫策の家族を保護するなど用意周到な働きをします。その後、呉郡の許貢を追い出し、呉郡を統治します。
 支えます。朱治は呉郡太守として統治する傍ら、山越を討伐や黄巾軍の残党を駆逐するなど周辺地域の安定に寄与します。
 朱治は、孫権は15才の時に孫権を孝廉に推挙しています。孝廉に推挙されることで役人としてのスタートラインに立つことから、推挙してくれる人は師のような存在で、しかも孫堅の時代からの古参だったため、朱治は孫権に対して小言も言ったでしょう。孫権は朱治に対して礼を尽くす一方、その小言にストレスを溜めそれを諸葛謹が気持ちを晴らさせる逸話が残っています。
 そんな朱治は死ぬまで呉郡太守としてこの地の発展に寄与して亡くなりました。

 能力は、政治家と言うよりは武将なのでしょうが、その功績からすると政治や献策に功があるのが目立ちます。ですので統率は3も悩んだのですが2とし、武力も2で、代わりに政治を3、数々の献策を行ったことから知力も3としました。
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サクサク三国志:張紘

2011年02月05日 09時28分59秒 | ゲームシステム
所属:孫策→孫権
年齢:約43歳(200年の時)

 演義では張昭と共に「江東の二張」と言われる賢人です。故郷の徐州広陵がサク融によって太守が殺され街が略奪されると、故郷を去りざるを得なくなります。そして江東の地で孫策に会い孫策に何度もお願いをされ張昭と共に幕下に加わることとなります。
 その後、孫策は袁術の命令で揚州刺史 劉ヨウを打つことになります。劉ヨウ配下にはサク融がおり、張紘にとっては太守の敵討ちになったのかもしれません。張紘は政治面だけでなく、軍略にも通じており、孫策は参謀として戦争に張紘・張昭のどちらかを同行させ、もう一方を本拠地に残らせ守らせたとあります。江東の小覇王とまで言われ揚州各地を電撃的に支配下に治めていった孫策の影の立役者だったのかもしれません。
 張紘が最もその能力を発揮したのは外交です。劉ヨウ討伐後、孫策は大きな政策変換を迫られます。袁術との離別です。支配の大義名分を持たない孫策にとって後漢の名門 袁術による任命は大義となりえました。しかし、その袁術が皇帝を僭称し後漢王朝に反逆すると、孫策は献帝を擁する曹操との関係を改善し、曹操=後漢による大義を得ようとします。
 その為に、曹操のところに張紘を派遣します。張紘は中央政府の名士 孔融など多くの知り合いがおり、また彼らに劣らない才能を持っていた為、この外交交渉は成功し孫策は騎都尉・鳥程侯・会稽太守に任じさせることに成功します。そして自身は侍御史の位を与えられ曹操の元に留め置かれました。
 しばらくして、孫策が亡くなると曹操はその隙をついて攻めようとしますが、張紘はそんなことをすれば信義に外れると曹操を諌めております。そして跡を継いだ孫権に曹操に帰順するように説得しに呉に戻ります。
 戻った後は孫権の元でも重鎮として計略や外交のみならず、孫権の日常的な振る舞い対しても諌めることを行っています。そして、赤壁の戦いのあと秣陵の地に呉の首都を建設するように進言し、その遷都の途中で病没します。
 この呉の新たな都 建業は、今の南京で以後の中国の南朝の首都として栄えることになります。

 張紘を考える上で最も悩むのは朝廷(曹操)との関係です。赤壁の戦いの前後、呉では親朝廷派(曹操帰順派)と、後漢からの独立派とで大きく分かれています。前者は、張昭・張紘であり、後者は周兪・魯粛です。結局、後者の意見が採用され赤壁の戦いが行われ、赤壁後は張昭も路線を呉の独立に切り替えるのですが、張紘のみは合肥への出陣を諌めたりと一環して対曹操戦には(やんわりと)反対の立場を示しています。
 もしかしたら、中華全体を見た場合に、帝を曹操が擁立してようともその朝廷に従って一刻も早い統一を行うのが良いと言う考えだったのかもしれません。
 
 その能力は張昭が徐州で陳登と戦ったりしているのですが、張紘の方は軍の指揮が見つかりませんでしたので、統率と武力は1としました。悩んでいるのがマークと政治力です。遷都をどこまで評価するかで悩みます。某ゲームでは90台中盤とかなり高い政治力が付けられているので、上から数えると政治5でも良いのですが…。マークもストレートなら○○ですが、曹操(朝廷)との関係=パイプ役を加味して、×○でもいいのかと思っています。
 1/1/5/4で○○か、 1/1/4/4で×○ でしょうか。
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サクサク三国志:張昭

2011年02月01日 22時20分36秒 | ゲームシステム
所属:孫策→孫権
年齢:44歳(200年の時)

 演義では張紘と共に「江東の二張」と言われる賢人です。徐州の人で、若い頃から学問に通じて優秀であると名を馳せており、同じく名声のあった王朗と親しくし、同郷の陳琳らにも注目されていました。そんな優秀だと徐州刺史の陶謙に仕官を迫られますが、これを拒絶。その為、投獄される始末。なんとか釈放されると中央では董卓が圧制を行い、徐州も雲行きが怪しくなってきた為、江南に避難します。そこで孫策に会い幕下に加わることとなります。刺史の陶謙には仕官せず、まだ無名の孫策に協力すると言うのはよほど通じるものがあったのだと思います。孫策もかなり感激だったらしく、幕僚というよりも師友として接し、家族ぐるみの付き合いをしたとあります。
 孫策は、張昭及び張紘を得たことで飛躍的にその勢力を拡大し、短期間に揚州の大半を支配するまでになります。しかし、張昭を迎えてから数年で亡くなってしまいます。その死の際には、跡を次ぐ弟 孫権に内政のことは張昭に聞けと言い、逆に張昭には孫権の補佐をお願いすると共に、もし不出来なら張昭が跡を継いで欲しいとすら言い残しています。この件は劉備が諸葛亮に事後を託すのに良く似ています。そう言うのが社交辞令だったのか、史書が転用した結果なのかは判りません。
 
 ここから数年が実は張昭がもっとも働いた時期かもしれません。張昭は兄の死を悲しむ孫権を叱咤して政務を執り行わせ、自らは補佐し、時には自ら軍を率いて反乱を鎮圧しにいったりもしています。この張昭の努力によって孫権は内外共に孫策の後継者と認められ、また張昭が孫堅時代からの武将達を差し置いて、家臣団の取りまとめ役となったのもこの功績によるものかもしれません。
 その後曹操が南侵したことで、孫権は服従か抗戦かを迫られます。張昭は他の文官達と共に服従を勧めます。しかし、孫権は魯粛・周瑜の意見を採用し抗戦を決めて赤壁の戦いとなり勝利します。
 このことがあっても張昭の評価は変わらず、依然呉の重鎮として孫権に数々の献策を行い、時にはその行動を諌めるなど、重要な役割を担います。張昭が80歳の天寿を全うしたのを見計らってか、呉は二宮の変が起こり家臣団は真っ二つに割れ、そして呉の衰退へと繋がって行きます。

 さて能力ですが、統率は実は赤壁の時、孫権の命で徐州を攻めて、あの奇才 陳登と戦っていたりします。結果は敗戦ですが、統率は出来ないことは無かったでしょうから2、武力は1としました。政治は文句なしの5です。知力は一時期政治に5を付けたので3に落としていたのですが、いろいろと考えた末、あるべき姿の4にしました。
 ある書籍では、張昭が赤壁で降伏論を唱えたことで、張昭の評価を落としているものもありますが、赤壁時の情勢では曹操に従うのが孫権が生き残る確実な手段であり、また呉を戦火にまみえさせない為にも、そして一刻も早い統一王朝に戻すためにも最も有効な選択だと思います。魯粛は、張昭は曹操に降伏しても高官に取り立てられるが、孫権は行き場を無くすと言って説得していますが、劉ソウの例から考えると、孫権は刺史の地位が与えられたのでは無いでしょうか? そして張昭は刺史となる孫権に付き従うつもりで居たのではないでしょうか?
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