QLOOKアクセス解析

簡体三国志:孔融

所属:独立→(曹操)
年齢:47歳(200年の時)

 あの孔子の直系の子孫です。その家系から常に尊敬され、また若い頃から英明で博識、そして孝行で義理堅いと言う評判でした。
 そして朝廷に仕えると、北海国の相となり続いて青州刺史として黄巾の乱で荒れる山東地域を統治します。王修など有能な部下を推挙し、儒学の教布に努め、法網を整備するものの、近隣で袁紹が急速に勢力を拡大すると、袁紹の長子袁譚に攻められ、刺史の座を奪われてしまいます。
 その後、献帝の居る許昌に逃げ、そこで朝廷に仕えて太中大夫まで昇ります。そこで孔融は、孔子の子孫という家系と類まれなる文才によって、文人サロンの中心的存在となります。この文人としての評価は後に「建安の七子」の一人に挙げられます。

 しかし、当時の朝廷は曹操に牛耳られていました。この曹操との関係は最悪で、孔融はことあるごとに曹操の行うことに意見します。しかもかなり当てつけがましい屁理屈も多かったようで、それが原因で、208年曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で逮捕され、妻子ともども処刑されてしまいます。

 曹操と対立した理由は、献帝をないがしろにする曹操への反発とも、宦官と言う卑しい家系だった曹操を嫌ったとも、現実主義者な曹操と理想主義者だった孔融とでは元々肌が合わなかったとも、さまざまです。
 その能力は、かるーく袁譚にやられる事などから、統率1/武力1は堅いでしょう。政治は実行力がいまいちのところもあるので、本来は3かもしれませんが、孔融が発言すると政治的力を得るその発言力を加味して4としました。知力はまあ2程度で。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:王累

所属:劉璋
年齢:約27歳(200年の時)

 あまりにもその死に様が有名な王累です。劉璋配下で、劉璋が張松の進言に従って、曹操の侵攻に備えるために劉備を迎え入れることを決めた際に、それに毅然と反論を唱え、劉備の危険性を説いたものの受け入れられず、その進言の潔白さ真剣さを証明するために城門に逆さ吊りになり諫言します。それでも劉璋は聞き入れなかった為、縄を解いてその門前で首を掻き切って自決し、その猛反対の意志を徹底的に貫きます。

 年齢からして劉焉ではなく直接、劉璋に仕えたものと思われます。忠実な家臣で、その才能を認められて従事に任じられた。とあり、忠義の人・有能な人だとうかがわせます。しかし、それ以外の記述がない為、能力は1/1/3/3、マークは劉璋と同一としました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:法正

所属:劉璋→劉備
年齢:24歳(200年の時)

 諸葛亮や龐統よりは知名度は劣りますが、劉備の策謀の相談役となり、その献策により定軍山の戦いで勝利を収め、負けた曹操に「わしは奸雄をほぼ全て集めたが、法正のみを手に入れなかったのだろうか?」とまで言わしめた策謀家です。
 元々は、益州牧の劉璋のところで張松や孟達の配下の役人クラスとして働きますが、あまり重用されなかったようです。その為か、早くから劉璋には見切りをつけており、張松・孟達と共に劉備の入蜀を手引きし、それを成功させます。その功により、成都で中央の政治にあたり、その能力は諸葛亮も認めるほどでした。
 しかし、その本領はやはり作戦参謀にあるようです。そんなとこから統率3/武力2/政治3/知力5 としました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:劉

所属:劉表→君主→曹操
年齢:5歳(200年の時)

 劉表の次男で後継者として208年に後を継ぎ、侵攻する曹操軍と戦おうとします。しかし、傅巽・韓嵩・蒯越・王粲などの反対により降伏します。その後は、演技の記述にあるように殺されたわけではなく、青州刺史に就任し、蔡瑁と共に長生して、諌議大夫・参同軍事と昇進しています。

 もともと、異母兄弟の兄・劉とは仲が悪かったわけではないようですが、劉表の後継者として蔡瑁らが兄の排除を画策したため険悪になったといいます。演技では、正当な後継者は長男の劉で、蔡瑁らの画策で劉が後継者になったと感じさせますが、劉表は早くから劉を後継者として指名していたともあります。
 荊州を治めるには、蔡瑁が叔父となる劉の方が良かったと言う判断かもしれません。

 能力は直ぐに降伏したため推し量れませんので、「所持枚数に含まない」特殊能力をつけました。
 もしかしたら、政治は2でも良かったかも。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:劉表

所属:君主
年齢:58歳(200年の時)

 やっと出てきた君主クラスです。前漢の景帝の第4子である魯恭王・劉余の子孫だそうで、孫堅に殺された王叡の後任として193年に荊州に刺史として赴きます。
 そこで荊州南郡の有力者 蔡瑁の姉と結婚します。この時、劉表には別の妻との間に劉をもうけていますが、妻は死別しているのか、正妻として迎えます(数年後、劉が生まれます)。これは、荊州を支配する為の足がかりで、これによって蔡瑁や同じ南郡の知識人である蒯良・蒯越を幕僚に加えて、小勢力が割拠する荊州の北半分を勢力下に組み込みます。
 もしかしたら、蒯越は望んで、劉表の配下に入っていることから、劉表と蔡氏との結婚をプロデュースしたのは蒯越の方かもしれません。

 その後、曹操が張繍の駐屯する穣県を攻囲します。劉表は援軍を送って曹操軍の背後を脅かし、張繍とともに挟撃し、これを破りますが、敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかってダメージを受けます。

 200年になると、有名な官渡の戦いが行われ、劉表は袁紹に援軍を送るかの判断を迫られます。ここでは優柔不断の為、援軍を送らなかったと言われていますが、実は荊州南部で桓階の策謀により反乱が起き、この鎮圧に掛かっていたと言う実情もあります。官渡の戦いで、曹操が力を付けてしまいますが劉表は劉表でこの時期に完全に荊州全域を支配化に置くこと成功します。

 その後、曹操に追われた劉備を迎え入れ、劉備と共に博望で夏侯惇・于禁らの軍を退けますが、次第に領内で劉備の力が強くなって来きます。そんな中、207年曹操が荊州侵攻の為、軍を動かした直後と言う一番大事な時期に病死してしまいます。
 家督を継いだ劉はまだ12歳、曹操の侵攻を防げないと進言する家臣達の言うなりに降伏し、荊州劉表は幕を閉じます。

 劉表は政治能力に長け、周辺の地域が戦乱続きだったこともあり、安全な荊州には多くの人が逃れてきて、荊州は急速に発展します。また、学問を奨励したこともあり、宋忠や司馬徽などといった学者も育ちます。諸葛亮もそんな荊州で司馬徽の元で勉学しました。
 劉表はそんな荊州に集まった人々を登用しますが、曹操が能力があるものなら誰でも登用しようとしたのに対して、劉表は当時、能力が風貌に現れると言う古来の考えに基づき、風貌の優れたものや、地域の名士などを重く用いたため、劉表の元には仕官せずに後に曹操や劉備の共で仕官し、活躍するものも多く居ます。そんなところが後一歩で終わった原因だったのかもしれません。ちなみに、劉表自身も威風堂々とした体格だったそうです。

 政治能力4はちょっと高い気もしますが、特徴づけのためにそうしました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:荀攸

所属:曹操
年齢:約43歳(200年の時)

 荀シリーズの最後は、荀イクの推挙で曹操に仕え、郭嘉亡き後、曹操軍の筆頭参謀となった荀攸です。演技では荀イクの甥となっています。

 荀イク・郭嘉よりも知名度は低いですが、張繍戦では劉表の援軍を警戒するように進言したり、呂布戦では、下邳城を水攻めを献策したりと、その作戦能力を発揮します。
 赤壁の戦いの前年の207年、おそらく郭嘉が病死した後でしょうが、袁一族を一掃した後の部下への功労褒賞では、「忠義公正で、緻密な計略を立て、国の内外を鎮撫した者としては、荀がこれに該当し、荀攸がその次に位置する」と述べ、荀攸に対して最大限の評価をしています。

 しかし、208年赤壁の戦いでは、筆頭軍師として挑みますが、火計の警戒を曹操に進言するも、慢心する曹操に受け入れられず惨敗し、あまつさえその曹操に「郭嘉さえいれば、こんなことにはならなかった。」とまで言われてしまいます。

 その後、214年に病死するまでの間、目だった活躍の記録は残っていません。

 郭嘉を特殊カード「看破」で使っていますので、荀イクがたとえ知力が4に落ちても、荀攸の知力は5でしょう。政治は、4でも良いのですが、オールマイティーキャラになるのを避けて、ここはあえて3にしました。太守だとかの統治の職についていなかったので。

 最後に、荀一族の「荀」の字、荀子の荀なのですが、他の単語では使われない固有の感じなんですね。竹冠だと筍(タケノコ)なんですけどね。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:集計表 10/15

 まずは最初に出しておくべきだったのですが、現時点の三国志の武将能力の集計表を掲載します。まず、×△□○のマークですが、××は×のところのみカウント、×○なら×と○に二重カウントしています。山からカードを引いた場合、×が欲しいと思った場合、××でも×○でもOKで、○が欲しいと思った場合は、○○や×○でOKな為です。
 ??は??しかないので単独です。

 数字が、そのマークごとの統率・武力・政治・知力の各1~5の能力値の武将人数です。統率で見ると、前回 司馬懿が??に変更になった為、×陣営では曹操のみが統率5です。これは誰か1人ぐらいを上げた方が良いかもしれません。
 ○は孫堅・周瑜・陸遜が5扱いなので、多いです。こうしてみると統率は7人しか居ないので、プラス2~3人するのが良いかも。
 知力は、諸葛亮・龐統などが居る□が人数が多く、武力も馬超・関羽・趙雲・張飛が居るので□が多いです。甘寧すら○□なので、□にワンカウントされています。

 まあ、□はそもそもの人数が少ないので良いのですが、それでももう少しバランスをとる必要があるかもしれないですね。

 という事で、中間報告でした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:荀シン

所属:袁紹
年齢:約36歳(200年の時)

 荀イクの兄弟(弟と言う記述と兄と言う記述の両方がある)で、荀イクが当時もっともホープとして期待していた袁紹に仕えなかったのに対して、そのまま袁紹の幕僚となり、その弁舌を持って冀州牧の地位を韓馥から譲らせます。
 その後も袁紹の参謀として活躍したハズですが、一切その記述が無く、ただ子が魏に仕官しているところから、どこかの時点で魏に降伏して仕えるようになったと思われます。
 陳羣に「荀、荀攸、荀衍、荀、荀悦は、現代まったく匹敵する者がいない。」との論評を残させるほどで、荀、荀攸と同格ややや下扱いぐらいの能力が適当かもしれませんが、まったく記述が無いことから、1/1/3/3ってところです。ちょっとかわいそうかな…。逆に記述が無いことから△△の強化の為に上げても良いかもしれません。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:荀イク

所属:曹操
年齢:37歳(200年の時)

 曹操の参謀ととして「王佐の才」を存分に使い、曹操が華北一帯を支配するまでになったのは、彼の功績が大きかったでしょう。
 荀子の子孫で、その為か一族の多くが学者や政治家を輩出しており、叔父の荀爽は董卓配下で司空になり、弟の荀は袁紹の幕僚として活躍しており、従兄弟の荀攸は後に、荀イクの推挙で曹操に仕えるようになります。そんな一族です。

 荀イクと言えば、最大の疑問が晩年の曹操との対立とその死です。荀イクは悩む曹操に進言して、献帝を迎え入れるように進言します。迎え入れれば天下に号令が出来る立場に成れる。つまり、献帝すら利用しようと言う進言です。これに基づき曹操は献帝を迎え入れたことで、その勢力を伸ばすことが出来ます。
 しかし、曹操が魏国の建国を視野に入れだすと、それには反対しそれが曹操との関係に亀裂を生み、そして自殺とも言われる病死を迎えることになります。
 献帝を救うために曹操の庇護の下に入れさせたのか、それとも皇帝の存在よりも後漢と言う王朝を守りたかったのか、それとも途中から心変わりしたのか…謎です。

 さて、能力は2/1/5/5。その名声を考えて政治・知力を5としました。(知力がゲーム上、策謀なんで少し違和感はありますが…)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

簡体三国志:王允

所属:(董卓)
年齢:63歳(生きていれば200年の時) 57歳で死亡

 後漢の政治家で、董卓暗殺を計画したことで有名です。19歳で群の役人となりますが、曲がったことが嫌いで、悪人を懲らしめるなど、善政を行う人物だったようです。しかし、当時は宦官への賄賂で正義など捻じ曲がる時代で、その為先の悪人の兄弟に計られ、投獄されたりしています。
 その後も彼は、功績をあげるのと、無実の罪で投獄されるのを繰り返します。そんな宦官による腐敗した政治が一層されると、董卓が政界を牛耳るようになります。そんな中、王允は司徒と言う高い地位にはなるものの、董卓が暴虐の限りを尽くし始めると、その性分から、董卓の暗殺を計画するようになります。
 結局、その暗殺は董卓の寵臣の呂布を引き込むことによって成功します。そして董卓亡き後の実権を握ります。

 しかし、あまりにも堅物だった王允は、董卓に加担した者たちを許すことをしなかった為、結局直ぐに董卓の部下であった李傕・郭らによって逆襲され捕まり、処刑されてしまいます。
 国家の安定を常に願っていた王允にはこの戦乱の時代は合わなかったとしか言い様がないです。

 能力は 1/1/3/2。知力を3と言うのもありかなーと思います。あとは、董卓の裏が今は
李傕なんですが、王允にするのも面白いかなーって思っています。董卓が 3/3/1/1なんで、その董卓が死ぬと今度は王允が1/1/3/3で登場する・・・
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ