植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:文醜

2011年01月30日 09時21分40秒 | ゲームシステム
所属:袁紹
年齢:約40歳(200年の時)

 顔良と記述が被ってしまう袁紹配下の勇将 文醜です。顔良と異なり文醜は演義の方では公孫サン戦での活躍が載っています。公孫サン配下の武将を次々と打ち倒していき、大将の公孫サンまでもが斬られそうになるところを趙雲が割って入り助けるシーンがあります。
 しかし、正史の記述は顔良と同じく官渡の戦いの敗戦のみです。顔良を倒し白馬津から引き上げる曹操本隊に袁紹は文醜と当時客将だった劉備に追撃を命じます。そして文醜は曹操に合流しようとしている曹操軍の補給部隊を発見します。これを好機と考えた文醜は補給部隊を攻撃、しかし補給部隊は巧みに逃走を行った為、それを追いかける文醜は隊列を乱してしまいます。そこを曹操配下の徐晃が襲い混戦の中、命を落としてしまいます。この補給部隊をエサにした策は、曹操配下の軍師 荀攸が仕掛けたものでした。
 演義では、徐晃・張遼を撃退したものの関羽との一騎打ちで敗れる最後となっています。
 
 能力ですが、顔良よりも演義で一騎打ちの記述が多いこと、顔良と異なり騎兵による戦いを主としたことから、武力をかなり評価して5にしました。マーク△△で武力5を他に付けれるのが居なかったと言うのもありますが、もし武力が強くて世間に知れ渡って居たのであればあながち5でも構わないのかと思っての評価です。
 一方、統率は大軍を率いる役目でないことから、落として3にしています。政治と知力は文句なしの1です。(笑)
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サクサク三国志:顔良

2011年01月30日 09時20分27秒 | ゲームシステム
所属:袁紹
年齢:約40歳(200年の時)

 袁紹配下きっての勇将と称される顔良です。評論を行う孔融に顔良は文醜と共に当代きっての勇将と評されています。つまり顔良・文醜は当時の世間に「やつ等は強い!」と認知されていたと言うことです。
 この為、演義では、董卓配下の華雄がその武力を持って袁紹らの前に立ちふさがると、袁紹は顔良と文醜を連れていればと後悔するシーンがあります。
 一方、曹操の幕僚だった荀イクは、顔良や文醜は強いけど頭は悪いので策を仕掛ければ生け捕れますと進言して、彼らが居ることで袁紹との開戦に踏み込めないでいた曹操に勝算があることを説いています。(それでも荀イクも強いことは認めていて、生け捕ることを考えています。)

 これだけ知れ渡った顔良ですが、残念なことに記録が残っているのは官渡の戦いの敗戦のみです。袁紹が白馬津の曹操軍を攻めた際に、戦車!に乗り歩兵を率いて、郭図・淳干瓊と共に攻め立てます。戦車と言うのはローマ軍でも見かけた、馬に引いて貰う2輪の車で立ち乗りするアレです。
 しかし、荀攸が策を用いて袁紹の背後を突くように見せると、友軍はそれに対応する為に撤退した為、猛進していた顔良のみが孤立する事態になってしまいます。これを好機とみた曹操は当時客将となっていた関羽を出陣させると、関羽はただ一騎で顔良の部隊に分け入ると顔良の首を取って帰ってくる荒業をやってのけます。
 当代随一と評された武将のあっけない最後でした。なお、演義ではこの戦いの最初で顔良は曹操軍の魏続と宋憲を討ち取り、徐晃すら撃退させる華々しい活躍をしていますが、結局は関羽に一撃で倒され関羽の引き立て役になっています。
 
 能力の評価ですが、顔良は歩兵指揮による軍隊戦の主力を担い、一方文醜は騎兵による奇襲や追撃戦を担っていたようです。そのことからやや贔屓目ですが統率・武力は勇将だったことを評価して4としました。袁紹に統率・武力が高い武将が少ないことと、政治と知力は文句なしの1なのでそこも加味してかなー
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サクサク三国志:周泰

2011年01月29日 00時14分51秒 | ゲームシステム
所属:孫策→孫権
年齢:約29歳(200年の時)

 殿に脱がされた武将 周泰です(笑)。

 孫策時代から配下として活躍します。弟の孫権が、周泰の人柄に惚れ込んで、兄に周泰を部下にしたいと申し出てそれが許され、孫権の直参の武将となります。
 あるとき孫策が遠征中に留守を預かっていた孫権が賊に襲われる事態が起きます。この際に周泰は混乱する部隊を立て直し、ひとり奮戦し全身に12箇所の傷を負いながらも孫権を守り通します。このことでさらに孫権は周泰を信頼するようになります。
 その後、孫権時代になっても黄祖討伐や赤壁の戦い、南郡攻略などに従軍し功績を挙げます。その後、指揮官として最前線に駐屯します。この際、朱然と徐盛が部下として配されますが、両名は身分が低い出だった周泰に従おうとしませんでした。これを聞いた孫権は、すぐに現地に赴き酒宴を開くと、周泰に服を脱がせ全身に負った傷を見せさせると、その傷1つ1つ負った理由を説明させます。これによって、周泰が歴戦のつわもので、忠臣であることが判り、両名も従うようになったそうです。
 その後、呉が荊州を奪還する頃まで活躍しますが、その後229年までの間に病死したとされます。
 
 曹操軍の典韋や許チョのように孫権を守る親衛隊のイメージが強く、実際孫権が孫策から譲り受けた際は、護衛の任を行っていましたが、その後孫権は周泰を部隊を率いる将軍として任用し、周泰もその中で戦果を挙げていきます。護衛に終始していれば典韋や許チョのような武力5の能力になったかもしれませんが、将軍としての活躍がありますので統率3、武力4としました。政治・知力は特に記述が無いので1としています。
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簡体三国志:許褚

2011年01月27日 21時00分16秒 | ゲームシステム
所属:曹操
年齢:約31歳(200年の時)

 身長8尺(およそ180cm)で腰が10囲(およそ120cm)容貌は雄々しく毅然として、武勇と力量は人なみはずれていた。とあるので、力士のような体型をしていたのではないでしょうか?
 許褚のデビューは、許褚が居た街が黄巾賊に攻められ城壁の外をとり囲まれた際です。許褚は街の若者を集め、全員で城壁を固めて賊を防ぎます。武器や矢弾も尽き果てると許褚は湯飲みや石を用意しそれを投げつけ、賊に対抗したといいます。さらに街の食糧が乏しくなると、賊と和睦を結び牛と食糧の交換を申し出ます。その際、牛がぐずって出て来ないと、許褚は片手で牛の尾を引っ張って連れてきます。これを見た賊は度肝を抜かれ、牛も引き取らずに逃げ帰ってしまったとあります。この件で許褚の勇猛さが知れ渡るようになります。
 その後、曹操がこの地を支配するようになると、許褚は子分を引き連れて帰服します。許褚の勇壮な姿を見た曹操は大変気に入り「我が樊噲である。」と言って、許褚を都尉にし彼の子分も虎士(近衛兵)にします。なお、樊噲とは劉邦の警護を行った剛勇の武将のことです。
 そして許褚は曹操の元で活躍します。まず、張繍征伐では先鋒となり数々の首級を挙げ、袁紹との官渡の戦いでは曹操が苦戦すると、謀叛を企てる輩が出てきますがこれを未然に察知し防ぎます。この件以来、曹操はますます許褚を信頼し、何処に行くにもかならず同行させるようになります。

 そしてもっともの見せ場は、曹操が韓遂・馬超と戦った潼関の戦いです。曹操は馬超軍の奇襲に会い雨のように矢が降り注ぐ中を渡河しなければならなくなります。許褚は曹操を支えて船に乗せ曹操を矢から庇います。川に落ちた兵士達が助かりたいあまりその船にしがみついて来て船が沈みそうになると、兵士の手を切って振り切り、さらに船頭が矢に当たって死ぬと許褚は左手で矢を防ぎながら、右手で船を漕ぎようやく渡ったとされます。後に曹操は、「許褚がいなければ命がなかった」と述懐しています。
 曹操の死後、曹丕・曹叡の代まで仕え病死しています。

 さて能力ですが、統率は軍は率いていないのですが、最初に街の人を統率したことや、虎士と言う近衛の隊長だったことから2としました。武力は文句なしの5、政治も文句なしの1です。知力は、許褚は無口だった為か頭が悪いと思われ、虎のように力のある痴呆と言うことから「虎痴」と言うあだ名を付けられていましたが、その行動を見るとかなり機転を利かせていますので、そこを評価して2としました。まあ、武力がズバ抜けての5なんでそれ以外では使うタイミングがないかな。
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はやぶさ君の冒険<ゲームレビュー>

2011年01月23日 22時02分13秒 | ゲームシステム
 この間、自身のコンベンションで、遊ぶ機会があったのでその報告です。
 はやぶさは、プラネタリウムで放映しているのを見てから連れが信者になり、燃え尽きたあの日はひたすらその映像を探していたクチです。
 で、ゲームを見たときには早速作ったかー!とやや呆れ顔だったのですが、遊んで見ると、かなりイケてるゲームでした。

 はやぶさ君なんてかわいいタイトル名なんですが、ゲームはかなり緊迫感あるゲームでした。4人で遊んだのですが、4つあるスタスターを重ならないように出すことで、はやぶさは進んでいくのですが、重なるとトラブルカードが山に混ざっていき、トラブルカードの中にもさらに山にトラブルカードを混ぜるものもあるので、後半になればなるほどトラブルが山積し、次第に難易度が高くなっていくのが緊迫感を演出します。
 中盤までかなり順調だったのですが、後半になるとさすがにトラブルが続発しだします。これをプレイヤー全員で状況を好転させるアクションカードの使用を相談しながら、トラブルに一致団結して立ち向かっていく状況はまさにはやぶさに司令を出す作戦室の様相でした。スラスターが停止したり、致命的なトラブルも発生したりともう駄目かとまでいったのですが、それを何とか乗り越え、はやぶさを無事帰還させることが出来ました。

 久しぶりに燃えたゲームで、しかも参加者全員で団結できるという優れたゲームでした。唯一、問題があるとすると、一度帰還してしまうと、満足しすぎて2度目を遊ぶ気にならないところでしょうか…
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簡体三国志:典韋

2011年01月15日 10時22分47秒 | ゲームシステム
所属:張邈→曹操
年齢:約40歳(200年の時 ※37歳で死亡)

 字すら残っていないのに「堂々とした体格で力もずば抜けて強く、さらに固い節義とおとこ気を有していた。」と魏志に書かれるぐらい『ザ・漢(おとこ)』の典韋です。
 若い頃、知り合いの仇を討つ為に、町の長だった者の屋敷に忍び込み刺し殺して敵討ちを果たしますが、町で仇の仲間に出くわしますが、切った張ったをやってのけ町を脱出します。この件が知れ渡り、典韋は豪傑として知られるようになります。

 張邈が挙兵するととその配下となり、その際武将の軍門に掲げる旗があまりにも大きくて誰も持ち上げることができなかったのに、典韋はそれを片手でこれを持ち上げてしまったため、ここでも一目置かれるようになります。しかし、軍中で揉め事を起こし数十人を殺害してしまったことから、張邈の元に居られなくなり軍を抜け出し山中に逃亡します。

 その後、夏侯惇に見出されて曹操に仕えます。曹操軍中では一双戟八十斤とも言われる大きな双鉄戟を振るい奮戦を繰り返した事で、曹操の親衛隊に抜擢されます。
 しかし、197年 曹操が荊州の張繍を征伐し降伏させた後、張繍が謀反を起こしたとき、曹操を逃がす為に敵の前に立ち塞がり死に物狂いで戦って死にます。その死に様は、全身を槍で刺されながらも、目を怒らせ口をあけて大声で罵りながら死んだとされます。あまりの奮戦振りに、典韋が倒れた後も暫くは敵兵は怖くて近づけなかったといわれます。

 さて能力ですが、統率は少数の隊は率いて居ましたが一部隊を率いて戦争で活躍したと言うよりも、あくまで個人の武力に頼った奮戦ぶりが主ですので、統率は1、武力は5としました。政治は行って居ないので1、知力も作戦を立ててといった記述も無いので1で良いかと思いそうしました。
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きゅうりげんとく

2011年01月09日 17時17分37秒 | 雑談
 いやー、昨日、くら寿司に行ったのですが、そこで三国志キャラを発見してしまいました。その名も「きゅうりげんとく」!
驚きです。しかも、「ぐんかんう」と「びんちょうひ」なるものも居て、3人で「桃園の誓い」なるものもしてるし!
 しかし、劉備はかっぱ巻き程度のネタなんだー。

 http://www.kura-corpo.co.jp/mutenmaru/
 の第6弾キャラで見ることが出来ます。
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簡体三国志:名称

2011年01月08日 07時53分53秒 | ゲームシステム
 ゲームの作成の方ですがかなり進んできました。やっと説明書も大筋は書きましたし、駒の入手先も見つけました。イラストは量が量なんでまだまだ掛かりそうですが、半分を越え、まあ目処が付いてきたのではないでしょうか?
 さて、そろそろゲームマーケットの申し込みも始まると思いますので、まずは作品名を決めないとと思っています。これまで、仮称:簡体三国志 と銘打ってきたのですが、知名度を上げるのに、また作品のイメージに合うのはどれだったって以下の中から思案中。
 ちなみに、「三国志」って文言を入れるのは絶対。ネット検索された際のヒット率を考えると、三国志ってワードは外せないです。

○簡体三国志(かんたいさんごくし)
 中国語の簡体文字から取りました。略式で書いたもので、簡単な体裁で「簡体」です。中国語なんで、三国志の頭に付けるのには合うのですが、漢字変換で「かんたい」では変換できないのが難。ゲームが簡単な国取りものを目指して作ったから。

○山塞三国志(さんがいさんごくし)
 山塞って中国語のバッタモノの意味。自分の作品を敢えてアンチな名前を付けることでインパクトを与えようかと…。ちなみに山塞の語源は、この三国志の時代で、山に篭る連中が俺たちは官軍だ!と言うものの、夜になると山賊となって、町を襲ったことから、偽り、ニセモノと言う意味になったみたい。

○盤劇三国志(ばんげきさんごくし)
 ゲームをした際に、武将たちが織り成すドラマティックが展開を演出することから、中国語のドラマを「劇」、で、ボードゲームなんで、「盤」としました。盤上で織り成されるドラマティックな展開! って売り文句はサイコーなんですが、恥ずかしいぐらい大判風呂敷です。

○痛快三国志(つうかいさんごくし)
 上記が中国語を意識したものを止めました。単純に日本語として判りやすいものを選んで、面白いことと、あと「快」に軽快の意味を込めて、重たいゲームでは無いことを意味を持たせました。
 意味がストレートなんで判りやすく、検索する際も入力しやすいかと…

○サクサク三国志(さくさくさんごくし)
 結構、冒険的な名前です。上記と比べて、カチっとしていないので、インパクトがかなりあり、良い悪い別にして、覚えられやすいかと。サクサクとゲーム展開が速いことをそのまま使ってみました。

こんなところを候補に思案中です。





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簡体三国志:韓嵩

2011年01月03日 15時27分16秒 | ゲームシステム
所属:劉表→曹操
年齢:約46歳(200年の時)

 劉表配下の政治家ですので有名では無いですが、それでも劉表配下にあってキラっと光る能臣です。韓嵩も蔡瑁・蒯越らと同じく荊州の南陽郡の人物で、最初は諸葛亮と同じように、野に居て士官するのを拒んで居たようですが、刺史として荊州入りした劉表が無理に仕官させたともあります。
 特に外交手腕に優れていたと言われており、また献策を行った記述が残っています。

 曹操と袁紹が戦い出すと、劉表に対して「殿が天下を狙うのでしたら両者の疲弊を狙って攻め立てるべきです。もし、その志しがないのないのでしたら曹操に帰順なさるべきです」と進言します。しかし、中立を保つことが荊州の安全と考える劉表には受け入れられず、逆に劉表は韓嵩に曹操のもとへ視察に赴くよう命じます。これに対しても韓嵩は「もし私が天子様から官職を賜りましたら、天下の臣下となり、殿のために命を投げ出せなくなります」と述べ、自分が官職を賜わる可能性が高く、そうなった場合劉表との関係が悪化することを示唆しています。それでも結局行かされますが、このやり取りが韓嵩には後の布石でした。
 かくして韓嵩は、献帝(曹操の意図か?)から侍中の官と零陵太守を任じられ、荊州に戻ってきます。韓嵩は献帝を抱え権勢を振るう曹操と敵対するのは得策で無いと考え、子供を人質に差し出すよう劉表に要求します。これに怒り「裏切ったな!韓嵩め!」と言って、韓嵩を殺そうとする劉表に平然と「将軍が韓嵩を裏切ったのです。韓嵩は将軍を裏切っておりませぬ」と言って、出発前のやり取りをつぶさに述べだします。さすがに言ったとおりになっていたことと、劉表の妻蔡氏が諫めたので劉表はやもなく殺すのは止め、投獄で済ませました。
 その後、劉表が病没したことで、投獄が解かれると、劉表の後を継いだ劉に対して曹操への降伏を進言し、降伏させると、自身も曹操に仕えますが、彼も直ぐに病死してしまい曹操幕下での活躍は残っていません。

 まず悩んだのが彼のマークでる。彼の進言が劉表の為を思ってのことなら□○かもと思ったのですが、それよりもどうも曹操をかなりかっている節があるので、蔡瑁・蒯越らと同じ×○としました。戦争系はまったく行っていないので統率・武力を1/1とし、政治と知力では数々の的を得た献策を行っており、先を見据えた判断をしていることから知力を4としました。政治は3でも良かったのですが、蒯良・蒯越らと同じクラスになることを避け、1ランク落として2としました。まあ政治に関しては、劉表配下でも曹操配下でも活躍の記述がないので…

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簡体三国志:韓玄

2011年01月02日 09時39分08秒 | ゲームシステム
所属:曹操
年齢:約37歳(200年の時)

 どうしようもないやられキャラ扱いされている韓玄です。演義では、生まれつき気が短くみだりに人を殺すと言ったまさに悪代官!長沙太守として、配下の黄忠に命じて攻めて来た関羽に当たらせますが、両者が義に基づいて相手を見逃しあうと、黄忠が関羽に内通しているのではないかと疑って、黄忠を処刑しようとします。そこを客将として居た魏延が黄忠を救おうと民衆を煽動し、反乱を起こした為に逆に殺害されてしまうと言った小悪党振りです。

 一方、史実では劉表が没した後に荊州を占拠した曹操によって長沙太守に任じられます。これが208年と思われます。正史には韓玄がどのような人物出てきません。しかし同じように曹操に武陵太守として任じられた金旋は、武帝に後事を託された金日テイの末裔で長安付近の名士です。つまり、後漢王朝のエリート中のエリートです。つまり、韓玄も後漢王朝の名門か、地元長沙の名士と言った同クラスの人物でしょう。
 しかし、赤壁の戦いで曹操が負けると、209年に劉備の命で関羽が侵攻してきます。配下に劉表幕下だった黄忠がそのまま残っていましたが、曹操は赤壁の戦いで勝つつもりでおり、この地での戦争は想定していなかった為、軍事には長けていない韓玄にはどうしようもなく、劉備軍に降伏します。その後、長沙を含む荊南は劉備の支配下に入り、その後直ぐにの荊州分割で呉の支配下になります。この激動の中、韓玄の処遇がどうなったかは不明ですが、韓玄がそのまま長沙にのこり、この地で没したことは長沙に墓が残っていることから伺えます。
 ちょっと話がそれますが、同じように荊南に派遣された太守の状況と見比べて見たいと思います。

韓玄(長沙太守)- 降伏するが、その後の動向が不明だが、長沙にて没する
金旋(武陵太守)- 交戦して死亡
劉度(零陵太守)- 降伏して、演義では劉備配下となり太守を継続
趙範(桂陽太守)- 降伏後、逃亡し北(恐らく曹操の元)に戻る

 とそれぞれ別の道を辿っています。

 まずマークは、曹操配下として××も考えましたが、曹操が赤壁大敗後北に帰った趙範と異なり、そのまま長沙に居続けたので、呉との関係も居れ×○としました。これは劉表配下で後に曹操に降った武将達と同じマークですので、曹操によって荊州に派遣された人物としては適切なマークと思っています。
 能力は、演義なら1/1/2/1でしょうが、正史から考えるともう少し評価を上げて1/1/3/1としました。それでも政治以外は使えないので、この武将カードを使うチャンスが来ずに捨てられる可能性も多いでしょう。
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