植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:張遼

2011年02月15日 23時11分19秒 | ゲームシステム
所属:丁原→呂布→曹操
年齢:39歳(200年の時)

 後世、魏の五将軍の筆頭と評価される張遼です。最初は丁原の配下で、その後、何進の命で兵を集めに赴いている間に何進も丁原も殺されてしまった為、その軍団を引き継いだ董卓・呂布の配下となります。そして呂布が董卓を殺した後、朝廷を追い出されると、呂布と共にあちこちを用兵として転戦します。この呂布の元で戦いが張遼を成長させたのか、呂布軍の騎兵一万を率いるほどに頭角を現します。しかし、その呂布も曹操に敗れたことで、曹操に仕えることになります。
 そこからの活躍が目覚しく、袁紹戦では客将だった関羽と共に白馬で先陣を務めて顔良を破り、その後の袁尚戦でも華北一帯を転戦してあまたの功績を挙げます。張遼は単に武勇が優れているだけでなく、相手に降伏を勧めるために使者として単身乗り込んだり、客将として曹操の元に居た関羽と親交を深めるなど、良い人柄が残っています。
 赤壁の戦いの敗戦後、曹操は引き上げる際に合肥に守りの要として張遼を駐屯させます。215年に孫権がこの地を制圧すべく10万の大軍を率いてくると、李典とともに合肥城を死守します。それまで李典とは折り合いが悪かったのですが、「国家の危機に私怨は問わない」として協力して守ります。さらに曹操から方策を得るとそれに従って、孫権軍が取り囲む前に僅か800騎で夜襲を掛けます。これによって、孫権軍は突き崩され本陣まで迫る勢いでした。孫権も自ら矛を振って撤退戦を行う有様でした。孫権は直ぐに大軍を使って張遼を幾重にも包囲しますが、張遼は奮戦し続け包囲を破ってしまいます。その際、部下が取り残されると再び呉軍に突撃し、部下を救出したのち撤退すると言う神業的戦いを行います。
 このあまりにも勇猛な戦いに呉軍は攻めあぐね撤退します。そこをすかさず追撃を行い、孫権を後一歩まで追い詰めます。この時は呉の凌統が身を挺して孫権を守った為、孫権はからくも逃げることが出来ました。この戦いが評価され張遼は征東将軍を任せられます。これは曹操の一族である夏侯淵と曹仁がそれぞれ征西将軍、征南将軍となっている中、唯一一族以外での抜擢であり、それだけに曹操が張遼を高く評価していたことが伺えます。
 その評価通り張遼は以後も合肥に駐屯し呉の侵攻を許さず、呉ではあまりの勇猛さから「遼来来」(張遼が来るぞ!)と言うと泣く子も黙ったという逸話が生まれるほどでした。
 
 一騎打ちではないのですが僅かな兵での鬼神のような活躍を評価すると武力は5でしょう。統率はさすがに武力と共に5と言う訳には行かなかったので4としました。合肥の守備は評価できるのですが、逆に侵攻しての攻撃の活躍や、大軍を率いての活躍の記述が少ないと言ったのも4で止めた理由です。政治は行っていないのでほどほどの2、知力も献策ということはやっていないので2です。
コメント
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