植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

カーネーション

2010年02月06日 20時41分40秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 今日、桜で有名な伊豆の河津にカーネーションを見に行ってきました。桜と比べて余り有名じゃ無いのですが、カーネーションの見本園があり300種ものいろいろなカーネーションがハウスで育成されているのを見ることが出来ます。中でも、品種改良中の試験栽培の品種もあり、見たことの無いものを見ることが出来ます。
 写真は、伊豆の稲取で発見された「スターチェリー」と言う品種です。

 カーネーションは古くから南ヨーロッパで栽培が盛んな花で、スペイン、モナコの国花になるほどポピュラーです。また、バラよりも早く18世紀頃から品種改良が始められ、園芸種として盛んに育てられるようになります。

 実はカーネーションの名を冠した革命があります。それはポルトガルで、40年以上続いた独裁体制下、泥沼の植民地戦争を行う国策に危機感を抱いた青年将校によって、1974年4月25日無血革命が成功します。
 これを祝った市民が兵士にカーネーションを送り、兵士はそれを銃口に挿したことからこの革命は「カーネーション革命」と呼ばれるようになります。


かわづカーネーション園

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スペイン人

2008年02月07日 21時22分55秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 スペインでF1の黒人ドライバーに対して、一部の心無いファンが人種差別的行為を行ったという悲しいニュースがありました。
 調べてみるとF1だけでなく、サッカーなどでも黒人選手に対して人種差別的な行為も行われおり、どうも黒人に対する差別意識があるようです。お手伝いさんも、アジア人はOKだけど、黒人は駄目と言うのがあるそうです。

 今でこそスペインは1つの国ですが、15世紀になってイベリア半島のカスティーリャ王国とアラゴン王国が婚姻によって生まれた新興国です。

 学校の授業では、中央ヨーロッパから進入して国を興したゲルマン系の西ゴート族や、その後5世紀に渡り支配したアラブ系のイスラム王朝が記憶に残っていますが、どちらも支配層の交代だけで、多くの住民はその前から住み続けていたケルト・イベロ人を中心としています。

 イベロ人(白人)は、北アフリカからイベリア半島に進出し、その後紀元前頃、中央ヨーロッパのケルト人が侵入します。ケルト人と言うと、アイルランドや、ウェールズのケルト人が有名ですが、フランス人(ガリア人)もケルト人の一種です。
 このケルト人とイベロ人が混血し、ケルト・イベロ人となり、スペイン人を構成していきます。

 これほど多くの民族の進入を経験したスペインですから、てっきり人種に対しては大らかかと思っていましたが、そうでは無いようです。
 明確たる原因は調べきれませんでしたが、やはり大航海時代に散々行った黒人の奴隷貿易によるのでしょうか…
 
F1黒人ドライバー、ハミルトンに人種差別的行為=アロンソとの対立などが背景 (時事通信) - goo ニュース

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gooあしあと は こちらのURLから↓
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~usa_neko/
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スペイン国王セウタ訪問

2007年11月14日 19時39分53秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 このほどスペイン国王が、自国のセウタに訪問したことで、モロッコとの間に軋轢が起きているそうです。
 ジブラル海峡のアフリカ側にあるスペイン領で回りをモロッコに囲まれた領土です。元々、カルタゴがこの地に要塞を築いたのが最初で、その後ローマ・西ゴートと支配を受け、北アフリカにイスラム帝国が進出し、イドリース朝・ファーティマ朝・ムワッヒド朝などのイスラム圏の支配下に置かれます。
 15世に入りレコンキスタを終え、イベリア半島を奪還したポルトガルが対岸のセウタを攻略します。その後、セウタはポルトガルがスペインと同君連合となった際に、ポルトガルが再独立した後もスペインに残され、以来スペイン領であり続けます。
 この様な経緯から、モロッコではセウタの領有を主張しており、スペイン国王が自領としてセウタを訪問した事に反発しているわけです。
 一方、ジブラル海峡の対岸のヨーロッパ側は、英国が領有しており、この地が地中海と大西洋を繋ぐ要所だったことを伺わせます。

スペイン国王訪問、外交問題に=モロッコ領有主張の飛び地 (時事通信) - goo ニュース

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トルデシリャス条約

2007年10月11日 12時29分48秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 ポルトガルとスペインの話をしたので、両国の植民地政策に大きな影響を影響を与えたトルデシリャス条約について書きたいと思います。
 あまりにも有名なこの条約は、ポルトガルとスペインでヨーロッパ以外の世界を二分する範囲を決めたものです。これは、両国間の取り決めだけで無く、後に植民地を広げる英国・フランス・オランダにも植民地を持つことを禁止した排他的条約です。
 排他的に出来たのはローマ法王がポルトガルとスペイン両国が、新大陸での布教活動を行うことを条件に回勅と言う文章でこの条約を承認※1をした為です。これによって当時のヨーロッパ諸国としては、法王の意向には逆らえず※2植民地を持つ事が出来ませんでした。
 また、このことによりポルトガルやスペインが植民地とした国々ではカトリックが広まり、日本に渡来したポルトガル人も南蛮貿易と共に、布教活動を行いキリスタン大名まで出現することになります。

 この状態が本格的に破られるのは、オランダがプロテスタント国家としてローマ法王のくびきを解いてからとなります。これ以降、国教会の英国だけでなく、カトリックのフランスも本格的に海外に進出するようになります。
 特に布教活動を行わないオランダは、キリスト教を禁止した徳川幕府にとって都合の良い貿易国であり、このことから貿易相手はポルトガルからオランダになりました。
【名言】トルデシリャス条約を締結する
 ポルトガルとスペインが同盟を結んだ時。または植民地カードを二分する二大国が同盟を結んだ時。


※1:1481年に法王シクストゥス4世の回勅によって、カナリア諸島以南はポルトガル領と決められ、1493年にはスペイン出身の法王アレクサンデル6世がスペインに便宜を図り、子午線を境界線とし、西側をスペイン領とする回勅を出します。
 これを不満としたポルトガル王ジョアン2世は、直接にスペイン王フェルディナンド2世と交渉して境界線をさらに西側(ブラジル上空)にずらしたトルデシリャス条約を結びます。これを法王が1494年に追認し締結されます。

※2:フランス王フランソワ1世は、新領土から締め出されたことを「アダムの意志とはいったい何か?」と言って嘆きながらも、カナダ沿岸の調査をさせます。これが後にケベック州の植民地と、仏領ルイジアナの礎となります。

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東ティモール、植民地の傷跡

2007年08月15日 09時44分46秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 皆さんは東ティモール民主共和国と言う国を知っていますか? 東ティモールは、インドネシア諸島の中にあるティモール島の東半分を国土とする独立国です。見てのとおり、インドネシアの中にある小さな独立国と言った感じです。
 どうしてインドネシアと別の国になったのでしょうか? これには植民地時代の歴史が関係しています。インドネシアはオランダの植民地から独立した国ですが、東ティモールだけ、ポルトガル領でした。その為、東ティモールだけ別の国として独立しました。

 ティモール島には、16世紀前半にマラッカ(マレー半島)を交易の拠点としたポルトガルが白檀を求めて進出してきます。しかし、17世紀に入るとオランダがこの地に進出して、18世紀に掛けてインドネシア一帯を支配下に置くようになります。
 そしてこのティモールにもオランダは進出し、西半分をその支配下に置くようになります。何度か、全島の支配権がオランダ・ポルトガルの間で行き来しますが、最終的に島を半分にすることで合意し、その際に決められた国境がそのまま今の国境となります。
 第二次大戦後、インドネシアがオランダから独立した後も、東ティモールだけはポルトガル領として残り続けますが、1975年ポルトガルの支配体制が緩むと、ついにフレティリン(東ティモール独立革命戦線)の活躍により独立を果します。
 しかし、その東ティモールをインドネシアが不当に占拠します。これは独立が全島に及ぶことを恐れたことや、マスクス主義に傾斜傾向のあるフレティリンを、反共主義を国是とするインドネシアのスハルト政権(当時)が容認できなかったこともがありますが、何よりもインドネシアが全島の領有権を主張していることがあります。※1
 そして20年に渡る弾圧と混乱を得て、東ティモールは2002年に独立したのですが、その後もこのような混乱が続いています。同様に植民地時代に起因するごたごたを持つ国も多く、植民地時代の傷跡と言っても良いでしょう。


※1:ちなみに日本は、石油輸送の大動脈であるマラッカ海峡を有するインドネシアとの関係を重視し、東ティモールの占拠を黙認しました。

東ティモール東部で旧与党支持者が暴徒化、死者も(朝日新聞) - goo ニュース

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物語 スペインの歴史 人物篇

2007年06月26日 12時04分37秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 またまた本を借りて読みました。中公新書の「物語 スペインの歴史 人物篇」です。
 レコンキスタから、大航海時代とスペインの歴史は知っていたつもりでいましたが、スペインの代表的な人物となるとサグラダファミリアのガウディーぐらいなものでした(あとエンリケ航海王子)。
 この本では、レコンキスタで勇名を馳せた伝説の騎士エル・シド。スペイン・オーストリアハプスブルク大帝国を支配することになった皇帝カルロスの生母ながら、狂女王と呼ばれ半世紀を幽閉されたフアナ。新大陸の先住民におけるスペイン人の悪行を告発した修道士ラス・カサス。史上最高の文学作品であるドン・キホーテを書いたセルバンテス。そして画家ゴヤと、建築家ガウディー。

 この本では、このスペインの代表的な6人の人物について、簡単ではありますが描かれています。騎士エル・シドや、狂女王フアナはまったく知らなかったこともあり、その時代のスペインの歴史にさらに興味を持ちました。
 是非、次はさらに詳しくその人の生涯を知りたいと思いました。歴史書ではなく、小説風に面白く書かれたものは無いかな~。

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ギターの歴史

2007年03月24日 20時37分08秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 今回は、ギターの歴史についてです。やはりですが、スペインがギターの母国でした。16世紀のスペイン宮廷では、『貴族のギター』と呼ばれるヴィエラ(バイオリンの一回り大きいもの)が流行ります。
 17世紀に入るとスペイン、イタリアで復弦5コースのバロックギターがはやり、より「庶民のギター」として全ヨーロッパに拡がりました。18世紀に入ると、現在の6単弦ギターが出現して全盛時代を迎えるのですが、ピアノ音楽の台頭と共に徐々に衰えていきました。
 ところが19世紀中頃、フランシスコ・タルレガ(1852-1909年)が近代ギターの作曲・演奏を行い再びギターは黄金時代を迎えることになります。

 この時代、スペインはメキシコ、中米、ペルー、アルゼンチンと中米から南米に掛けて植民地を持っていたため、これらの国の音楽にギターが取り入れられるようになり、今の様に当たり前にメキシコなどでギターが使われている訳です。
 あのメキシコ人がギターを奏でる姿にも植民地時代の名残がある訳ですな~

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アルハンブラの想い出

2007年03月22日 12時36分03秒 | 国:スペイン・ポルトガル
 この間、テレビでギターの名曲「アルハンブラの想い出」(フランシスコ・タルレガ作)を聞く機会がありました。音楽のことは全然詳しくない私でも、以前に聞いたことのあるポピュラーな曲で、やはり名曲なんだなっと思いました。

 アルハンブラは、スペインのグラナダにある宮殿で、イスラム勢力がこの地を支配していた際に9世紀の後ウマイヤ朝からその原型が作られ、今の形になったのはグラナダを首都としたナスル朝(1238-1492年)時代になってからです。
 このモスクがスペイン(カスティーリャ・アラゴン)のレコンキスタによって、グラナダが陥落するとイスラム様式のままスペインの教会となります。
 フランシスコ・タルレガはここを訪れた際に、美しい中庭の噴水を聞き作曲したと言われています。

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スペイン継承戦争

2006年10月01日 07時04分12秒 | 国:スペイン・ポルトガル
今日の話題は、先の記事の「ハプスブルクの宝剣」に関係して1701-1714年に行われたスペイン継承戦争です。この後、日を改めて、ポーランドとオーストリアの継承戦争を書いていきたいと思います。

当時スペインは、ハプスブルク家のカルロス2世が統治していましたが、後継者が居ない状態で1700年に没すると、フランスはカルロス2世の姉とフランス王ルイ14世の子であるルイを後継者に推します。しかし、ルイではフランス王位も継承する恐れがあり、場合によってはルイがフランス・スペイン王と言う2大国の王になってしまうことを各国が懸念した為、フランスはルイの子、フィリップをスペイン王にしてしまいます。
これに反対したのがオーストリアのハプスブルク家です。オーストリアは引き続きハプスブルク家がスペイン王になるべきだとして、カルロス2世の遠縁に当たる皇帝レオポルド1世の子、カールを候補に推します。

これにより、フランス・スペイン対オーストリアの戦いが勃発します。当時のフランスは太陽王ルイ14世の元、大陸最大の軍事力を持っていたため、これを懸念した英国・オランダ・サヴォイアは、フランスの国力を落とすべく、オーストリア側に参戦します。
戦いは、オーストリアのオイゲン公、英国のマールバラ公の活躍により、オーストリアが優位に運びます。しかし、1711年にオーストリアの皇帝レオポルド1世に続き、その子ヨーゼフ1世も死ぬと、弟であるカールに皇位が回ってきます。
もし、オーストリアが戦いに勝ち、カールがスペイン王になると、オーストリア・スペインと言う2大国の王になってしまいます。これを懸念した英国が和平に走った為に、オーストリアも仕方なく和平に着きます。
これにより、フィリップのスペイン王位は認められたものの、スペインはナポリ、フランドルをオーストリアに割譲し、サヴォイアにはシチリア、英国にはジブラルタル、北米ハドソン湾を割譲します。

史実ではどうだか判りませんが、小説では皇帝となったカール6世は、スペインの王位を諦めることになったことを残念にお持い、スペイン風の趣味で当地を懐かしんでいました。

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スペイン無敵艦隊 轟沈!!

2006年07月01日 13時11分10秒 | 国:スペイン・ポルトガル
サッカーワールドカップで、期待をしていたスペインがジダン率いるフランス負けてしまいました。まあ、にわかファンなのですが、なんか「無敵艦隊」と称されている時点で、そんな気も薄々していました。
かくなる上は、今夜のブラジル戦でフランスに良い戦いをしてもらいたいです。

さて、このページらしく、今回はこの「無敵艦隊」のお話。
無敵艦隊とは、1588年にスペインが英国に侵攻した際の艦隊を称して各国(後の歴史化など)が言ったことですが、この艦隊アルマダの海戦で英国に大敗してしまいます。108隻の艦隊のうち帰還できたのは、54隻と言われていますので、まさに大敗でした。

このスペイン艦隊が何故、無敵艦隊と言われたかというと、1571年に当時ヨーロッパを脅かしていたオスマン帝国に対して、ローマ法王の呼びかけでスペイン・ヴェネチアを中心とする艦隊が編成され、レパントの海戦でオスマン艦隊を撃破します。
当時無敵を誇っていたオスマン帝国の初の敗退という事もあり、それを破ったスペイン艦隊が脚光を浴びることになります。そして、その後スペイン艦隊はフランス艦隊も破り、向かうところ敵無しになります。
こうして無敵と称されるようになったスペイン艦隊は、今度は英国にその矛先を向け、小型船しかない英国艦隊は駆逐されると思いきや、海賊上がりのフランシス・ドレーク提督の手腕により、スペイン艦隊は撃退され、スペインの黄金期に幕を閉じることになりました。

この「無敵艦隊」の呼称はサッカースペイン代表にもしばしば使われます。今回はフランスに負けましたが、若い選手が代表に選ばれていましたので、是非4年後また「無敵艦隊」を見たいものです。

【名言】無敵艦隊
 スペインが強力な海軍を場に作り上げた状態。


見せ場なし…ラウルのW杯は終幕 (スポーツニッポン) - goo ニュース
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