植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

おでかけブロックス<ゲームレビュー>

2011年08月27日 08時16分13秒 | ゲームシステム
 旅行中の機内で遊ぼうと思って買ったものです。ブロックスは4人用をネットでダウンロードして遊んでいたのですが、2人用は初めてです。やってみると4人用とはまったくちがった感じで戸惑っています。ルールは一緒なんですが、どうすれば勝てるかのコツがいまいち掴かめないでいます。(汗)
 今はそれを掴もうとしているところが面白いかなー


 ブロックスのルールは、1マスから5マスのそれぞれの形のブロックを盤面に交互に置いていき相手よりも多く置けば価値です。置くのにはルールがあり、置かれている自分のブロックのカドとカドが合うように繋げて置く事。そして、自分のブロックとは辺ではくっつかない様にしないといけません。それだけのルールなんですが、奥が深いです。

 買った「おでかけブロックス」は持ち運ぶギリギリの大きさかなー。ブロックをはめ込んで固定するので、ちょっと外したりするのが大変ですが…。自分の色のトレイを外して手元に持ってきたりも出来るし、途中で止めて再開することも出来るし、よく出来ています。
 
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トルコ旅行-外貨とスーツケース

2011年08月20日 21時09分40秒 | 国:オスマン・イスラム
 トルコ旅行まであと少しです。なんか落ち着きません。そろそろ準備が一通り終わってきました。

 まず、外貨を入手しました。なんで、トルコ行くのにどうしてトルコリラではなく、ドルとユーロかって?
 カッパドキアで気球に乗るのですが、これが現地でユーロで支払い
 それと、同行してくれる現地係員へのチップがUSドルだと言うので、ドルもつくりました。ドルとユーロはさすがにトルコで円→ユーロと言う訳にも、円→トルコリラ→ユーロって訳にもいかないので、日本で両替しました。
 チップは、空港からホテルの送迎で5ドル、半日観光なら10~15ドルって言われたのですが、結構高い気がします。相場が判らないので仕方無いのですが…
 現地で買い物で使うトルコリラは、さすがに日本で替えようとすると成田でしかもレートがかなり悪いので、頑張ってイスタンブールに到着してから作ろうと思っています。


 あと、スーツケース。私の方は10年ぐらい、台湾やら中国やらに行った際に使っていたものがあったのですが、久しぶりに押入れから出して使ってみたら、キャスターや取っ手のゴムが劣化して、ぼろぼろと取れてしまいました。急遽、粗大ゴミに出すことに。これで連れの分も含めて2つ必要になってしまいました。
 今後使う機会があったとしてもさすがに2つは家に置いておけないと言うことで、連れの分だけ一回り小型のものを買って、私の分はレンタルにしました。普通のレンタルだとそれはそれでお金がけっこう掛かるのですが、見つけたところは安くって、買うのと比べて半額以下かなー。


スーツケース:プレジデント ジャパン
http://www.rakuten.co.jp/president/
※ジャストサイズを購入

レンタルショップ・ドットコム
http://www.rental-shop.com/
※Lサイズをレンタル


トルコ旅行-準備計画
トルコ旅行-説明会
トルコ旅行-申し込み用紙記入と海外旅行保険
トルコ旅行-外貨とスーツケース

トルコ旅行-1日目 トルコ航空機内(成田-イスタンブール)
トルコ旅行-2日目 イスタンブール半日観光
トルコ旅行-2日目 イスタンブールフリー
オケイとラミーキューブ
トルコ旅行-3日目 パムッカレ・アンティークプール(パムッカレ温泉)
トルコ旅行-4日目 移動日 コンヤ
トルコ旅行-5日目早朝 カッパドキア・バルーンツアー しかし!気球が!
エルマチャイ
トルコ旅行-5日目 カッパドキア・ウフララ渓谷ウォーキング
トルコ旅行-6日目 トルコに行く前に絨毯とトルコ石を買うかあらかじめ決めよう!!
トルコ旅行-7日目 最終日イスタンブール
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サクサク三国志:曹昴

2011年08月14日 10時13分16秒 | ゲームシステム
所属:曹操
年齢:約25歳(200年の時 ※197年に死亡)

 曹操の長男です。母は曹操の最初の妻 劉夫人ですが、劉氏が早くに無くなった為、曹操の次の正妻となった丁夫人に育てられます。丁夫人は子供に恵まれなかった為、曹昴のことを実の子の様に育てたといいます。197年曹操が宛の張繍を攻略するのに従軍します。張繍は曹操に降伏しますが、曹操が張繍の叔父の未亡人 雛氏に手を出したことがきっかけで反乱を起こします。
 迫り来る張繍軍に対して親衛隊の典韋が曹操を逃がすべく門に立ちふさがり、敵を通さないように奮戦して戦死します。その間に曹昴は、曹操を馬に乗せ逃がしますが、曹操の馬に矢が当たり走れなくなってしまいます。すると曹昴は自らの馬を曹操に差し出すと曹操を逃がして自らはその場に留まり、追って来た張繍軍と交戦して戦死してしまいます。
 なんとも親孝行な最後を遂げているのですが、曹操は身内の丁夫人には深く謝罪してますが、対外的には典韋の死の方が悲しいと公言します。多くの部下を率いる立場の曹操としては仕方なかったのでしょう。このことで丁夫人とは離縁しています。

 曹昴に関する記述は少なく、後年 曹丕が兄の能力はたいしたことは無いとか、張繍にお願い事をされると、私の兄を殺しておいてよくそんなお願いができるな。など言ったことが残っています。曹丕はかなり兄のことは意識していたようです。

 能力ですが、これだけ早く実績を残さずに無くなると評価のしようがありません。曹丕の評価を信じて、オール2をベースに武力だけ曹操を助けたことを評価して3にしました。
 もっとも特徴を与えたのは、この追加では曹昴を群雄(表)にして、曹操を後継者(裏)にしています。さらにいつでも曹昴を捨てて、曹操にすることが出来る能力も追加です。これによって曹昴からゲームをスタートして、回りの状況をみて、曹操にチェンジ!ってワザが使えます。
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袁紹の言い訳3

2011年08月13日 09時15分56秒 | ゲームシステム
※この記事はあくまで千夜の想像です。

(袁紹)もはやここまでか…、私は黄河を再び渡ることは出来ぬのか…
(沮授)何をおっしゃる殿! ここは私が引き付けます故、殿はお逃げください!
(袁紹)しかし、沮授!お主は!
(沮授)沮授が居なくても天下は困りませんが、殿が居なければ困ります故。ではさらばです。
(袁紹)沮授ぅ~!お主の忠義は忘れぬぞ!!

 その後、袁紹は僅か800騎で黄河を渡り、逃げることが出来、一方沮授は曹操に捕まってしまいます。沮授の能力を惜しんだ曹操は臣下になることを勧めますが、沮授は断固拒否し、沮授は処刑されてしまいます。


7.倉亭の戦い
 黄河を渡って曹操の追撃を振り切ったが、冀州の豪族が曹操に寝返り始めておる。ワシは一度、倉亭に腰をすえて兵を集めると、反乱を起こした豪族を鎮圧することにした。元々ワシの治世が良かったから、住民はワシの味方だから、鎮圧はスムーズに進んでいた。しかし、まあ当然何じゃが、ワシが倉亭を空けた途端、曹操がちょっかいを出して来おった。急ぎ倉亭に戻るが、曹操は「勝った!勝った!」と言って撤退したあとじゃった。そんな嫌がらせを受けた為、結局ワシはすべての反乱を治安するのに2年も掛かってしまった。疲労困憊じゃ…。


8.袁家後継者問題
 そしてまさかまさかじゃ! そのままワシはギョウに戻ることなくポックリと逝ってしもうたんじゃ。しかし、案ずること無かれ!ワシの意思は袁尚がちゃんと継いでくれる。その旨、遺言を審配に託したのじゃ。それに、袁譚・袁熙、高幹には袁尚をサポートするように予め言って聞かせておる。その為に3人には刺史に任命し各州の自治権を任せると言う破格の待遇を与えておるのじゃ。3人に自治権を与えるから、ワシの後継者を袁尚と認めるようにとな。

 ……。

 な!何故じゃ! なんかワシの遺言、審配が捏造した事になっているしぃー!

 郭図じゃ!郭図がそんな嘘を言いおって!! さらに郭図は青州の袁譚の元に逃亡。ギョウの状況が判らぬ、青州の袁譚にワシが本当は袁譚を後継者にしたかったと吹き込んでおる!!! 信じるな~~!!!! 袁譚よーーーー!!!!

 駄目じゃった…。郭図に辛評も同調してしまい袁譚は袁尚に宣戦布告。そしてその隙をついて曹操が攻め込み、さらに窮地にたった袁譚は郭図の勧めで曹操と同盟。同盟して袁尚を攻撃する始末じゃ…(泣)
 袁熙と高幹は袁尚をちゃんとサポートしてくれていたが、4人がしっかり力を合わせて初めて曹操を防げるのじゃ…1人が欠ければ無理じゃ。

 かくして、華北4州を支配して、統一にもっとも近い男とまで言われていた袁紹本初と袁家の命運はこうして幕を閉じたのじゃ…。



 何がいけなかったのか………


という事で、如何だったでしょうか?
これにて袁紹の言い訳、終幕です。


※この記事はあくまで千夜の想像です。

袁紹の言い訳1
袁紹の言い訳2
袁紹の言い訳3
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サクサク三国志 プレイ報告(7/24) 甘寧が、『このかたが皇帝だ!』と宣言します。

2011年08月10日 22時18分03秒 | ゲームシステム
 友人がTRPGのコンベンションでサクサク三国志を遊んでくれまして、その報告を転載です。
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 メンバーは、コンベンション常連3名(友人、MYさん、MS君)と、参加したコンベンションで募った方2名(KMさんとKDさん)です。この2人は、物わかりが大変よく、戦争や一騎打ちではなく、謀略や、暴動からの支配、弱い手札を使ったはったりなど、かなりのハイレベルな戦いでした。

 KMさんが16点で、皇帝宣言を控えていたら、俺(友人)以外の3人(泣)が、猛攻、KMさんを10点におとしめると同時に、全員13点以上!!
 その後のKDさんの皇帝宣伝を、MYさんが止めて、その隙に、MS君が、皇帝宣言!!
 その時点で、MS君が戦えるカードは、和睦のみ!
 渾身の戦争を止められたあとの、彼のハッタリは効果絶大!で、直接戦争を避けた結果、KDさんが暴動を狙います。
 しかし、偶然持っていたカード(何だっけなぁ・・・)で、引き分けに持ち込んだ結果、倒せない状態になり、MS君の勝ちになりました。
 みんな、彼の残された手札を見て唖然。しかし、みんなもまた、相性のいいカードは手札になかったのでした。

 激戦でした。
 MS君の劉禅が、皇帝です。
 しかも、陸遜と甘寧が将軍で。
 …。
 感慨深いです。

 甘寧が、『このかたが皇帝だ!』と宣言します。
 ドラマです。

 ね、白熱でしょう?

 ちなみに、俺(友人)は、KDさんとKMさんに、ルールを教わり(あれ?)、俺だけ、9点以上になれませんでした。
 うーん。みんなは大満足みたいでした。(笑)
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こちらこそ遊んで、報告まで頂いてありがとうございました。m(_ _)m

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サクサク三国志:馬騰

2011年08月07日 08時55分12秒 | ゲームシステム
所属:独立→曹操
年齢:約51歳(200年の時)

 ゲームでは左上の端っこの涼州からスタートする脳筋軍団のボスです。馬騰は母親が異民族の羌賊ですのでハーフで、その異民族の血の為か、身長八尺184cm!で容貌も雄異であったと言います。王国・韓遂が反乱を起こした際、馬騰を見た役人が只者では無いと思って部隊を預けたところ、たちまち戦果を挙げてしまいます。しかし、もともとこの反乱は役人側に問題があって起きた為、ほどなくして馬騰は韓遂に組するようになります。
 董卓の長安遷都後に協力し、軍功を挙げて征西将軍にまでなっています。その後、董卓が殺され李傕らが政権を握ると、李傕とも関係を結ぼうとしますが、些細なことで不仲になり、ちょうど劉焉が息子を使ってクーデターを起こそうとしていたので、それに組にして李傕を攻撃しますが、これは李傕に軍配が上がります。
 その後は、韓遂と義兄弟の契りを結びますが、またこれも不仲になって互いに争うようになります。ちょうど長安や洛陽を鍾繇が曹操に任命されて治めていた時期で、鍾繇によって2人は和睦しています。さらに曹操が袁紹と対決すると、袁紹側の郭援が洛陽を目指して進軍してきます。これに援軍を要請され、馬超・龐徳を派遣して郭援を討っています。

 208年に馬騰は曹操のたっての命令により、軍の指揮権を放棄して朝廷に出仕することになります。この際、指揮権は息子の馬超に預けていました。しかし、211年に曹操が張魯を討伐する為に軍を西に進めると、これに恐れた韓遂・馬超らが反乱を起こします。その為、入朝していた馬騰は曹操に捕られたれて一族と共に処刑されてしまいます。

 意外にあっけない最後です。統率と武力ですが涼州で勢力を誇りますが、むちゃくちゃ戦に強かった訳ではなさそうです。ただしぶとく反乱を起こしていますので、統率は3として「戦争で死なない」をつけました。武力はさすがに3はさびしいので4、政治は君主と言うよりも軍団のトップぐらいでしかないので1、知力は特に減点が無いので2。
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北キプロス・トルコ共和国

2011年08月06日 07時36分07秒 | ゲームシステム
 トルコ旅行を行く中で、旅行会社からでかいトルコの地図を貰いました。地図は大好きで魅入ってしまいます。(笑)
 この地図、トルコで作成されたものでそれに日本語のルビを入れたものなんですが、ふと地図の下に目を通すと、キプロスが北キプロスと南キプロスに分かれている!!

 キプロスは、地中海に浮かぶ島で、植民地時代にオスマントルコから英国が分捕って英領となり、その後独立します。キプロスはギリシャ人が70%で、トルコ人が30%の構成だったので、大統領はギリシャ人、副大統領はトルコ人となり、トルコ人にもある程度の権限が配慮されていました。
 しかし、隣国ギリシャがちょっかいをかけて来た為、キプロス内でギリシャとの併合話が巻き起こり、キプロス大統領もその気になり、トルコ人副大統領の権限を大幅になくし、トルコ人のことを考えなくなります。当然、内乱状態になり、みかねたトルコが兵隊を派遣して北部を占領して、トルコ人の保護を図ります。そして北の地域だけ分離独立を宣言します。
 当然、ギリシャもこれに反発して兵隊を出してあわや希土戦争再びか!!と思われましたが、ギリシャの軍事政権が崩壊してしまい戦争にはならず、逆にキプロスも北をトルコが支配したままとなってしまいました。一応、国連などが再統合を提案するなど調停は行ったのですが、内乱の結果、南側の住民も北との再統合は望んでおらず、キプロスは南北に分断されたままです。
 しかし、この状況でも北キプロスを国家だと認めているのは、トルコのみの為、いろいろな地図を見てもキプロスはキプロス共和国1国のままなんですが、今回手に入れたトルコの地図ではちゃんと南北に分かれております。

 日本ではなかなか見ることの無い一面を地図から見ることが出来てちょっと勉強になりました。
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