ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ひなびた商店街

2019-09-10 09:01:43 | 映画
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/16(月・祝)10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席 
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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昨日は「兄消える」という映画を観てきたことを書きましたが、今日は、映画本編とは関係のないことで思ったことが1つありまして、それについて書かせていただきたいと思います。



映画の舞台は長野県上田市。
ひなびた商店街が舞台となっています。
全国にもいっぱいあるんじゃないですかねぇ、こういう雰囲気の商店街。
観光客や、観光客とまではいかないにしても週末になると市外、県外からの人々で賑わうという商店街ではなくて、地元の人たちが日常生活のために使うような商店街。
商店街の中だけでお金が回っているだけのようなビオトープ。
借りてまで商売しちゃあ成り立たないんで、よそからここで何かお店やりたい、って新たにやってくる人もいなくて、この地に生まれ育った人たちだけがひっそりと生きている・・。
でも、この地で絶対に生きて行く人たちが頑として「いる」、ということは、その人たちを相手に商売することにとっても、こんな心強いことはない。
だって、細々とではあっても売上ががくんと減るってこともないんだもの。
反対に私が生まれ育った「柳が瀬」という商店街は、にぎわったピークの頃には市外からもお客さんがいっぱいくるような商店街でした。
だからこそ廃れてからは、地元の人間相手にだけではとても成り立たないから、ということで閉めちゃったお店も多くて、今や究極のシャッター商店街のようになってしまっています。
私が子どもの頃は週末ともなれば芋の子を洗うような人混みで、遠くからみると人の頭の黒いのだけが毛虫のように蠢いている光景があたりまえでしたが、今やアーケード街の道幅が妙に広く感じます。



さて、こういう映画の舞台となった商店街の人たちって、だいたい何にも言わなくてもお互いの生活レベルがわかっているんじゃないでしょうかねぇ。
だって、何も探るつもりはなくても、だいたいその店の顧客が何人くらいで、ヘタすりゃどこの誰かという顔まで透けて見える世界なんだもの。
「あそこの弁当屋、毎日20個ぐらい持って町内中、配達に行ってるなぁ。1個1000円として売上20000円。7000円ぐらいが純利として月にすりゃ20万ぐらいかぁ。ぎりぎりの生活だろうなぁ。自分ちだからやっていけるようなもので」
とかね。
そしてこういう商店街では飛びぬけて「あそこの店だけはどうも羽振りがいいやね」とか、「あそこの店だけ急に売れなくなっちまったね」という極端なことは起こりえないでしょう。
だって、自分たち自身が店であり、客であるんだから。
だいたい平均的な同じような懐具合の人たちばかりの商店街。



こうなると価値感も似てくるから、お互いが助け合えるんですよね。
自分と似たような痛みを持った人に対しては共感も抱きやすいから。
映画のなかでは実際に毎朝配達に出かけるお弁当屋さんがいて、この人があるとき車と接触して事故を起こしちゃうんですよ。
額から血を流して倒れているんだけど、
「あぁ~、お弁当はどうなるんだろうな。配達しなくちゃいけないのに。救急車で配達してくんないかな」
なんてことを言うんです。
路上には中身が散らばったお弁当が散乱していてもう使い物にならないことは目に見えているのに・・。
それくらい切実だってことでしょうね・・。
このお弁当屋さんは不幸中の幸いで、たいした怪我ではなかったらしく、事故後も額に包帯まいてまた配達に行っている様子が一瞬だけど描かれていました。
でももし、1か月は入院することになった、なんて場合でも残された奥さんが代わりに店を切り盛りするんでしょうねぇ。
そして顧客だった人たちは、
「あんたも大変だねぇ。あんたがちゃんと食べてるかい? これ作って来たからお食べよ」
なんてお惣菜を分けてあげたり、
「旦那が戻ってくるまでは、お弁当、うちから取りに来るからいいよ」
なんて言ってくれたりするんでしょうねぇ。
そうやって助け合い、声をかけあいながら生きて行く。



そういうのが、なんだかとても懐かしい気がしました。
私自身がそういう商店街で生きてきたわけでも、そういう「お互い様」のなかで生きてきたわけでもないのに、それでもなんだか懐かしい。
まるで日本の原風景を見るかのような思いで懐かしい。



それに比べると、今は、たとえ都会に住んでいるわけでなくても隣に住んでいる人がどういう懐具合かなんてわからないでしょう。
ボロアパートの一室に住んでいるホームレス寸前かと思っていたような若者が実はやり手のディトレーダーで、何億も資産がありました、なんてことも珍しくないでしょうし。
1日にしてユーチューバ―として名を馳せているかもしれないし。
私はそういうのって、ちょっと恐い感じがしちゃう・・
別にそういうことがいけないわけでもなんでもないんですよ。
私も若い頃は、そんな隣近所にシースルーに自分の資産やら生活ぶりが透けて見えているなんて、そのほうがよほどイヤだわ! と思っていたクチですから。
ただ、先ほども書きましたように、だいたい同じ暮らしのレベルだと共感しやすい、だからお互いを思いやりやすい、ってことはあるよな、って思うとこういう商店街の生活もなんか味があっていいな~なんてふと懐かしむような気持ちになったわけです。





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