ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

映画「おいしい家族」を観て

2019-09-24 09:01:40 | 映画
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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最近、なんだかかなり映画づいてるなぁ。
1週間に1本くらいの割合で観てやしないか? と思うのですが、それはひとえにこのところずーっと日曜日ごとに天気が悪いせいです。
それで外出をとりやめるから、ま、映画くらいにしておこうか、となる。
もう近くの映画館では特に観たいものもやっていませんでしたが、私はわけのわからない洋画よりはわけのわからない邦画のほうがまだまし、というタイプなので、そんなわけで「おいしい家族」を観てきました。



まずは、「映画.com」のあらすじをどうぞ。
『映画監督のほか小説家としても活躍する新鋭ふくだももこ監督が、かつて自身が手がけた短編映画「父の結婚」を長編化。妻を亡くした父親が再婚するまでの親子の日々を描いた原作短編映画から、舞台を離島に移し、エピソードやキャラクターを追加して家族の絆とそれに向き合う主人公の心境をより深く描き出した。銀座のコスメショップで働く橙花は、母の三回忌に実家のある離島へ帰るが、そこでなぜか父・青治が母の服を着て生活している姿を目撃する。驚く娘を意に介さず、青治は「この人と家族になる」と居候の男性・和生を紹介する。テレビドラマ版「この世界の片隅に」やauのCMなどで注目を集める松本穂香が主人公の橙花に扮し、長編映画で初主演を飾った。父・青治役は原作短編映画でも同じ役どころを演じた板尾創路、青治のパートナーでお調子者の居候・和生を「在日ファンク」のボーカルで個性派俳優としても活躍する浜野謙太が演じる。』



私的には全然満足できない映画でしたね。
あらすじには書いてありませんが、予告編でもやっていたし、ポスターにも堂々と出ているので言っちゃいますが、都会で働く娘が母の三回忌で田舎に帰ってみると、いきなり父親が、
「父さん、母さんになる」
と言い出すわけです。
そして母の服を着て、
「この人と結婚する」
と1人の男性とその男性の連れ子(? でもないんだよなぁ・・ 娘としていっしょに暮らしている女の子)を紹介します。
で、突然の告白に全然ついていけない娘がこの事態を受け容れるまで、という心情や全編に漂うハートフルさにフォーカスを当てているのだから、もうそれらすべてについては既成事実としてそんなに「どういうこと?」っていうのを追及しなくてもいいやん、ということなのかもしれませんが、観ている私としては、
「その男性と娘と『家族をつくりたい』というのならそれはわかる、それはよい。けれども、なぜ事実婚ではなく、(日本では同性婚は認められないから)その男性を養子に入れるということまでして結婚という形をとりたいのか」
が全然描かれていないので理解できませんでした。



まぁ、たぶん、たぶんですよ、私の推測としては映画でのこのお父さんの性格からして、
「嘘をつきたくない。穏やかに、しかし堂々としていたい」
というタイプのように見受けられるので、自分が本心からその男性とは「結婚」という形が一番しっくりくるのだ、と思ったからそうするだけなのだ、ということなのでしょうね。



お父さんは離島の学校の校長先生なのですが、そこへも今はお母さんのワンピースやスーツばかりを着て勤務に出かけています。
お父さんがお母さん(妻)の洋服を着るようになったのは、はじめはお母さんの作ってくれた料理の味を再現したいと思ってやってみるのだけれど、どうしてもうまくいかなかったのに、お母さんの洋服を着てやってみたらなんとそっくりの味が実現できた、ということからお母さんの洋服を着ていると、なんとなくお母さんがいつもそばにいてくれるような気がして・・ということでした。
この理由も、お父さんが「自分の本性はひょっとしたら女性なのでは・・?」ということに目覚めた、ということではありませんよね。
だから男性と結婚したい、というお父さんの中身が女性なのか、というとそうでもなさそうだ、ということから私は余計にわけがわからなくなってしまったのですが、これもそんな次元にこだわらずにとにかく“家族”になりたかったのよ、それでいいじゃない、で脚本家や監督からは片づけられそうです。



映画では、お父さんがお母さんになっちゃった、ということで苦悩しているのは長女だけで周りの人たちはみな、なんとも思っちゃいない様子です。
学校の校長先生がある日から突然女装して学校へきたら、児童たちもびっくりするでしょうし、それを親に言ったら、父兄もびっくりしてひとまずは、
「どういうことなのか、説明してもらおうじゃないか」
となりそうなものですが、そんな様子はみじんもありません。
親戚が集まる法事でもひとり憮然としている長女に、母の妹(つまり長女からみたらおばさん)が
「なに、ひとりで仏頂面してんのよ」
と声をかけます。
長女が、
「だって、おばさんはなんともないの? 自分の姉の夫だった人間が、女の恰好して男と結婚するって言ってんのよ!?」
と言うと、ニコニコしたまま、
「まぁ、いいんじゃないの」
と言うだけです。
とにかく周囲の人間があまりにも物分りがよすぎる。
これも少々違和感をおぼえたことでした。
現実的には「世間」というこの軋轢にみんな負けて、なかなかカミングアウトできないんでいるのでしょうから。



しかし、このお父さんを取り巻く周囲の人にそれを少しだけやらせている部分があります。
結婚するという男性の連れ子の親友で自分の学校の生徒でもある男子が実はトランスジェンダーなんです。
お化粧しているところを実の父親に見つかって、そのときの父親の顔が異常にびっくりしたあと悲しそうだったから、父親を悲しませる自分ってなんだろう、と自分を責めてしまって家出しようとします。
これまでもテレビなどで有名人のオカマの人が実の親にそのことをカミングアウトしたときの大変さを語っているのを見たり聞いたりしたことはありましたが、そりゃめっちゃ驚くだろうなぁ、という意味での衝撃の告白なだけで、お互いそれを受け容れて生きていくしかないだろうし、その心情にほんとに寄り添ってみることはありませんでした。
でも、この映画でこの男子が、
「親を悲しませてしまう自分ってなんなんだ?」
と思ったら消えていなくなりたくなった、というのを聞いて、その苦悩がちょっぴりわかった気がしました。



最後のほうにようやくこの事態を受けとめはじめることができた長女がお父さんにこう言うシーンがあります。
「お父さんがお母さんになったら、お父さんはどこへ行っちゃうの? お母さんが死んで、お父さんまでどこかへ行っちゃったら私はどうしたらいいの? お父さんはお父さんでちゃんと居てよ」
これを聞いたとき、自分が性同一性障害だということを打ち明けられた親ってこんな気持ちなのかもしれない、と思い至りました。
自分がこれまで男だと思って育ててきたあの子はどこへ行っちゃうの? 
あの子はこれまでもいなかったことにしてくれ、ってことなの?
そんなの、ない・・。
男の子だと思って来た我が子をどうしても女の子とは思えない、というそれを許せないというそんな気持ちなのではなく、男の子だった我が子の存在を否定しなくてはいけないのがやるせなく耐えられないのかもしれません。
思い出が手放せないのかもしれません。


そんなことで
「結婚ってなんだろう?」
というシンプルにして深淵なテーマを抱えて帰ってきたところ、ちょうどテレビ 辛坊次郎の「そこまで言って委員会」で、なんでかしらないけど
「結婚ってなんぞや?」
ということについてやっていました。(きっと小泉進次郎と滝川クリステルの話題からこうなったのかなと思われる)
いつもの論客たち、さぞや面白い答えを言ってくれるかと思いきや、どの人もこの人も、手垢のついたごく当たり前のことを言っていました。
逆に言えば、さほどに「結婚ってなんぞや?」(これは、なぜ事実婚ではいけないのか? という意味も含まれます)というテーマは難しいものなのかもしれません。
あるいは、あまりに個々人にとって答えが違うから、おおやけの場で論じるようなシロモノではないのかもしれません。
そんな取扱いが難しいものを映画では1つの側面から、とはいえ、いちおうおおやけの場で問うたのだからそれだけでも意味のある映画だったのかもしれません。






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