ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

映画「2012」

2009-12-10 07:51:00 | 映画

この前の日曜日、ダーリンとふたりで映画「2012」を見に行きました。

「夫婦割引」と言うのを利用すると、半額となり、ふたりで2000円なので、ひとりで見るのとほぼ同じ金額で映画を見ることができちゃうんです。

でもこの夫婦割引なるもの、いまだに納得できない・・


何がっていうと、夫婦ふたりで100歳以上、片一方が50歳未満でもOKというものなのですが、この基準を満たす証明が実にいいかげん。

そりゃあ、確かに白髪のどこからどうみてもご年配たという老夫婦が訪れればフリーパスというのはわからないでもないですが、私達って基準ギリギリ通過の年齢なわけだから、映画館の切符売り場としてはもっとその証明を求めなくていいの?っていつも不思議なんですけれど、ほとんどフリーパスなんですよね・・

え? そりゃあ、おまえたちがどこからどうみてもふたりで100歳に見えるからだろうって?

    ・・そうっすか。ちょっとショック。

尋ねるくらい尋ねてよ。

この前、「ゼロの焦点」を見に行くときもわざわざふたりとも免許証だそうとしてるのに「あ、どちらかおひとりで結構ですよ。」と言われたし、今日もまた別の映画館で、「ふたりのカップルで100歳以上の割引になるのでおねがいします。」と言ったら、あえて「オトナ割引でなくて、夫婦割引ですね。」といい直されてしまったあげく、どちらも何も証明するものを求められませんでした。

いいの? こんないい加減な感じでいいの?

確かに映画館は斜陽産業だからそこを厳しくしてこなくなるより入れちゃえ、ってことなのかもしれないけれど、そういういい加減さがかえってお客のテンション下げることに寄与しちゃってるのかもよ。

で、肝心の映画ですが。

この「2012」を観たかったのは、そう、ご想像どおり。

テレビでの予告編をみて、「あ! マヤ文明で2012年が世界の終末と言っているからだな。」と思ったからであり、そういう終末思想をビジュアル化したものって絶対出るだろうな、と思っていたから、どのような解釈で2012年=世界の終わり、ということになったのか、そのあたりの描かれ方がどうであるのかを確かめたかったからです。

それがいわば、「2012年がマヤ文明では世界が終わるとき、ってことになってるから。」という単純な誤解に基づく描かれ方で、あとはひたすらCGを駆使したスケールだけはでっかいパニックもの、というかアドベンチャーものだったら許さないぞ、みたいなシニカルな批評精神があったことは認めます。

しかし、実際にはそんな部分があったことは確かですが、それを認めてでも、久しぶりになんていい映画を見たんだろう!という感動でいっぱいになった映画でした。

2時間半以上という長い映画だったのですが、まったく飽きることなくテンポよく、そしてどんどんクライマックスに向かって驀進していく、というつくりになっていて引き込まれてあれよ、あれよと言うあっという間に時間はたってしまいました。

それはなぜか、というと、確かにすごい迫力のCGを駆使したアドベンチャーモノであることは間違いないし、2012年がマヤ文明をどう解釈して世界が終末を迎えることになったのか、と言う部分は映画においてはたいして意味がない部分でしたが、これだけのスケールの大きい映画の割りには、ひとつひとつの家族愛というものが非常に上手に横糸として織り込んであった、ヒューマニズムあふれる映画だったからでした。

「タイタニック」+「ポセイドン・アドベンチャー」+α、そして割らず、みたいな感じ。

もし、皆さんが何日か後、何時間後には世界は終わる、と知ったとき、そしてそれが任務として誰にも口外してはならないと言われたとき、大切な家族に知らせることなくいられますか?

知らされたほうだとしたら、何といいますか?

そして、その瞬間を自分は最後まで人間らしく生をまっとうした、と言い切れる人生だったとするためには、どう過ごしますか?

もし、何分か後には世界が終わるとわかっていても、目の前に大事なこどもがいたら、やはり自分の命に代えてでもこどもを生かしたいと思いますか? そのためにはどんな行動をとるでしょう?

これらの命題を、いろんな角度から描きながら突きつけてくれる映画だったのです。

私は、映画のなかではとっても鼻持ちならない嫌な人間だったある父子が、自分の息子の命を守るためになら、その父親が自分の命を投げ出してでも息子を生き延びさせようとするシーンを見て、不覚にも涙がでてきてしまいました。


社会的にはどんなに鼻持ちならない人間でもその人にはやはり大事な家族がいて、お金でもなく、自分の命でさえなく、理屈でなく、そんな人でもひたすらその大事な家族を守ろうとするのだな、というところに感動してしまったのです。

その息子がまた憎ったらしいこどもでして(笑)・・・

でも親にとっては最高に可愛いこどもなんですよね。

誰にでも大事な大事なオンリーワンがいるんだな、と改めて思って。

そして、「全体のためには個は捨て去るべきかどうか」というこういった映画によくある究極の選択。

つまり、「個人にいちいち目を向けていたら、もっと大勢の人の命が危ないかもしれない。そんなとき、個人は抹殺してもしかたないとするかどうか。」ということですね。

これは理屈的には「やむなし」という結論にされることが多いのでしょうが、机上の理論と実際にそういう状態になってみたときには天と地ほどの開きがあると思います。この映画では、「人間が人間らしく生きるためには、最後の最後まで個人を助ける努力を惜しまなかった、というところまでやらないといかんだろー」ということをその場の全員が了承した、というところがアメリカらしい正義が発揮された、という感じがする映画でした。

ま、とにかく一度観る価値はある映画ですよ。まだの方は是非、2012年に世界が亡びるのかどうか!? マヤ文明では本当にそういうことを言っているのかどうか? ということはまったく横においておいて、この映画をただ楽しんでみてください。




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