さて、昨日は「母がしんどい」という漫画で、最後に主人公である著者がついに精神科にまで通うことになり、そこで出会った先生に、
「あなたはどこも間違っていない。今まで1人で戦ってきてえらかったね。」
という言葉をかけてもらったことにより立ち直ることができた、というところでハッピーエンドとなっているようだが、このことで私は思い出したことがある、というところで終わりました。
このことから思い出したこと、というのは、母のことではありません。
オーラソーマのコンサルテーションのことです。
オーラソーマに限らず、心療内科やスピリチュアルなセッションなどで、人は見知らぬ他人の前で(その他人とはその道のプロであると認めているがゆえに)、自己開示をします。
どうして見知らぬ他人に自己開示ができるのか(いや、見知らぬ他人だからこそできるのかも、ですね。)、といえば、この「母がしんどい」の著者が救われた言葉のように、「あなたはどこも間違っていない。」と肯定してほしいからですよね。
でも、実はこれは違うんです。
ひょっとすると「母がしんどい」の著者の記憶違いで、正確にはこのお医者さんもこういう表現をしたかどうか疑問なのですが、「あなたは正しい。」とか「あなたは間違っている。」というジャッジを下すことは、心療内科ではしないはずです。
きっとこの著者が「そのように言ってもらえた!」という気持ちになったから、そういう風に記憶が塗り替えられてしまっているんじゃないかなぁ。
私も多少心理学を学んだのでその記憶を手繰り寄せますと、心理学ではまずはクライアントとの良好な関係を築き上げるために、ラポールを作りなさい、と言われます。
ラポールとは「共感する」ということです。
オーラソーマでやってくるクライアントさんは自らの人生や体験を話されます。
聞くプラクティショナーは、全く同じ体験はしているはずはありません。
どんな体験もどの人独特のものがあり、1つずつ微妙ではあっても違う顔をしているはずですから。
けれど、その違う体験のなかから、“共感を得る部分”はどんな場合も同じ人間であれば必ず見つけられるはずなんですよね。
そこに対して、「あ~、気持ちわかるわぁ。」とか、「そう言っちゃいますよね。」というような合いの手を入れるわけです。
それはクライアントさんの“気持ちに添う”という行為であって、クライアントさんの言動を肯定したり否定したりするという“ジャッジを下す”という行為ではないんです。
“肯定”と“承認”は違う、ということです。
けれど、クライアントさんとしては「あ~、気持ちわかるわぁ。」とか言われると自分の話した内容自体を肯定された、という気持ちになるのもわかります。
そこをわざわざ再び、「あの、あなたのお話の中身そのものを肯定しているわけじゃあ、ないんですよ。」なんて口を添える必要もない。
それはクライアントさんがそう受け取った、ということなのですからそれでいいんです。
けれど、プラクティショナー側はあくまでも、「この人の体験話の内容を肯定したわけではない。私はこの人の気持ちに添って、この人の気持ちや考えを承認しただけだ。」という軸はブレずにもっておかないと、ついいつのまにか「肯定」をしちゃっていることになっていたりする。
それは間違いかもしれないけれど、お互いに心地よいものなので、つい「承認」ではなくて、「肯定」してしまった、ということを誰も糺してはくれないし、忘れてしまうんですね。
実はわたし、そうなっていたときがあります。
あるコースに参加していたときのことですが、生徒が自分がそれまでのワークで感じていたことをシェアしたとき、ティーチャーが、「それは違う。」と否定したんですね。
確かにその生徒さんのシェアは「え、今、このワークのシェアとしてそれを言う?」みたいなちょっと頓珍漢なところはありました。
けれど、「それは違う。」ってそこまではっきりと否定する?ってちょっとびっくりした覚えがあります。
たまたま私はその生徒さんの隣に座っていたので、否定された生徒さんは押し黙ってしまいましたが、横にいた私に、
「なんで? なんでわたし、こんなこと言われなくちゃいけないの?
もう何もかもイヤになってきちゃった!」
と言ったのです。
その生徒さんはそれまでとても温厚な人柄でニコニコとみんなに接していた人だったのですが、そのときには般若のような形相になり、人が変わったようでした。
その様子を見て私はぎょっとしてしまいました。
そして何だかパニクっちゃって、
「大丈夫、大丈夫。あなたは間違ってなんかないよ。」
とまさにこの「母がしんどい」に登場する精神科医と同じセリフを口にしていたのでした。
でも、それから私は何だか悶々としてしまったのでした。
1つには、やはりオーラソーマのティーチャーがはっきりと生徒の発言を否定したこと。
そしてもう1つにはいくらティーチャーが「それは違う。」とはっきりと否定的な文言を述べてしまったとはいえ、そしてそれにショックを受けたとはいえ、コースに参加するということ自体、自分自身に対するチャレンジなのですから、そこで「何でこんなこと言われなくちゃいけないの? もう何もかもイヤになっちゃった。」と自らの扉を閉じてしまうような意識の持ち方はもったいないな、と思ったということ。
なんとか「あなたのハートはオープンなままでいてね。」ということをうまく伝える方法はないのか、と思ってしまったのでした。
それは私の役目ではない、と思いながらも。
こういうことが起こったとき、「これは彼女の問題だから。私たちはただ見守るしかないのよ。」という措置を取る人がオーラソーマではほとんどでしょう。
ここで何か1つ横からアクションを起こすということは出過ぎた真似だ、ということはわかってはいても、私は何とかならないものかと思ってしまったのでした。(実際には何もアクションは起こしませんでした。)
そして3つめとしては、あれだけ温厚そうにみえた彼女が、一言意に染まぬことを言われたくらいで般若のような形相になってしまったことについて、それを私はどう消化したらいいというのだろう、と茫然としてしまったのでした。
それで私はこのことをある人に話しました。
彼女は、私がオーラソーマを始めてからずっとともに歩んできた人です。
彼女はこう言ったのです。
「私は、オーラソーマって、肯定や否定をするものじゃないと思ってるよ。」と。
そう言われて初めて私は正気を取り戻した、っていうか、「肯定と承認は違うはずだ。」ということを思い出したのでした。
彼女はこうも言っていました。
「肯定してほしいと、受けている方が思ったならば、
なぜ肯定してほしいと思っているのかってところが、大切なところかなぁって、思うんだ。
誰かに否定される自分を否定するのは(つまり、肯定するってことですね)、誰なのかって言ったら、結局自分なんだって思うんだ。
だとしたら、なんでそんな遠回りなことをしようとするのかって考える。」
なるほどねぇ。
ラハシャのカウンセリングスキルコースをずいぶん前ですが受けたときにも、さんざんラハシャは「表面的にその人に起こったことに対して、私は全く興味がないんです。
なぜその人はそのことをそのように感じるようになってきたのか? どこで愛されなかったのか? そのことに私は興味があります。」
とさんざ言っていました。
そのことをいま、思い出しました。
さらに、さらに彼女は、
「肯定してもらったことで、自分をやっと肯定出来た場合は、
他の誰かに否定された時点で、すぐにまた否定し始めるような。。。
そうするとまた、肯定してくれる人のところにいって
また肯定してもらおうとする。
それって、極端なことをいうと依存かなって気がする。」
これを聞いたとき、私は目からうろこが落ちました。
いやいや、目からだけじゃないな。
身体に張り付いたあらゆる鱗が落ちました。(え・・ 魚類なのかって・・? まさかぁ。)
それくらい衝撃的でした。
いい加減な“肯定”をしてしまうと、精神的自立を求めてやってきたクライアントをますますの依存者に仕立ててしまうことにつながってしまう。
“承認”と“肯定”は似ているし、その場で起きた言動だけをみたら、「肯定していたよね?」というように人には見えても、プラクティショナー側は常に一瞬たりとも「いいえ、肯定ではない。承認です。」という意識を持っていないといけないなぁ、と改めて身を引き締めたのでした。
「母がしんどい」の著者が通った精神科のお医者さまが「あなたは何も悪くない。」と言ったのも、その発言だけを取り上げると承認ではなくて、肯定のように聞こえてしまうけれど、きっとその前後すべてをつぶさに見て行ったら、やっぱり承認なんだな、ということが行われているはず。
それによって、この著者もようやく自分と母親との心の距離を取ることができたんだなぁ、と思ったのでした。
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