巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

使いすぎた脳にはブドウ糖が良いらしい

2004-10-13 04:09:00 | 美容と健康
glucose「頭脳労働者には、これですよ。」と、手わたされたのはブドウ糖。小分けの小さな袋の中に、純度の高いブドウ糖が2~3片入っており、これが18袋入りで315円(税込み)するらしい。うむむ、一般的な飴と比べて、結構お値段が高い。

ご存知の方も多いと思うが、ブドウ糖は他の糖類よりも吸収が早いのが特徴だ。そして、袋の能書によれば、「大人の脳は1時間に約5g、1日に約120gのブドウ糖を消費します。」とのこと。そういえば砂糖を科学する会のサイトの「砂糖健康学入門II 第1章」のページにも、同じことが書いてあった。

脳のエネルギー源は、ブドウ糖だけ。
脳はどの臓器よりも多くのエネルギーを消費するにもかかわらず、そのエネルギー源となるのはブドウ糖だけ。たんぱく質や脂肪では補えません。しかも、脳に蓄積できるブドウ糖はほんのわずか。ごはんやパンに比べて消化吸収が速く、すぐに脳にエネルギーを供給できる「脳のごはん」は、砂糖なのです。


脳は、1日120g・1時間に約5gものブドウ糖を消費する大食いの臓器です。
脳は、安静にしていても1日120g、1時間に5gものブドウ糖を消費する、驚くべき大食いの臓器です。しかも、少量しかブドウ糖を蓄積することができないので、常にエネルギーを補給しなければなりません。脳が消費するエネルギーを安定して供給するには、全身の血中ブドウ糖濃度を血液1dl当たり約100mgに保つ必要があります。
また、他の臓器ではたんぱく質や脂肪もエネルギーとなりますが、脳は血液・脳関門といわれる検問所で厳しいチェックを行い、エネルギー栄養素としてはブドウ糖以外のものを通しません。まさに、ブドウ糖は脳の活動を維持するのに重要な、唯一の栄養素なのです。
http://www.sugar.or.jp/health2/0101.shtml


なるほど、そこまできっぱり断言されれば、夜なべ仕事の脳内ガス欠時に、ブドウ糖の1片でも口に入れてみようという気にもなるというものだ。これで、煮詰まって回らなくなってきた頭も、ふたたび回りはじめるはず。

では、いただきます。(バクッ。)

ううぅ… はっきり言って、味はよくない。甘いには甘いのだが、ショ糖(ブドウ糖と果糖が結合したもので、いわゆる「砂糖」と呼ばれているもの)と比べて、妙な表現になってしまうが「甘さに魅力がない」のだ。これでは機能性食品とでも割り切らないと、他の飴を選択せずに、高くてまずいブドウ糖をあえて選択する理由はなくなってしまうだろう。

さて、これで頭にエネルギーが行ってくれるのだろうか? そうであってほしいのだが、自分の胴回りに手をあてるにつけ、いやな予感がむくむくと頭をもたげてきた。エネルギーが頭ではなく体の別の部分に行って、そこで蓄えられてしまうかもしれないという予感だ。プラシーボ効果でも良いから、効いてほしい部位に効いてくれ。頭よ、今一度さえわたれ!

ダイエットの必要がない頭脳労働者にお勧め。あとは、糖尿病の方の低血糖対策にも良いかもしれない。でも低血糖対策に持ち歩くなら、グルコレスキューのほうがよさそうだ。



自転車の価格

2004-10-12 12:31:32 | 日記・エッセイ・コラム
世の中には、時がたってもあまり価格が変わらないものがある。一般的には(ごく最近は例外とする)時がたつにつれて、物価や収入は上がっていくものなので、時がたっても値段が変わらないものは、実際の価格が安くなったものである。

たとえば食べ物でいえば、バナナとか鶏卵がそうだ。バナナといえば、かつては入院中ぐらいにしか食べられない高級品だった。バナナを扱う業者もかなりの収入を得ていたようでで、親戚の家の近くに「バナナ御殿」と呼ばれた立派な家があった。その家ではバナナの追熟加工を業としていて、かなりの収入を得ていたらしい。(バナナは青く、かたく、渋い味の未熟なまま輸入され、その後、室の中での追熟加工を経て、黄色く、やわらかく、甘くなる。)現在では、バナナでは立派な家は建てられないだろう。

前ふりはこのぐらいにして、話をタイトルに戻そう。そう、自転車の価格についての話だ。長い年月を経て、これもほとんど価格が変わっていない。つまり、自転車の実際の価格は下がっている。

かつて自転車は、庶民にとっては高価なものだった。昔読んだ本のなかに、松下幸之助氏と部下の、自転車にまつわるこんな話が載っていた。

幸之助氏が自転車業者と話をしている最中に、突然部下の1人を呼び出して、この部下に「おまえ、自転車を買え」と言った。部下は「自転車なんて買うお金はない」状態だったが、幸之助氏の命令なので逆らえない。そこで、自分の子供の貯金をこっそり引き出してお金を用意したところ、幸之助氏から「ああ、あの自転車は最初からおまえにあげる予定だったんだ(から、金は必要ない)。」と言われた。


幸之助氏の人となりをあらわすエピソードだったのだが、わたしにとっては、かつて自転車が庶民にとって高価なものであったことを、思い起こさせる話になっている。

わたしが最初に自分の自転車を買ったのは1973年で、ナショナルの自転車だった。父が当時勤めていた会社が、ナショナルの代理店もやっていた関係から、安く購入できた。定価31,800円の5段変速の女性用スポーツサイクルが、社販で15,900円。当時11歳だったわたしが、生涯ではじめて大きな買い物をした瞬間であり、「定価」というものに大いなる疑問を抱いた瞬間でもあった。なぜに、半額? 以来、わたしはモノの価格すべてに懐疑的だ。

生まれてこのかたもらったお年玉を全額貯金していたわたしは、それをすべて下ろして、15,900円を捻出した。ところが、買った自転車を乗り回したのはわたしではなかった。父が日々の通勤で使い、ある日駅に止めてあったところを盗まれてしまった。

「娘にお金を払わせておきながら、自分で乗り回し、あげくの果てになくすなんて」と、わが家ではけっこうヒンシュクものだったが、似たようなできごとは、自転車という文脈に限らなければ、今も昔もあちらこちらの家庭で起こっているのだと思う。つまり、オトナというものは、ときにはそういうことをするものなのだ。

さて今、自転車売り場を見まわすと、30年前の自転車の定価31,800円はともかく、あのときにわたしが実際に支払った15,900円でも、安い自転車なら購入することができる。最安値の自転車がお望みなら、10,000円札でお釣がくるだろう。もちろんあまりにも安いものは、数ヶ月乗っているとガタがくるという話だが。

先日カラスにサドルをほじくられたママチャリ系自転車はブリヂストン製で、たしか30,000円ぐらいで買ったものだが、もう8年近く乗っている。タイヤ、インナーチューブとも数回交換している。先週も後輪のインナーチューブを取り替えたので、乗り心地にクセはついてしまっているが、あと半年ぐらいは頑張ってもらおうと思っている。

ちなみに30年前の31,800円は、当時のナショナルの自転車にカタログにある、女性用の自転車の最高価格だった。父は「これ以外は、入手が困難」のような勢いで、強力にそれを推薦した。なぜその自転車だったかというと、社内における父のミエのためだったらしい。こういうことも、オトナはときにはするのだ。世の中のコドモたちは気をつけるように。


ラッセル・バンクス『大陸漂流』

2004-10-10 00:27:15 | 映画・小説etc.
秋の夜長。

若いころ読書と言えば文学書が中心だったわたしだが、最近ではともすれば読む本が研究関連の本とビジネス書ばかりになる。ビジネス書なんて、(自分でも1冊書いていなおきながら、こう言うのもなんだが)若いころは「煮詰まったオヤジの読み物」と思っていたのに、いまやそのオヤジの読み物を読んでいるとは、やっぱり歳をとったもんだ。

continental_driftというわけで、「ふくしまさん、お勧めの本ありますか」の声に、今回あえてとりあげてみたのは、半ば若ぶって文芸物。しかも、秋の夜長に相応しく、気合を入れないと、読みきれないものだ。しかし古典はとっつきにくいだろうから、現代物にしておこう。一応学部は英文学専攻という縁から、アメリカ現代文学を一冊推したい。

その一冊とは、ラッセル・バンクス(Russell Banks)『大陸漂流』(“Continental Drift”)。1980年代に書かれた、現代アメリカ小説の傑作のひとつだ。早川書房が出版した黒原敏行訳の日本版は、現在は品切れまたは絶版になっているが、一般図書をおく公立図書館の多くの蔵書になっていることと思う。(ちなみにわが東京都板橋区の区立の図書館には、ほぼすべてに1冊ずつ置かれている。)

この小説の主人公は、妻と2人の娘を持つ、善良な白人男性ボブ・ドゥーボイズ(Bob DuBois)。(この場合、DuBoisは「デュボア」ではなく「ドゥーボイズ」と読む。)彼はアメリカ北部のニューハンプシャーに住む30歳の石油バーナー修理工で、来る日も来る日も真面目に働いているのに、生活は常にギリギリだ。ある日「このままではこの先何十年経ってもいまと同じ生活が続いていくだけだ」という事実を認識し、このままでは軽蔑していた自分の父の生活と同じになってしまうことに気づく。この事実に耐えられなくなった彼は、北部の生活を捨てて、妻子とともに南部フロリダへ旅立つ決意をする。「今ならまだ人生をリセットできる」、「努力すればより良い生活が手に入れられるはず」と、アメリカの成功の夢を信じて。

物語のもう1人の中心的人物として、子持ちの若いハイチ人女性ヴァニーズ(Vanise Dorsinvilles)がいる。彼女もまた善良であり一生懸命働くが貧しく、絶望的な自国ハイチ生活の中で、フロリダへいけば幸せなれると信じている。

片や南部に移り住んだ北部出身のクラッカー(=cracker、貧乏白人)の1人として、片や迷信深いヴゥードゥー教の支配する不思議な世界の住人として、ともにアメリカン・ドリームを持つ異なる世界の2人の物語は、別々に進んでいく。そして2人の人生は、紆余曲折の末、物語の終盤でハイチ人の密入国請負船の密入国請負業者(あるいはその船の船長)と、その船に乗る16名の密入国者の1人となって交差する。

あがき続ける主人公たちは、最後まで現実の貧しい生活から逃れることができない。作者の描いている彼らの現状に対して抱く閉塞感、絶望感は息が詰まるほどだ。そして、彼等がそこから逃れようとあがき、最後に敗れる姿は悲劇だ。しかも彼らが努力してもしなくても、あるいは最初からこの世に存在しなくても、結局は世界にはそれほど変わりはないという気の重くなるような結末が、読者を打ちのめす。しかし、作者はこうも言う。

ボブの生と死の間に起こった出来事をすべてを知ったところで、世界は何一つ変わりはしない。しかし、彼の生を祝福し、死を悼むこと、それは、世界を変える。
(p. 400)


◇◇◇


作者のラッセル・バンクスは、現代アメリカ文学において、労働者階級の白人を書かせたら、おそらく右に出るものがない作家だ。映画好きなら、1997年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したアトム・エゴヤン監督の『スウィート・ヒアアフター』の原作小説『この世を離れて』("The Sweet Hereafter") や、ポール・シュレーダー監督の『白い刻印』(”Affliction")の原作小説『狩猟期』("Affliction")を書いた人といったほうが、わかるかもしれない。

『大陸漂流』の日本語翻訳の発行は1991年だが、たしか翻訳の発売にあわせて著者が来日して日本で講演をしたことがある。そのときにバンクス自身が、この作品とロード・ノヴェルの関連を述べていた。これはメルヴィルの『白鯨』やマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』のように、主人公が旅をし、旅の途中で起こるいろいろな出来事を通して成長し、物語の終わりには一人前になるという、アメリカ小説の伝統的なジャンルである。

またバンクスは、当時、沿岸警備隊に追われた密入国船が、逃げる途中で密入国者たちを突き落とし、そうやって溺れ死んだ密入国者の死体が、沿岸に累々と打ち上げられていたという事件を図書館で読んで、そのニュースに着想を得たものだとも語っていた。

長い小説である上に、途中にヴードゥー教の魔術的世界も入り、さらに物語の語り手の視点は次々と移動し、それをまとめるための「全知の語り手」の視点すら登場するので、気合を入れないと読めない。ゆえに「通勤途中」ではなく、「秋の夜長」にぴったりである。

現代アメリカ文学に興味がある人、またアメリカの白人の労働者階級の生活やマインドセットに興味を持っているひとにお勧めだ。特に、現代アメリカ文学を専攻する大学生には、一度は読んでほしい。(ただし、大学の図書館の中には、この本を置いてあるところは少ない。)先にホレイショ・アルジャー(Horatio Alger)の作品を読んで「アメリカ流立身出世物語」の世界にひたっておくと、より効果的だと思う。

しかし精神的に落ち込んでいる人間は、特に現在の仕事や生活のせいで落ち込んでいる向きには、あまりお勧めできない。ドゥーボイズの怒りと絶望を共有して、一緒にどっぷりと落ち込んでしまう可能性がある。これはひとえに作者ラッセル・バンクスの力量のなせる技だが。



200422(Ma-on) 台風一過

2004-10-09 21:44:28 | 日記・エッセイ・コラム
東日本への上陸台風では過去最大級といわれた2004年の台風22号が去った。

台風一過。いま東京板橋区のわが家の周辺はものすごく静かで、秋の虫が鳴きだしている。空にはまだ薄い雲がかかっているが、星もみえる。

今日は、出かける予定を中止して、家のなかで仕事をしながら、ひたすら台風の進路がずれることを祈っていた。40年以上東京に住むわたしとしては、全国で死者111人を出すとともに、最低気圧870hPa を記録した1979年の20号(台風名TIP)の悪夢がよみがえる。

しかもわが家ときたら、先日、区役所の職員にむかって「今度台風が来たら、うちは屋根が飛びます」と、思わず言ってしまったほどの老朽家屋なのだ。「屋根が飛んで雨水が入り込んだら、仕事でメインに使っているデスクトップコンピュータのデータだけは死守できるか?」「この非難時に最低限持っていくものは、仕事道具が優先か? それとも食べ物優先か?」そんなことばかり考えて、仕事がほとんどはかどらなかった。

午後4時ごろからしだいに激しくなる雨と風。5時半ごろ両方が最大になったときは、明日の朝一でホームセンターで飛んでいき、なくなってしまった屋根の部分を覆うブルーシートを買い求める自分の姿まで目にありありと浮かんでしまい、仕事がまったく手につかなくなった。しかし幸運なことに、台風の進路が事前の予想より東側にずれたため、天気はそれ以上は悪くはならなかった。6時過ぎあたりから雨と風が沈静化し、7時には両方ともぴたりと収まってしまった。

とりあえず、わが家は一瞥したところでは、事前に予想してたほどはひどい事態にはなっていないので、胸をなでおろしている。とはいえ、日本中で今回の台風で被害がでているわけで、被災された方々のことを考えると、なんともいえない重い気分だ。

とりあえず明日は、家のダメージのチェックと、近所の急斜面のチェック…それから、ノラネコたちが無事だったのか、彼らの数を数えておこう。

…と書いている今、外から恋するネコの鳴き声が聞こえてきた。いやぁ、彼らはたくましいなぁ。


頬骨・チークボーン・cheekbones

2004-10-08 05:00:00 | 日記・エッセイ・コラム
英語の雑誌などを読んでいると、男女を問わず容姿端麗な人間の顔立ちの記述には、必ずといっていいほど、頬骨(cheekbone、でも頬骨は左右にあるので、通常は"cheekbones"と複数で扱われる)への言及がある。しかもその記述は、"high cheekbones"(高い頬骨)とか"prominent cheekbones"(突起した/目立った頬骨)である。

高い頬骨は西洋において、何世紀にもわたって美しい顔立ちの必須要件だった。いまでも、スーパーモデルと称される人たちは、少数の例外をのぞいていずれも高い頬骨の持ち主であるし、ハリウッドで活躍する俳優たちにも、高い頬骨の顔立ちが多い。

cheekbonesたとえばミラ・ジョヴォヴィッチの顔立ちを見てみよう。頬骨が高い。また、アジア人の目には美形とは感じられないかもしれないルーシー・リューも、高い頬骨の持ち主であり、彼女の場合は、いかにもアジア的なアーモンド・アイ(=almond eyes、中国人や日本人の特徴として描かれるつりあがったアーモンド形の目)やまっすぐな黒髪とあいまって、かなりエキゾチックな美女と西洋人の目には映るらしい。しかし、ハリウッド随一のチークボーンの持ち主といえば、ジョニー・デップである。西洋人がデップで思い浮かべるのは、その卓越した演技力とともに、彼の高い頬骨なのだ。

西洋のモデルや女優たちのメイクでは、頬骨が強調されるようにチークが入っている場合が多い。チークは、頬に色をつけて健康的に見せる行為である以上に、頬骨の存在を際立たせるためのもののようだ。

もちろん、西洋社会にも頬骨が出ていない人間はいる。しかし美の基準は高い頬骨だ。こうなると、女性はとりあえず(そしてときには男性も)、化粧で頬骨を目立たせることになる。シェーディング(男性のために解説すると、ブラウン系のパウダーやファンデーションなどで、影を演出すること)とハイライト(白に近い色のパウダーやファンデーションなどで高さを演出すること)は、日本では平たい顔に立体感を与えたり小顔を演出したりするテクニックとの認識であるが、西洋ではしばしば、高い頬骨とその頬骨が作る影を演出するためのものと、明確に意識されて顔に入れられる。

また、化粧でいかんともしがたい場合は、頬にインプラントを手術で埋め込むという手もあり、この手の手術を受ける人間は結構いるらしい。

頬骨が明確な美の基準になっていない日本人の場合、女性の化粧では、顔全体の立体感は意識しても、頬骨を目立たせる感覚でチークをいれることはあまりない。また頬骨についての悩みでも、「自分の頬骨が出ていていやだ」という悩みを聞くことのほうが多いような気がする。

ところでわたしは、その容姿が「タイの大仏」にたとえられた20代のころは、頬骨の存在がまったく感じられなかった。30代半ばに入って、頬の下に影がうっすらと影がでるようになった。「彫りが深くなってきたらしい、これで化粧栄えがするわ」と、ぬか喜びしていたが、何のことはない。老化で顔の輪郭が落ちてきただけのことだった。

(写真は上より、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ルーシー・リュー、ジョニー・デップ)