巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

トラチビが子を産んだらしい

2013-04-27 23:49:05 | ノラネコ
いまだに、「まぁ、子ネコかしら」などと言われるほど小さな体の持ち主であるトラチビが身ごもった。

Torachibi_201304_1

彼女はちょうど1歳ぐらい。このところ彼女は小さな体でお腹がどんどん大きくなり、重そうだった。

Torachibi_201304_2

ところが、昨日生んだらしい。そういえば昨日は満月だったし。満月に出産が多くなるってホントかな?

見た人によると、生まれたのは4匹。1匹が真っ黒で、あとの3匹は寅吉と同じ模様だとのこと。というわけで、少なくとも子供たちのうちの父親のひとりは、寅吉である可能性がある。で、もう一人は恋の予感の黒ネコかしら。トラチビのおじさんにあたるんだけれど…

さて、トラチビの出産をもって、

↓ さっちゃんは、3歳にしておばあちゃんになった。

Sacchan_201304

↓ クロコ(仮称)は、ひいばあちゃんになった。

Kuroko_201304

クロコ(仮称)は、ここ3ヶ月ぐらいで急速に老いが目立つようになった。もう10歳ぐらいだっけ。ノラネコとしては長寿だろう。
彼女の1歳ぐらいの時の写真は↓

cat_47

2004年12月25日の「ネコ」ポリス その47に入れたものだ。このときのクロコの様子を、わたしは今もよく覚えている。「変だわ。どうしてあなたはわたしに何もくれないの?」と、目が語っていた。後で知ったのだが、彼女は近所のおうちでそれはそれは可愛がられていたとのことだ。






クールウォーター(バラ)

2013-04-23 23:02:32 | 日記・エッセイ・コラム
Cool_water_20130423

上の写真は、届いてから3週間をすぎても頑張っている、紫系のバラ、クールウォーター。

「紫系のバラのなかでは花持ちが良い」と聞いていたし、切り花長持ち剤を使用たり、説明書通りに毎日1 cmずつ切り戻したりしているからとはいえ、こんなに長く持つとは嬉しい誤算。

ピンクダイヤモンド(チューリップ)に続き、Flower MUJI (現在では無印良品ネットストアの一部)の切り花の、恐るべきコストパフォーマンス。(Flower MUJIの実力については「最後の最後になってFlower MUJIの実力を知った」を参照のこと。)

届いた日(3月31日)↓
Cool_water_20130331

4月6日↓
Cool_water_20130406

4月13日↓
Cool_water_20130413

毎日1 cmの水切りで、丈は当初より20cmほど短くなっている。花の部分がぽってりと重く丈の短くなった状態にふさわしい花瓶がなくて、仕方なく現在はギネスのグラスに。いつ花びらが落ち始めるかと待っているのだけれど、なかなかその状態にならない。

なぜ散り始めるのを待っているかというと、手持ちのフレグランスのボトルとのツーショットが撮りたかったから。

そのフレグランスとは、その名前の通り「クールウォーター」(ダビドフ)…

ではなくて、バラの花のはかない美しさを表現した、ステラ・マッカートニーの「ステラ」。最盛期を過ぎ花が重たくなって、軽く触れれば花びらが自然に落ちる状態のバラをイメージして香りを作ってほしいと、デザイナーである彼女が名調香師ジャック・キャバリエに注文。そして完成した香りは、トップノートがローズにピオニーにマンダリン、ミドルがローズ・アブソリュートでラストはアンバー。

これは何しろこのフレグランスは、ボトルが紫系。これがこのバラ、クールウォーターと合うからね。

でも、なかなかその時が訪れない。しびれを切らして↓

Cool_water_w_stella

◆香りに関する個人的なメモ◆

このバラ「クールウォーター」は、少なくともわたしの手元に来たものは、かすかに香る程度。

ステラ・マッカートニーの「ステラ」は、「薔薇石鹸の香り」とか「香りの持ちが悪い」とかいう人がけっこう多いけれど、わたしが使うと、少量でもかなりかなり長時間持つ。香りも石鹸の香りとは違う出方になる。同ブランドの「ローズアブソリュート」も、「ステラ ヌード」も愛用中。

ダビドフの「クールウォーター」(男性用)は、発売当時(1998年ごろ)愛用していた。ミドル以降の香りがとても好きだった。男性用のフレグランスとはいえ、わたしのように女性の愛用者も多かったのだけれど、つけすぎるとトップノートでまさに「オジサンの香り」に。ちなみに「クールウォーター ウーマン」は、好みの香りではない。



東京ディズニーランドの思い出~TDR30周年に寄せて

2013-04-15 22:37:10 | 日記・エッセイ・コラム
潮干狩りに行く途中のバスの中で、「ここにディズニーランドができるんですよ」とバスガイドさんが言った途端、東京は板橋区の公立中学の1年生の集団がドッと笑った1973年。冗談だと思ったし、「仮にそこにできたとしても誰が行くのだろうか」というのが、当時の12~13歳の正直な感想だった。だが、それから10年。本当にできてしまったのには、正直言ってたまげた。
◆ ◆ ◆

1983年の開園後、すぐに問題になったのは、「お弁当をもちこめない」ということ。新聞なんかも結構とりあげていたなぁ。

当時の日本人の家族そろってのレジャーといえば、お母さんが早起きをして、おにぎりだのお稲荷さんだのゆで卵だのを作り、現地でそれを広げてみんなで食べるのが一般的だった。

一方オリエンタルランド側は、(本音は入場者に少しでも多くお金を落としてほしいという気分も入っていたような気がするが、)公けには「非日常の中に日常を持ち込んでほしくない」「ここはアメリカ」という立場をとった。「アメリカ」なのだから、おにぎりやお稲荷など、日本文化の象徴である「弁当」ないだろう…ということらしかった。

「アメリカ」だから当初は園内で食べられるメニューにも、日本食っぽいものはあまりなかった。「日本食がないため、高齢者にやさしくない」との批判が出た。そこで「アメリカで日本食を作ったらどのようなものになるか」ということをコンセプトにしたメニューが現れた。

しかしそれでも、「お弁当を持っていきたい」という声は絶えず、最終的には園外にピクニックエリアを設けることで、解決を見た。

◆ ◆ ◆

わが家で一番早く東京ディズニーランドに行ったのは、母。開園した年に、職場の同僚たちと行った。母がスペースマウンテンに乗ったところ、途中で機械が故障して止まってしまったらしい。いつもは暗いはずのスペースマウンテン内部にパッと灯りがつき、係員に誘導され徒歩で出てきたそうだ。

わたしが初めて行ったのは、翌1984年。たしか時折小雨が混じる寒い曇天の平日だった。さすがに人出がまばらで、当時のアトラクション全てを1日で回りきることができた。

1987年の秋に職場の同僚たちと行ったときには、その年の春に新しく加わったアトラクション「キャプテンEO」を見ようと鼻息荒く、朝早く訪れた。

時はマイケル・ジャクソンの人気が絶頂期にあったころだ。開園前から並び閉園まぎわまで園内にいて、こなしたアトラクションの数は、キャプテンEOを含めてたった3つ。それでも満足だった。

◆ ◆ ◆

1990年から1991年にかけて、わたしは短期間ながら、建設用の工具や材料を製造・販売する某外資系企業に勤めていた。従業員のほとんどは中途採用組で、建設業界や土木業界からの転職者が多かった。

この会社に、「東京ディズニーランドはオレ(もしくは私)が作ったも同然」とわたしに言った従業員が、2名いた。その一人のAさんは「アメリカのディズニーと交渉して、東京ディズニーランドの企画をまとめたのは、当時商社で働いていた私」だと言い、もう一人のBさんは「東京ディズニーランドの中にある、水に関連する設備すべての設計を行い、現場を指導したのはオレ」だと主張した。

留意すべき点は、AさんとBさんがそのような主張をするのは、決まって私と当人だけしかいない状況においてだったということだ。

ある日、わたしがAさんに対して「Bさんが東京ディズニーランドの建設にかかわったと言っている」と言ったとき、Aさんは「それは嘘よ。私は建設関係者全員の顔を知っている。Bなどいなかった」と気色ばんだ。

後日、Bさんに「Aさんは東京ディズニーランドの関係者だったらしい」と言ったとき、Bさんは「そんなはずはない。オレは現場に毎日行っていたが、Aのことなど見たことも聞いたこともない」と、声を荒げた。

従業員が全国で200人規模の小さな日本法人に、東京ディズニーランド建設の中心的役割を果たした人物が、2名もいるはずがない。いや、1名だっていないだろう。そんな人物なら、そもそもあのような会社で働いてはいなかったはずだ。つまりは、この2人の話は嘘だ。なぜ、そんな嘘をついたのか。

もちろん、上昇志向の高い二人の自己顕示欲だったのだろう。だが、東京ディズニーランドは、建設にかかわる業界で働く人間が、嘘だとばれる確率が高いにも関わらず「自分がこれを作ったも同然」と嘘を言ってしまいたくなるほど、魅力的な施設だったのだ。

使わなかったブレストフォームを必要な人の手へ

2013-04-14 18:42:04 | 日記・エッセイ・コラム
乳がんの全摘手術を受けたわたしにとって、切除した胸に近い重さを持つシリコン製のブレストフォーム(人工乳房)は必需品だ。

「胸を失って、自分が女ではなくなったような気がする」と、思ったことはない。むしろ、「わたしの戦歴のシンボル」ぐらいに考えている。こう考えているのは、わたしが精神的に強い人間だからだというわけではなく、わたしの精神構造のせいだ。かつてはその豊かさを褒められた胸の有無よりも数キロの体重の増減のほうが、若いころ摂食障害を体験したわたしにとっては、はるかに精神的なインパクトがあるだろう。

とはいえ、体のバランスを取るということを考えると、左右にきちんと釣り合った重さがあることは重要だ。臼蓋形成不全のあるわたしにとっては、体がアンバランスな状態のまま活動をし続けた場合の、股関節への影響も怖い。というわけで、適切な重さのブレストフォームを常に着用している。

さてここ3年ほど、いつも使っているブレストフォーム2つの他に、使っていないブレストフォームを1つ、ずっと保管してきた。使っていないブレストフォームは、手術直後にネット経由で、手術前後の胸の大きさに合わせて購入したものだ。ところが、傷が落ち着く術後3ヶ月後ぐらいまでの間に、なぜか健側の胸が急速にしぼみ、このブレストフォームは大きすぎるものとして、使用できなくなってしまった。

シリコン製のブレストフォームは、結構なお値段だ。最低でも20,000円ぐらいはする。この使わなかったブレストフォームは、付属品も合せると40,000円ほどした。

シリコンのブレストフォームは、わたしにとっては体のバランスの問題だったが、人によっては、体ばかりか心のバランスを取り戻す助けにもなる。そして体と心のためにこのようなブレストフォームを必要としていながら、その価格がネックとなって手を出せないで人もいるだろう。(結局がんの治療には、健康保険の限度額の適用認定証があっても、かなりのお金がかかるし、しかもその出費は長期にわたるのだ。)わたしはそんな人に、このブレストフォームを届けたかった。

しかし、どうやったらそんな人に、確実にこのブレストフォームを渡すことができるのか。

まずわたしには、他の乳がん体験者との交流はない。乳がん体験者としてのわたしの立場が、少しばかり微妙だからだ。

手術後に一切の療法を受けておらず、放射線療法やホルモン療法や、あるいは抗がん剤等にまつわる様々な苦労を、今のところは経験していないわたしは、患者同士の話の中では、なんとなく浮いてしまう存在になる。言ってみれば、乳がん体験者の多くの人にとっては、わたしはホンモノの乳がん患者ではない。

その一方で、乳がんというものをあまり知らない人からみれば、「胸を残すことができなかったほどの」乳がん患者だ。(念のために書いておくが、たとえ温存が可能な状態であったとしても、ホルモン療法や放射線療法を避けるために全摘出を選んだと思う。)そしてこの病歴は、一般的には社会では不利になる。この微妙な立場ゆえに、さまざまな葛藤もあるのだが、それはまた別の話なのでここで詳しく書くつもりはない。

話を戻そう。どうしたらこの使わないブレストフォームを、必要とする人に確実に届けられるのだろうか。

ヤフオクに出品しようかと考えたこともある。だがこの方法をとって、乳がんや他の病気で乳房を失って、しかしブレストフォームが高すぎて買えなかった人の手に確実に渡る保証はあるのか? それに、オークションの値段もどうしたらよいかわからない。安く設定して変なトラブルを呼び込んでしまったら? 最終価格が高くなりすぎて、本当に必要とする人の手に渡らなかったら? そんなことを考えて、わたしはこれまでずっと保管してきた。

数日前ネット上で、不要になったブレストフォームのやり取りを促進しようとするグループのウェブサイトを見つけた。わたしはそこに連絡を取ってブレストフォームの寄附を申し出た。

求められる人のところに行って、その人を笑顔にしておいで。


そう心の中で念じながら、まるで娘を嫁に出すような気分で荷造りして、宅配便で発送した。明日には先方の手元に届くだろう。そうして最終的には、必要とする誰かの手に渡ってくれるに違いない。

あのブレストフォームが本当に必要な誰かの役に立ってくれれば、こんなにうれしいことはない。