巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

君はだれ?

2010-04-24 23:45:42 | ノラネコ
「昼間、新しいトラちゃんが庭に来ていたよ」と、ここ1カ月の間に、何度か母が言った。残念ながら昼間は家にいないわたしは、そのトラちゃんに出会ったことがなかった。

が本日、2階の窓から庭を見おろすと、母のいう「新しいトラちゃん」らしきネコが来ていた。

Cat_20100424


新しいネコかな? でも、2年ぐらい前まで庭に来ていたチビトラに模様が似ていなくもない。とくに背中の部分の模様のあまりはっきりしていないあたりが似ている。でも、チビトラは丸顔ではなかったからなぁ。



40年後

2010-04-24 11:59:22 | 日記・エッセイ・コラム
(この記事は、前記事「天津わかしお学校」の続きです)

40年。長いよね。40年たつと町並みは変る。わたしが生まれ育ったあたりも激変した。40年前、このあたりに高速道路は通っていなかった。40年前には高島平団地はまだ建設中で、まだ人は住んでいなかった。今は都営地下鉄三田線と呼ばれているできたばかりの都営6号線は、高島平―巣鴨間のみをつなぎ、高島平駅も西台駅も、人も建物もない平面の更地の上のポツンとある高架駅だった。

さて、天津に話を戻そう。







1970年代には、この地を数回訪れた。区が毎年夏になると、この小学校のOBに対して、学校の寮を利用した2泊3日の有料ツアーを行っていたからだ。

1980年代に訪れたのは、1回だけだ。たしか、1987年の3月の終わりか4月の初めだった。日本中のあちらこちらで大規模なリゾート開発が行われようとしているころだった。いくつかの護岸工事と、現さいたま市の市民保養施設ができた他は、17年たっても、周辺にそれほどの変化はなかった。春休みの天津養護学校(現:天津わかしお学校)にちょっとお邪魔したのだが、このときは小学校に当直していた先生が「最近、コンビニが1件できたんですが、これがこの町一番のビッグニュースです」と、言っていた。

1990年代に1度訪れたのは、たしか1996年あたりだったと思うが、しっかり「バブルが通りましたよ」状態になっていた。おそらく盛んに地上げが行われ、中途半端なリゾート開発がされ、そしてバブルははじけてブームは終わった。すでに「つわものどもがゆめのあと」感が漂いはじめていた。

そしてそれから十数年。バブルの間に建てられたリゾート型のホテルやら、民宿やら、別荘やら、企業の保養所やらは、しっかり古びて、さびれた雰囲気がただよっていた。ただでさえ潮風は錆を呼ぶので、建物や設備の耐用年数は通常より短くなる。わたしのような観光客が海辺でデジ一を構えたぐらいで、潮風にあたった後のカメラの手入れを考えなければならないのであるから、実際にそこにある建物や設備の潮風対策は大変だろう。台風一過の後は、付着した塩分を洗い落とすために家の屋根と外壁全体を水で洗い落としたりしなければならないらしい。もちろんきちんと洗い落としたりしても、劣化は通常より早い。年中潮風にあたっている自動車や自転車やメッシュフェンスも、手入れをしていてもガンガン錆びていく。

ところで、天津養護学校には、校歌のほかに寮歌というものがあった。その寮歌については、メロディーと3番の歌詞をうろ覚えに覚えているだけなのだけれど、たしかこんな歌詞だったと思う。

いつの日遠い未来の日
大人になった私たち
なおも変らぬこの浜の
潮の香りを懐かしむだろう


「なおも変らぬ」の部分が「この浜」にかかるのか、それとも「潮の香り」にかかるのかは不明だ。で、「潮の香り」と解釈すればこの歌はかなり正しいような気がする。空気のにおいは相変わらずだ。潮の香り…というよりは、磯臭さ。磯臭さの源は海藻だそうだが、このあたりは海藻が大量に採れる。(漁業権があるので、観光客はこれを採ってはいけません。)

↓ 海藻が波の間に(画像をクリックすると拡大します)

2010amatsu_5_2

が、「なおも変らぬ」の部分が「この浜」にかかっているのだとすれば、この歌は正しくはなかったようだ。

今回、防波堤際を歩いていると、砂浜の防波堤がところどころで高く補強され、防波堤沿いの道からは海が見えないところがあった。何でも、数年前の台風で波がこの防波堤を越えてしまい、海岸際の民家に被害が出たとのことである。これまでずっと機能していた防波堤を越波した大きな台風は、地球温暖化が原因であるのかもしれないが、確定的な原因はわたしにはわからない。

↓  防波堤の高さを後から継ぎ足したため、半ばトマソンと化した階段(画像をクリックすると拡大します)

2010amatsu_4_2


そして、変ったのは海岸そのものだった。「砂浜が減った」と、天津わかしお学校の寄宿舎指導員は言っていたし、わたしもそんな風に感じた。しかも、40年前にはなかったものが砂に混じっている。それはゴロゴロとした石ころである。こんなに、石ころがゴロゴロしていた海岸だったっけ?

↓ タンブル加工したかのように角がとれた大小の石がゴロゴロ、ゴロゴロ(画像をクリックすると拡大します)

2010amatsu_6_2

もちろん、砂浜が減ったのはこのあたりの話だけではない。日本中の砂浜の多くで、砂が減ったことが問題になっている。その理由の一つとしてあげられるのは、日本中のあちらこちらでダムを造ってしまった結果、海に流れる土砂が減ってしまったこと。もちろん、砂浜というのは周期的に増減を繰り返すものらしいので、人為的なものが原因であると一概に断じることはできないが。

そして、やはりある地元の人が言っていたように、護岸工事のために潮の流れが変わってしまったこともあるのだろう。大量の消波ブロック(いわゆるテトラポッド)は、もちろん必要があって置かれたものだ。だから、実際に生活していないわたしが、観光客目線で消波ブロックの是非についてここでコメントすることはしたくない。

が、やはり自然のある状態をヒトに好ましい状態に変えようとして、ヒトが自然に対して何らかの働きかけをすると、その時点では予想しなかった影響が後に出きて、今度はその影響の対策に悩まされることになる…ということは、ここでも起こっている。

↓ 消波ブロックのある海岸線(画像をクリックすると拡大します)

2010amatsu_7

天津わかしお学校

2010-04-18 22:09:15 | 日記・エッセイ・コラム
先週末、久しぶりに千葉県鴨川市にある、東京都板橋区立天津わかしお学校(旧:天津養護学校)の周辺を訪れました。(喘息、肥満、虚弱、偏食の子供たちを受け入れる全寮制の特別支援学校です。わたしは喘息児でした。このあたりのことは、2005年2月の「天津小湊町」という記事に、すでに書いています。)

1970年4月の写真との比較をアップします。白黒画像が1970年度の私の入学式(始業式)に父が撮った写真、カラーが2010年4月11日に私が撮った写真です。


↓基本的に建物は変わりません。が、わたしがいたころは、体育館もプールもありませんでした。また、教員の先生方もこの学校内に住んでいました。記憶が正しければ、今のプールの位置に教職員寮があったはずです。

2010amatsu_1


↓校門も基本的には変わりありませんね。

2010amatsu_2


↓潮の満ち加減が違うので確認撮れませんが、たぶんこの位置かしら? 天津わかしお学校の目の前にある砂浜は城崎海岸といって、夏は海水浴場になります。といっても、40年前は静かな海水浴場でしたが…

2010amatsu_3

さすがに40年たち、その間にかの「バブル経済」があったために、この周囲も以前とは変わりました。そのあたりの話は、次の記事で…

( 「40年後」に続く)







最期だから、会いに来たんだな

2010-04-13 23:24:03 | ノラネコ
Ojisans_cat

公園には「おじさんのネコ」とわたしが呼んでいるオスのノラネコが住んでいた。おじさんというのは、20年来公園にひんぱんにやってくるネコ好きの男性のことで、一時はそのおじさんを慕うノラネコたちで、公園はノラねこだらけになってしまった。

ある日だれかが公園のネコを大量処分し、ネコはほとんどいなくなった。わずかな生き残りのうちの一匹か、生き残りの子供がおじさんのネコであるらしかった。

オスネコというのはもっとテリトリーが広いものだと思っていたのだが、おじさんのネコはほぼ毎日公園に常駐し、いつもおじさんを待っていた。おじさんが来て公園のベンチに座ると、おじさんのネコも一緒にベンチに座った。おじさんが公園のベンチで昼寝をすると、同じような格好でネコもベンチで昼寝をするのだった。その姿はどう見ても種を超えた親子だった。

ここ2~3週間、おじさんのネコは姿を見せなかった。おじさんは心配していたが、わたしは「オスネコだから武者修行の旅に出たのだろう」くらいに思っていた。昔、母の実家で飼っていた雄ネコは、ある日突然いなくなり、数カ月後にボロボロになって帰ってきた。傷だらけで、片耳の先は千切れていた。ガールフレンドと縄張りのゲットのために、ライバルたちと壮絶な戦いをしてきたらしかった。そんなことがあったので、オジサンのネコも同じように旅に出たのだろう。そんな風に簡単に考えていた。

今日、おじさんのネコが死んだらしい。

おじさんが母に語ったところによれば、おじさんが昼間公園に行くと、久々におじさんのネコが公園に来ていた。が、おじさんがコンビニへ買い物に行くために10分間かそこらの間公園を離れ、戻ってくると、おじさんのネコはすでに死んでいたということだ。

ネコは、体調が悪くなると本能的に身を隠す。外飼いのネコが、急にいなくなってそれっきり行方不明なったが、後年、建て替えで家を壊したときに縁の下からそのネコの骨が出てきた…などという話はたまに聞く。

おそらく、おじさんのネコは具合が悪くて身を隠していたのだろう。そうして、本当にさいごだと思ったから、おじさんに別れを告げるために公園に出てきたのだろう。おじさんから直接話を聞いた母も、その話を母から聞いたわたしも、そう思っている。

(写真はいなくなる直前、3月27日に庭で偶然に撮った「おじさんのネコ」。ニャンとは鳴かず、ニンゲンがうなずくような声で「ウンウン」いうネコだった。)