数日前に母校の小学校のひとつ(母校の小学校は計4校ある)のウェブサイトを何気なく開いて、千葉県安房郡にある天津小湊町(あまつこみなとまち)と隣の鴨川市との市町村合併が本日2月11日付であり、天津小湊町という町名がなくなることを知った。
市町村合併と合併後の名称については、この地域に住んでいる人たちが決めることであり、部外者のわたしがどうこう言うことではないが、わたしはこの「天津小湊」という地名の響きが大好きだったのだので、少しばかりショックである。
天津にあるわたしの母校のひとつとは、東京都板橋区立天津養護学校という、全寮制の病弱養護学校だ。「空気のいいところで、通常の教育を受けながら、体も鍛えて元気になろう」というのがこの小学校の趣旨で、板橋区内の小学生(3年生~6年生)のなかで体の弱いこどもたちが、寮生活をしながら、一般の授業のほかに、症状別のトレーニングや食事メニューと毎日取り組んでいる。
かつて筋金入りの喘息児・虚弱児だったわたしは、小学校4年生の1年間(正確には、夏休みと冬休みは家に帰ってくるので、計3学期間)を、この小学校で過ごした。
当時この学校では、毎週日曜日に「家に手紙を書く時間」というのがあった。そこで封筒の差出人の欄に毎回「千葉県安房郡天津小湊町天津字新町1990」(当時の住所)と、1年間書き続けた。住所の後に「板橋区立天津養護学校 カンナ寮内」と続けて書かなければならず、9歳のゆみちゃんとしては、差出人住所の漢字の多さにうんざりした。が、毎回書いていれば、子供心にも地名に愛着が出てくるものだ。それに、なんとなく響きがきれいなので、児童たちはみんな「天津小湊」という名前が好きだった。
で、今回の市町村合併により、この天津養護学校は「千葉県安房郡天津小湊町天津1990」から「千葉県鴨川市天津1990」になったわけだが、「天津小湊」の地名がないのは、やはりさびしい。
ああ、こんなことを書いていたら、鯛せんべいが食べたくなったぞ…
ちなみに、個人的意見として、こういう全寮制の病弱養護学校へ、体がそこそこ弱い子が行くことは、かなりのお勧め。わたしなんて「親元を離れるなんてかわいそう」「(親は)学童疎開(の苦労)を忘れたのか」などという意見をものともせず、自分から「絶対に行く」と言い張って入り、実際にとても楽しかった。そりゃあ団体生活だから、子供たちの関係は自然と濃くなり、寮ではつらいこともあったけれどね。それに帰ってきたら「知恵遅れの学校にいっていた奴」といじめられたし。
でも「子供のころに戻れるとしたら、いつごろに戻りたい?」と聞かれたら、「小学校4年のころ」と答えている。
市町村合併と合併後の名称については、この地域に住んでいる人たちが決めることであり、部外者のわたしがどうこう言うことではないが、わたしはこの「天津小湊」という地名の響きが大好きだったのだので、少しばかりショックである。
天津にあるわたしの母校のひとつとは、東京都板橋区立天津養護学校という、全寮制の病弱養護学校だ。「空気のいいところで、通常の教育を受けながら、体も鍛えて元気になろう」というのがこの小学校の趣旨で、板橋区内の小学生(3年生~6年生)のなかで体の弱いこどもたちが、寮生活をしながら、一般の授業のほかに、症状別のトレーニングや食事メニューと毎日取り組んでいる。
かつて筋金入りの喘息児・虚弱児だったわたしは、小学校4年生の1年間(正確には、夏休みと冬休みは家に帰ってくるので、計3学期間)を、この小学校で過ごした。
当時この学校では、毎週日曜日に「家に手紙を書く時間」というのがあった。そこで封筒の差出人の欄に毎回「千葉県安房郡天津小湊町天津字新町1990」(当時の住所)と、1年間書き続けた。住所の後に「板橋区立天津養護学校 カンナ寮内」と続けて書かなければならず、9歳のゆみちゃんとしては、差出人住所の漢字の多さにうんざりした。が、毎回書いていれば、子供心にも地名に愛着が出てくるものだ。それに、なんとなく響きがきれいなので、児童たちはみんな「天津小湊」という名前が好きだった。
で、今回の市町村合併により、この天津養護学校は「千葉県安房郡天津小湊町天津1990」から「千葉県鴨川市天津1990」になったわけだが、「天津小湊」の地名がないのは、やはりさびしい。
ああ、こんなことを書いていたら、鯛せんべいが食べたくなったぞ…
ちなみに、個人的意見として、こういう全寮制の病弱養護学校へ、体がそこそこ弱い子が行くことは、かなりのお勧め。わたしなんて「親元を離れるなんてかわいそう」「(親は)学童疎開(の苦労)を忘れたのか」などという意見をものともせず、自分から「絶対に行く」と言い張って入り、実際にとても楽しかった。そりゃあ団体生活だから、子供たちの関係は自然と濃くなり、寮ではつらいこともあったけれどね。それに帰ってきたら「知恵遅れの学校にいっていた奴」といじめられたし。
でも「子供のころに戻れるとしたら、いつごろに戻りたい?」と聞かれたら、「小学校4年のころ」と答えている。
コメントありがとうございます
小湊小学校の運動会で、親善のために「板橋音頭」を踊ったことを思い出しました。
踊るほうとしては地元の「房州よいとこ 南を受けてよ…」のほうが楽しかったです。
4・5年生の時、天津にいました。1970~72年です。毎週日曜日の手紙書き思い出しました。城崎寮でした。
女の子の寮ははカンナとひまわりだったかな。あれから40年近く経ちます。
今年の4月にも天津に行きました。
詳細は
http://yfden.blogzine.jp/sokutsu/2010/04/post_f82d.html
でどうぞ。
川越先生が担任でした。
白波寮で寮母さんは岩田さん?だと思います。
今49歳です。
同級生に和久井さん井出さんなどがいました。
ふくしまさんとかぶってますか?
とても懐かしく思いコメントしました。
わたしは4年生の時に天津にいましたが、担任は長峰春樹先生でした。たしか3年生と6年生に井出姉妹がいたと思います。
一年ずれで 私が一年後輩のよですね。 二十五歳位までは 卒業生と偶然出会ったりしましたが ・・二十年以上天津関係は御無沙汰で 少し寂しく思っていました。ブログを拝見して たいへん懐かしく 凄く貴重な体験だっつたとあらためておもいました。 ふくしまさん 有難うございます。