![Les_miserables Les_miserables](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/c8/d08591f0d33d1ed7c2ca67876b3c0af9.jpg)
先日の三連休の最終日の24日の朝、近所のシネコンで『
レ・ミゼラブル』を観た。絶賛上映中と聞いて、朝一の8:25AMからの回に入ったが、ほぼ満員だった。あらかじめ予約をしていなかったら、良い席は取れなかったろう。
『レ・ミゼラブル』は、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの感動の文芸大作を原作とするミュージカルの映画化である。現在の舞台版の基礎は(それ以前にフランス語版があるが)1985年にロンドンで上演を開始。現在までに日本を含む世界数十か国で上演され続けており、世界中で大ヒットしている。
さて、ミュージカルのフォーマットは、歌とセリフの配分を基準にすると、2つに分けられる。
一つはセリフによる劇を主体とし、要所要所に歌やダンスが挿入されるもの。この場合、歌は主に、登場人物の感情が高まった場面で使用される。
もう一つは歌やダンスを伴う音楽が主となって、セリフがほとんどないか全くないオペラやオペレッタに近いものだ。
前者の代表的なものにはロジャーズ&ハマースタインの作品群(『サウンド・オブ・ミュージック』等)があり、後者の代表的なものはアンドリュー・ロイド・ウェバーの作品群(『オペラ座の怪人』等)がある。ミュージカル『レ・ミゼラブル』も後者だ。
トム・フーバーが監督したこの映画には感動した。ブーブリル&シェーンベルクのコンビによる素晴らしい音楽については今さら付け加えることはないが、映画化にあたりヒュー・ジャックマンやアン・ハサウェイらの歌える俳優と、舞台の実力派をミックスしたキャスティングが成功している。わたしは何ヶ所かで涙を流したが、そんな時に耳を澄ますと周囲からもすすり泣きが聞こえた。
だがその一方で、「もう少しどうにかならなかったのかな?」と不満に思うことが2つあった。
ひとつは、せっかくの映画化なのにスクリーンに妙な「狭さ」を感じたことだ。
歌い手の顔のアップがやたらと多い。この映画では、ミュージカル映画の撮影のプロセスとは異なり、俳優たちが実際に歌いながら演じているところをカメラに収めたそうだ。それはたしかに素晴らしいことなのだが、執拗な歌い手のアップはその副産物なのだろうか。たしかに目の前で人が朗々と歌っていたら、その人の顔ばかり見てしまうものだが。
そして「舞台ではできない映画ならでは」のシーンは、「船を引くシーンがあるので船を加えておいた」「当時のゴチャゴチャしたパリの俯瞰図が必要なのでとりあえず俯瞰図を入れておいた」「広場で起こっている出来事なので、広場を入れておいた」等、映画化するうえでどうしても避けることのできない、必要最小限を入れておいたという感じだ。しかもわたしはこの作品に、セット臭さとCG臭さを強く感じてしまった。
もうひとつ気になったのは、物語の進行が歌の歌詞に依存しすぎていることだ。
物語の進行が歌に大きく依存しているわりには、歌詞が伝えるのは主に歌い手の感情だ。原作が有名な小説だから物語の筋の説明はそれほど必要ないということかもしれないが、このミュージカルや原作の内容を知らない人には、話の流れが説明不足と感じられるかもしれない。
さてここで頭の中に浮かんできたのは、同じようにセリフのないミュージカルの映画化ながら、対照的な作りをした別の映画だ。その作品とは、アラン・パーカーが監督した『エビータ』(1996)である。
『エビータ』は、アルゼンチンで貧しい私生児として生まれ、女優から大統領夫人にまでにのし上がったエバ・ペロン(1919~1952)の半生を、皮肉を込めて描いた作品だ。わたしはかなりの数のミュージカル映画を観ているが、この作品については、誰にでも「ぜひ観てよ」とお勧めできる作品ではない。マドンナのファンとアントニオ・バンデラスのファンと、「故ゲイリー・ムーアのギターなら何でもいいから聞きたい」という人には、自信をもってお勧めできる。が、そもそもこの話がミュージカルに向いているのか否かといった議論もあるだろう。
だがこの作品の舞台はヒットし、ゆえに映画化された。映画化にあたって問題となったことのひとつは、「観る者が当時のアルゼンチンの状況を知らない」ということだった。
このことは、舞台化に先立って作られた2枚組の「ロック・オペラ」のアルバムでもすでに解決すべき課題になっていたらしく、ライス&ロイド・ウェバー(『ジーザス・クライスト・スーパースター』を作ったコンビでもある)は、当時のアルゼンチンの政治状況と社会状況をうまく説明するような歌を挿入した。その歌 "The Lady's Got Potential" は多くの舞台版では省略されたが、映画版では復活し、バンデラスがノリノリで歌う中、一般市民を巻き込む流血の軍事クーデターにより次々に大統領が変わっていくアルゼンチンの当時の状況を、映像がうまく説明していた。
また、この作品では、もともと作られた歌詞に引っ張られ過ぎずに、当時のアルゼンチンの状況を示すカットを多用したうえ、それ以上のこともやった。
(↑ 『エビータ』より、エバが貧しい民衆たちからの支持を得る一方で、上流階級からも軍部からも閣僚たちからも嫌われていることを示すシーン。若き将校たちが一列になってシャワーを浴びるという、舞台版にはなく映画版のストーリーの流れ自体にも必要ないカットに、映画館でのけぞった覚えがある。)
『レ・ミゼラブル』を『エビータ』のような作りにしてほしかったわけではない。『エビータ』はミュージック・ビデオ風の作りになっている個所が多く、文芸大作を原作とするミュージカルには、このつくりはふさわしくないだろう。だが、『レ・ミゼラブル』はあまりにも歌詞と舞台の作りに引っ張られすぎているように思える。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』は素晴らしい映画だ。でもひょっとして、もっと良い映画になる余地があったかもしれない。そんなふうにわたしは感じている。