巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

さよなら「殿様」

2017-05-25 06:19:18 | 映画・小説etc.

ロジャー・ムーアの訃報を知り、
多くの人は、007シリーズのジェームズ・ボンドのムーアのことを語る。
うん、たしかに彼のボンド君は素敵だった。

でもわたしにとって、ロジャー・ムーアは
いつだってTVドラマ『ダンディ2 華麗な冒険』の「殿様」こと、
ブレット・シンクレア卿だった。



このTVドラマが放送されていたのは、1974年の秋から翌年の春ぐらいだったと思う。
毎週土曜の夜の11時の10チャンネル(当時のNET、今のテレビ朝日)の番組枠だった。
とはいえ、この番組は時に、その前の番組の延長などがあると、
放送スケジュールの都合により放送されないこともあった。
放送されるのを今か今かと待っていたのに、番組全体がカットされて
その後に放送される『大相撲ダイジェスト』のタイトルが流れた時の
あの悔しさといったら!

ムーアの「殿様」はハンサムで、優雅でユーモアがあって素敵だった。
ただし、トニー・カーティス演じる「旦那」ことダニー・ワイルどのほうが
キャラが立っていた。

目をハートにしてこの番組を観ていた1974年の秋のある日、
友人と友人のお母さまと一緒に、映画を観ようと、日比谷へいった。
(たしか、『ヘルハウス』を観に行ったのだと思う。)
三田線で西台駅から日比谷駅へは、今なら30分ぐらいで行ける。
当時の三田線では50分近くかかった。
当時のわたしに、日比谷は結構遠かった。

50分間三田線に乗り続けて日比谷に出ると、わたし目に飛び込んきたのは
複数の映画館の入口の前に鎮座する「殿様」そっくりの007の等身大パネルだった。
007シリーズのオープニングの銃を構える、あのポーズの。

「いやー、白人はみんな同じに見えるわ。」

じゃなくて、殿様=ジェームズ・ボンド=ロジャー・ムーアだと知ったのは
それから数年後のことだった。

このブログのかつての記事「トニー・カーティスといえば…」にも書いたが、
このドラマの日本語版は、声優二人のオリジナルにはない、アドリブの掛け合いが面白かった。

オープニングから、アドリブの満載なのだが
youtubeには、オリジナルの、アドリブのないバージョンがアップされている。
当時中学生だった私にはささきいさおと広川太一郎の掛け合いがなければ
オープニングは非常に暗いものとなってしまうように感じられた。

英語がわかり、米国と英国の文化についても多少語ることができる今みると、
このオリジナルのオープニングが視聴者に与える情報の意味や
ジョン・バリーの音楽の素晴らしさが良くわかる。
タイトルに使用されているタイプフェイスには
時代が反映されていて、なんだか妙に懐かしい。





さよなら、さよなら、素敵な殿様。

『ヨセフと不思議なテクニカラー・ドリームコート』

2016-07-18 23:23:21 | 映画・小説etc.


2016年7月18日 東急シアターオーブにて

“Joseph and Amazing Technicolor Dreamcoat” という作品があるということを知ったのは、1978年か1979年のことだったと思う。当時、『ジーザス・クライスト=スーパースター』と『エビータ』という2つのミュージカル(いや、「ロックオペラ」というべきか)を成功させたイギリスの若き天才作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーと同じく若き作詞家ティム・ライスが、『ジーザス』よりも前に作ったもので、イギリスでは学芸会などで演じられている作品ということだった。

私は、池袋西武の輸入レコードのコーナーに足しげく通って、1980年代の中ごろまでに3種類のジョセフのLPレコードを手に入れた。一番短いものは20分位満たない、オリジナルの学校用の「カンタータ」に近いものだったと記憶している。3枚のレコードとも、「ナレーター」の役は男性だった。

その後の『キャッツ』や『チェス』や『オペラ座の怪人』の話題に隠れてしまい、日本で『ヨセフ』の話をほとんど聞くことはなかったが、1991年にロンドンでジェイソン・ドノヴァンがヨセフを演じた時は、日本のメディアもこれを取り上げ、「ぴあ」にもそのニュースが載った。観たかったなぁ、いかにもアイドルなジェイソン・ドノヴァンのヨセフ。

私たち日本人が日本にいながら見ることができる『ヨセフ』DVDが、20世紀の終わりごろに発売された。ヨセフは、私たちの世代には懐かしいあのオズモンズのダニー・オズモンド。これはこれで楽しいミュージカルだったし、私はこのときはじめて、このミュージカルの全容を見たのだった。

「『頑張れば夢はかなう』っていうのが、テーマかな。いかにもアメリカ的だな。」と、私の斜め後ろに座っていた年配のカップルが言っていたが、ストーリーは旧約聖書の中に書かれている話をベースにしている。もととなる話は創世記の37章から46章にある。

この作品は、現代に住む私たちと旧約聖書の世界をつなぐ媒体としての「ナレーター」が物語を進行させるのだが、ナレーターの出し方が結構難しいような気がする。私がこれまでDVDでみたり、CDやLPで聴いてきたバージョンでは、ナレーターがほぼ全シーンにかかわってきた。女性がナレーターである場合、甲高い声が作品全体を支配してしまう危険性もある。今回のバージョンでは、これまで聞いたバージョンでナレーターが歌っていたり、歌っていなくても登場していた場面の一部を、他のキャストに歌わせたり、ナレーターが登場しない場面にしてあった。

作品はもちろん面白い。ロイド=ウェバーは、ロックンロール、シャンソン、アルゼンチンタンゴ、カリプソ、カントリー&ウェスタン等、様々な音楽を駆使して、旧約聖書の話を進めていく。この中のメロディーの一部には、次の作品となった『ジーザス』でも使用されているものがあることに、気がついた人もいるだろう。

それにしても、出演者は皆、体格が良い。とくにヨセフ役の俳優は、「いいからだしてるね」と声をかけたいほど。ヨセフは上半身裸で演じるシーンが多いので、あの体で正解です!

ミュージカル「ヘアー」2013年東京公演最終日

2013-06-09 22:49:08 | 映画・小説etc.
シアターオーブにて。

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カーテンコールのみ撮影可。観客も舞台に上がり、舞台に上がらない観客も、総立ちで踊る。

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冷静に舞台全体と観客のノリをみたくて、2階の最前列を予約したのは、はっきり言って間違いだった。こういうものは、自分も我を忘れて参加してナンボ。

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ビー・インに至るシーンでは、2階にもキャストが来て、花とチラシを配っていった。ちなみにチラシはレターサイズ(アメリカだもんね)。

チラシには、「召集令状を燃やせ」と書いてある。ちなみに「何か吸うものを持ってこい」「自分用のポット(マリファナ)を持ってこい」とも書いてある。この召集令状を燃やすと、罰金か懲役かその両方を科されたはず。


『レ・ミゼラブル』(2012)には泣いた。が…

2012-12-30 23:36:34 | 映画・小説etc.
Les_miserables先日の三連休の最終日の24日の朝、近所のシネコンで『レ・ミゼラブル』を観た。絶賛上映中と聞いて、朝一の8:25AMからの回に入ったが、ほぼ満員だった。あらかじめ予約をしていなかったら、良い席は取れなかったろう。



『レ・ミゼラブル』は、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの感動の文芸大作を原作とするミュージカルの映画化である。現在の舞台版の基礎は(それ以前にフランス語版があるが)1985年にロンドンで上演を開始。現在までに日本を含む世界数十か国で上演され続けており、世界中で大ヒットしている。

さて、ミュージカルのフォーマットは、歌とセリフの配分を基準にすると、2つに分けられる。

一つはセリフによる劇を主体とし、要所要所に歌やダンスが挿入されるもの。この場合、歌は主に、登場人物の感情が高まった場面で使用される。

もう一つは歌やダンスを伴う音楽が主となって、セリフがほとんどないか全くないオペラやオペレッタに近いものだ。

前者の代表的なものにはロジャーズ&ハマースタインの作品群(『サウンド・オブ・ミュージック』等)があり、後者の代表的なものはアンドリュー・ロイド・ウェバーの作品群(『オペラ座の怪人』等)がある。ミュージカル『レ・ミゼラブル』も後者だ。

トム・フーバーが監督したこの映画には感動した。ブーブリル&シェーンベルクのコンビによる素晴らしい音楽については今さら付け加えることはないが、映画化にあたりヒュー・ジャックマンやアン・ハサウェイらの歌える俳優と、舞台の実力派をミックスしたキャスティングが成功している。わたしは何ヶ所かで涙を流したが、そんな時に耳を澄ますと周囲からもすすり泣きが聞こえた。

だがその一方で、「もう少しどうにかならなかったのかな?」と不満に思うことが2つあった。

ひとつは、せっかくの映画化なのにスクリーンに妙な「狭さ」を感じたことだ。

歌い手の顔のアップがやたらと多い。この映画では、ミュージカル映画の撮影のプロセスとは異なり、俳優たちが実際に歌いながら演じているところをカメラに収めたそうだ。それはたしかに素晴らしいことなのだが、執拗な歌い手のアップはその副産物なのだろうか。たしかに目の前で人が朗々と歌っていたら、その人の顔ばかり見てしまうものだが。

そして「舞台ではできない映画ならでは」のシーンは、「船を引くシーンがあるので船を加えておいた」「当時のゴチャゴチャしたパリの俯瞰図が必要なのでとりあえず俯瞰図を入れておいた」「広場で起こっている出来事なので、広場を入れておいた」等、映画化するうえでどうしても避けることのできない、必要最小限を入れておいたという感じだ。しかもわたしはこの作品に、セット臭さとCG臭さを強く感じてしまった。

もうひとつ気になったのは、物語の進行が歌の歌詞に依存しすぎていることだ。

物語の進行が歌に大きく依存しているわりには、歌詞が伝えるのは主に歌い手の感情だ。原作が有名な小説だから物語の筋の説明はそれほど必要ないということかもしれないが、このミュージカルや原作の内容を知らない人には、話の流れが説明不足と感じられるかもしれない。

さてここで頭の中に浮かんできたのは、同じようにセリフのないミュージカルの映画化ながら、対照的な作りをした別の映画だ。その作品とは、アラン・パーカーが監督した『エビータ』(1996)である。

『エビータ』は、アルゼンチンで貧しい私生児として生まれ、女優から大統領夫人にまでにのし上がったエバ・ペロン(1919~1952)の半生を、皮肉を込めて描いた作品だ。わたしはかなりの数のミュージカル映画を観ているが、この作品については、誰にでも「ぜひ観てよ」とお勧めできる作品ではない。マドンナのファンとアントニオ・バンデラスのファンと、「故ゲイリー・ムーアのギターなら何でもいいから聞きたい」という人には、自信をもってお勧めできる。が、そもそもこの話がミュージカルに向いているのか否かといった議論もあるだろう。

だがこの作品の舞台はヒットし、ゆえに映画化された。映画化にあたって問題となったことのひとつは、「観る者が当時のアルゼンチンの状況を知らない」ということだった。

このことは、舞台化に先立って作られた2枚組の「ロック・オペラ」のアルバムでもすでに解決すべき課題になっていたらしく、ライス&ロイド・ウェバー(『ジーザス・クライスト・スーパースター』を作ったコンビでもある)は、当時のアルゼンチンの政治状況と社会状況をうまく説明するような歌を挿入した。その歌 "The Lady's Got Potential" は多くの舞台版では省略されたが、映画版では復活し、バンデラスがノリノリで歌う中、一般市民を巻き込む流血の軍事クーデターにより次々に大統領が変わっていくアルゼンチンの当時の状況を、映像がうまく説明していた。

また、この作品では、もともと作られた歌詞に引っ張られ過ぎずに、当時のアルゼンチンの状況を示すカットを多用したうえ、それ以上のこともやった。



(↑ 『エビータ』より、エバが貧しい民衆たちからの支持を得る一方で、上流階級からも軍部からも閣僚たちからも嫌われていることを示すシーン。若き将校たちが一列になってシャワーを浴びるという、舞台版にはなく映画版のストーリーの流れ自体にも必要ないカットに、映画館でのけぞった覚えがある。)

『レ・ミゼラブル』を『エビータ』のような作りにしてほしかったわけではない。『エビータ』はミュージック・ビデオ風の作りになっている個所が多く、文芸大作を原作とするミュージカルには、このつくりはふさわしくないだろう。だが、『レ・ミゼラブル』はあまりにも歌詞と舞台の作りに引っ張られすぎているように思える。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』は素晴らしい映画だ。でもひょっとして、もっと良い映画になる余地があったかもしれない。そんなふうにわたしは感じている。

『ジーザス・クライスト=スーパースター アリーナ・ツアー2012』

2012-12-25 00:08:50 | 映画・小説etc.
よう『ジーザス・クライスト=スーパースター アリーナ・ツアー2012』が、いくつかの映画館で限定ロードショー中だ。これは、本年10月に英国で行われた『ジーザス・クライスト・スーパースター』のアリーナ公演を収録したものだ。私は先週日比谷で観た。

既に海外ではBlue-rayとDVDが発売されているこの作品は、来年のいずれかの時点で日本でも発売されるのだろう。その前にひと稼ぎというところか。

『ジーザス・クライスト=スーパースター』は、イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)の磔刑に至るまでの最後の7日間を、聖書の中では裏切り者として描かれているイスカリオテのユダの眼を通して描いたロック・オペラだ。

1969年にマリー・ヘッドが歌うシングル "Superstar" のリリースが、そして1970年にジーザスのパートをディープ・パープルのイアン・ギランが歌う2枚組LPのアルバムの発売が先行したのち、翌71年にブロードウェイで初舞台化され、その後は今に至るまで世界各国で上演されている。作曲はこの作品で一躍有名になった当時21歳のアンドリュー・ロイド・ウェバー、作詞は当時25歳のティム・ライス(『エビータ』『ライオンキング』『美女と野獣』『アイーダ』)。

物語は、大筋では新約聖書の福音書をベースにしている。だが、

人々は支配され圧政に苦しんでいる。彼らは自分たちを支配者から解放してくれる英雄の存在を待ち望んでいる。ある日、「きっとこの人物なら…」と彼らに思えるような人物が現れる。人々はこの人物を、自分たちを支配者の圧政から解放してくる存在であると勝手に信じ込み、自分たちに都合の良いように解釈して偶像化し、心酔する。

だがこの男が、彼らが心の中で勝手に築いたイメージ通りの人間ではないと知ったとたん、人々は裏切られ騙されたと感じ、かつて心酔した反動で一気に彼を軽蔑し憎み、彼を殺すことでうっぷんを晴らそうとする。
…という話なら、古今東西のいずれにおいても起こりうる。

ゆえにこの作品は、「ローマ」「ローマ皇帝」「ユダヤ人」が頻繁に出てくる歌詞を残したまま、演出によって場所の設定を変えることが可能であり、実際にそのように演出されてきた。

ノーマン・ジュイソンが監督した1973年の映画版は、イエス・キリストの受難劇を演じるために現代(といっても1970年代当時の)若者たちがイスラエルのネゲブ砂漠へ1台のバスに乗ってやって来るという設定だった。劇団四季のジャポネスク・バージョンでは(少なくとも、市村正親がヘロデ王を演じていて当時は「江戸版」と呼ばれていた少なくともわたしが見た舞台では)隠れ切支丹をめぐる状況を彷彿とさせた。2000年のスタジオ収録版では、舞台は軍事政権による圧政に苦しむ現代のどこかだ。

2012年アリーナ版は徹底して「今」を演出する。ジーザスのメッセージや活躍ぶりが、ネットを介して民衆に広がる様子が、ステージ後方の大きなスクリーンを通じて示される。ユダの密告シーンでは、ユダは以前にもらった名刺を見ながらスマホでアンナス(ユダヤの大祭司カヤパの舅で前大祭司)に連絡をとる。ユダヤ属州総督であるピラトは、自分の身体づくりのエクササイズで体を鍛えるエリート外交官風だ。

たとえば、ユダヤの司祭たちが歌う "This Jesus Must Die" という曲。3つのバージョンを比べてみよう。

(2012年アリーナ版)


(2000年スタジオ収録版)


(1973年映画版)



さて、『アリーナ・ツアー2012』に話をもどそう。

ジーザス、イスカリオテのユダ、マグダラのマリア、ピラト、ヘロデ王等、主要キャストについては公式HPを見ればわかるので省略するが、なかなか魅力的なキャストだ。メインキャストがバリバリのミュージカル発声ではないところが良い。そう、この作品はあくまでもロックオペラなのだ。

そして出演者たちのパワフルな歌唱力と、アリーナに設置された階段状の舞台を目いっぱい使って動き回る体力に圧倒される。余談だが、女性陣の太ももの太さがよろしい(女も年をとるとおじさん目線になるんだよ)。

『ジーザス…』のファンで、観に行ける映画館があれば観に行くべき。その他の方はリリースまで待って買ったほうが良い。

ところで、最後にロイド=ウェバーが登場して、「サラ」へ感謝の言葉を述べるのだが、この「サラ」とはサラ・ブライトマンのことではなく、最初の奥さんのサラ・ハギルのことだと思うよ。当時新婚だったっけ。

(↓ 何故か日本では未だDVDリリースのない1973年映画版全編。劇中劇でジーザス役を演じた若者は、ラストではバスに乗らずに一人砂漠に残る。)