巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

ティモテ オーガニック その後

2012-12-31 10:08:28 | 美容と健康
1ヶ月半前に「ティモテの誘惑 再び」で「しばらく使ってみよう」と書きながらおいてそのままにしておくのも無責任なので、年が改まる前に使用した感想を書いておく。
1本使った感想から述べると、良い製品だが元々の髪質を選ぶ商品だと感じた。わたしの髪の毛には合わなかった。髪を洗って乾かすという行為が、いつも以上のストレスになった。

地肌は大丈夫だった。わたしが恐れていたのはアレルギー(アロエがちょっと怖い)と乾燥だったが、アレルギーは起こらず乾燥によるフケも出なかったところは、とても良かった。

シャンプーによる泡立ちは、洗髪の摩擦で髪が傷むか傷まないかのギリギリだった。

シャンプー後、わたしの髪の毛は大変なことになった。シャンプーの後にトリートメントをつける。このときに、コンディショナーが髪にゆきわたるように目の粗いコームを使ってコンディショナーを毛先全体に行き渡らせるようにしている。このティモテ オーガニックだと、髪がもつれにもつれて、どうやっても櫛が入らない。やさしくやさしく丁寧に時間をかけて梳かしてかろうじてコームが通るようになるまでに、かなりの抜け毛が常に生じた。

濡れた髪をドライヤーで乾かすさいにもまず髪を梳かすのだが、ここでもブラシが通らない。そしてさらに抜け毛が生じた。

ドライヤー後の髪も乾燥しがち。シャンプーとコンディショナーだけでは耐えがたく、途中でアウトバス用にロクシタンのファイブハーブス リペアリングヘアセラムを投入したが、ややましになった程度だった。

止めは美容院だ。わたしが通う美容院はオーガニックが売りだ。

ほぼ1本を使い切るころ、美容院に行った。この時にメンバーズカードのスタンプが全部埋まった。普段はオーガニックの良さを色々と説く美容師がわたしに「ふくしまさんの髪には絶対にこれです」と差し出したのは、シリコンがっつりの硬毛・癖毛用ヘアトリートメントだった。「冬ですし、乾燥しますからねぇ。」

ありがたくいただいて、帰ってきましたよ。硬毛の癖毛ですから。

考えてみてほしい。シリコン等が入った「重い」シャンプーがこれだけ広がったのは、(メーカーの陰謀という人もいるが)もともとの自分の髪の毛に不満がある人が、洗髪という日常的な行為の中で、ちょっとでもその不満を解消できるものを欲しいと求めた結果でもある。

もちろん、ティモテ オーガニックがあう髪質の人も大勢いるはずだ。日本人の標準的髪質ではないわたしの髪に合わなかっただけのことだ。香りがわたしの求めたものだっただけに、ああ、残念。




Timotei_2リーフレットには「シャンプーをすすいだ後、軽く水気を切ります。濡れた髪はデリケートなので優しく絞る程度に。」とある。わたしの髪質ではシャンプーをすすぐと完全に髪がもつれたので、「優しく絞る程度」のことが、できることの最大限だった。


『レ・ミゼラブル』(2012)には泣いた。が…

2012-12-30 23:36:34 | 映画・小説etc.
Les_miserables先日の三連休の最終日の24日の朝、近所のシネコンで『レ・ミゼラブル』を観た。絶賛上映中と聞いて、朝一の8:25AMからの回に入ったが、ほぼ満員だった。あらかじめ予約をしていなかったら、良い席は取れなかったろう。



『レ・ミゼラブル』は、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの感動の文芸大作を原作とするミュージカルの映画化である。現在の舞台版の基礎は(それ以前にフランス語版があるが)1985年にロンドンで上演を開始。現在までに日本を含む世界数十か国で上演され続けており、世界中で大ヒットしている。

さて、ミュージカルのフォーマットは、歌とセリフの配分を基準にすると、2つに分けられる。

一つはセリフによる劇を主体とし、要所要所に歌やダンスが挿入されるもの。この場合、歌は主に、登場人物の感情が高まった場面で使用される。

もう一つは歌やダンスを伴う音楽が主となって、セリフがほとんどないか全くないオペラやオペレッタに近いものだ。

前者の代表的なものにはロジャーズ&ハマースタインの作品群(『サウンド・オブ・ミュージック』等)があり、後者の代表的なものはアンドリュー・ロイド・ウェバーの作品群(『オペラ座の怪人』等)がある。ミュージカル『レ・ミゼラブル』も後者だ。

トム・フーバーが監督したこの映画には感動した。ブーブリル&シェーンベルクのコンビによる素晴らしい音楽については今さら付け加えることはないが、映画化にあたりヒュー・ジャックマンやアン・ハサウェイらの歌える俳優と、舞台の実力派をミックスしたキャスティングが成功している。わたしは何ヶ所かで涙を流したが、そんな時に耳を澄ますと周囲からもすすり泣きが聞こえた。

だがその一方で、「もう少しどうにかならなかったのかな?」と不満に思うことが2つあった。

ひとつは、せっかくの映画化なのにスクリーンに妙な「狭さ」を感じたことだ。

歌い手の顔のアップがやたらと多い。この映画では、ミュージカル映画の撮影のプロセスとは異なり、俳優たちが実際に歌いながら演じているところをカメラに収めたそうだ。それはたしかに素晴らしいことなのだが、執拗な歌い手のアップはその副産物なのだろうか。たしかに目の前で人が朗々と歌っていたら、その人の顔ばかり見てしまうものだが。

そして「舞台ではできない映画ならでは」のシーンは、「船を引くシーンがあるので船を加えておいた」「当時のゴチャゴチャしたパリの俯瞰図が必要なのでとりあえず俯瞰図を入れておいた」「広場で起こっている出来事なので、広場を入れておいた」等、映画化するうえでどうしても避けることのできない、必要最小限を入れておいたという感じだ。しかもわたしはこの作品に、セット臭さとCG臭さを強く感じてしまった。

もうひとつ気になったのは、物語の進行が歌の歌詞に依存しすぎていることだ。

物語の進行が歌に大きく依存しているわりには、歌詞が伝えるのは主に歌い手の感情だ。原作が有名な小説だから物語の筋の説明はそれほど必要ないということかもしれないが、このミュージカルや原作の内容を知らない人には、話の流れが説明不足と感じられるかもしれない。

さてここで頭の中に浮かんできたのは、同じようにセリフのないミュージカルの映画化ながら、対照的な作りをした別の映画だ。その作品とは、アラン・パーカーが監督した『エビータ』(1996)である。

『エビータ』は、アルゼンチンで貧しい私生児として生まれ、女優から大統領夫人にまでにのし上がったエバ・ペロン(1919~1952)の半生を、皮肉を込めて描いた作品だ。わたしはかなりの数のミュージカル映画を観ているが、この作品については、誰にでも「ぜひ観てよ」とお勧めできる作品ではない。マドンナのファンとアントニオ・バンデラスのファンと、「故ゲイリー・ムーアのギターなら何でもいいから聞きたい」という人には、自信をもってお勧めできる。が、そもそもこの話がミュージカルに向いているのか否かといった議論もあるだろう。

だがこの作品の舞台はヒットし、ゆえに映画化された。映画化にあたって問題となったことのひとつは、「観る者が当時のアルゼンチンの状況を知らない」ということだった。

このことは、舞台化に先立って作られた2枚組の「ロック・オペラ」のアルバムでもすでに解決すべき課題になっていたらしく、ライス&ロイド・ウェバー(『ジーザス・クライスト・スーパースター』を作ったコンビでもある)は、当時のアルゼンチンの政治状況と社会状況をうまく説明するような歌を挿入した。その歌 "The Lady's Got Potential" は多くの舞台版では省略されたが、映画版では復活し、バンデラスがノリノリで歌う中、一般市民を巻き込む流血の軍事クーデターにより次々に大統領が変わっていくアルゼンチンの当時の状況を、映像がうまく説明していた。

また、この作品では、もともと作られた歌詞に引っ張られ過ぎずに、当時のアルゼンチンの状況を示すカットを多用したうえ、それ以上のこともやった。



(↑ 『エビータ』より、エバが貧しい民衆たちからの支持を得る一方で、上流階級からも軍部からも閣僚たちからも嫌われていることを示すシーン。若き将校たちが一列になってシャワーを浴びるという、舞台版にはなく映画版のストーリーの流れ自体にも必要ないカットに、映画館でのけぞった覚えがある。)

『レ・ミゼラブル』を『エビータ』のような作りにしてほしかったわけではない。『エビータ』はミュージック・ビデオ風の作りになっている個所が多く、文芸大作を原作とするミュージカルには、このつくりはふさわしくないだろう。だが、『レ・ミゼラブル』はあまりにも歌詞と舞台の作りに引っ張られすぎているように思える。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』は素晴らしい映画だ。でもひょっとして、もっと良い映画になる余地があったかもしれない。そんなふうにわたしは感じている。

『ジーザス・クライスト=スーパースター アリーナ・ツアー2012』

2012-12-25 00:08:50 | 映画・小説etc.
よう『ジーザス・クライスト=スーパースター アリーナ・ツアー2012』が、いくつかの映画館で限定ロードショー中だ。これは、本年10月に英国で行われた『ジーザス・クライスト・スーパースター』のアリーナ公演を収録したものだ。私は先週日比谷で観た。

既に海外ではBlue-rayとDVDが発売されているこの作品は、来年のいずれかの時点で日本でも発売されるのだろう。その前にひと稼ぎというところか。

『ジーザス・クライスト=スーパースター』は、イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)の磔刑に至るまでの最後の7日間を、聖書の中では裏切り者として描かれているイスカリオテのユダの眼を通して描いたロック・オペラだ。

1969年にマリー・ヘッドが歌うシングル "Superstar" のリリースが、そして1970年にジーザスのパートをディープ・パープルのイアン・ギランが歌う2枚組LPのアルバムの発売が先行したのち、翌71年にブロードウェイで初舞台化され、その後は今に至るまで世界各国で上演されている。作曲はこの作品で一躍有名になった当時21歳のアンドリュー・ロイド・ウェバー、作詞は当時25歳のティム・ライス(『エビータ』『ライオンキング』『美女と野獣』『アイーダ』)。

物語は、大筋では新約聖書の福音書をベースにしている。だが、

人々は支配され圧政に苦しんでいる。彼らは自分たちを支配者から解放してくれる英雄の存在を待ち望んでいる。ある日、「きっとこの人物なら…」と彼らに思えるような人物が現れる。人々はこの人物を、自分たちを支配者の圧政から解放してくる存在であると勝手に信じ込み、自分たちに都合の良いように解釈して偶像化し、心酔する。

だがこの男が、彼らが心の中で勝手に築いたイメージ通りの人間ではないと知ったとたん、人々は裏切られ騙されたと感じ、かつて心酔した反動で一気に彼を軽蔑し憎み、彼を殺すことでうっぷんを晴らそうとする。
…という話なら、古今東西のいずれにおいても起こりうる。

ゆえにこの作品は、「ローマ」「ローマ皇帝」「ユダヤ人」が頻繁に出てくる歌詞を残したまま、演出によって場所の設定を変えることが可能であり、実際にそのように演出されてきた。

ノーマン・ジュイソンが監督した1973年の映画版は、イエス・キリストの受難劇を演じるために現代(といっても1970年代当時の)若者たちがイスラエルのネゲブ砂漠へ1台のバスに乗ってやって来るという設定だった。劇団四季のジャポネスク・バージョンでは(少なくとも、市村正親がヘロデ王を演じていて当時は「江戸版」と呼ばれていた少なくともわたしが見た舞台では)隠れ切支丹をめぐる状況を彷彿とさせた。2000年のスタジオ収録版では、舞台は軍事政権による圧政に苦しむ現代のどこかだ。

2012年アリーナ版は徹底して「今」を演出する。ジーザスのメッセージや活躍ぶりが、ネットを介して民衆に広がる様子が、ステージ後方の大きなスクリーンを通じて示される。ユダの密告シーンでは、ユダは以前にもらった名刺を見ながらスマホでアンナス(ユダヤの大祭司カヤパの舅で前大祭司)に連絡をとる。ユダヤ属州総督であるピラトは、自分の身体づくりのエクササイズで体を鍛えるエリート外交官風だ。

たとえば、ユダヤの司祭たちが歌う "This Jesus Must Die" という曲。3つのバージョンを比べてみよう。

(2012年アリーナ版)


(2000年スタジオ収録版)


(1973年映画版)



さて、『アリーナ・ツアー2012』に話をもどそう。

ジーザス、イスカリオテのユダ、マグダラのマリア、ピラト、ヘロデ王等、主要キャストについては公式HPを見ればわかるので省略するが、なかなか魅力的なキャストだ。メインキャストがバリバリのミュージカル発声ではないところが良い。そう、この作品はあくまでもロックオペラなのだ。

そして出演者たちのパワフルな歌唱力と、アリーナに設置された階段状の舞台を目いっぱい使って動き回る体力に圧倒される。余談だが、女性陣の太ももの太さがよろしい(女も年をとるとおじさん目線になるんだよ)。

『ジーザス…』のファンで、観に行ける映画館があれば観に行くべき。その他の方はリリースまで待って買ったほうが良い。

ところで、最後にロイド=ウェバーが登場して、「サラ」へ感謝の言葉を述べるのだが、この「サラ」とはサラ・ブライトマンのことではなく、最初の奥さんのサラ・ハギルのことだと思うよ。当時新婚だったっけ。

(↓ 何故か日本では未だDVDリリースのない1973年映画版全編。劇中劇でジーザス役を演じた若者は、ラストではバスに乗らずに一人砂漠に残る。)




RedVinesの黒

2012-12-11 19:00:00 | 
銀座のプラザでリコリス菓子を売っていたので、買ってきてしまった。1袋250円ぐらいだったかな。

Redvines_1

これは米国製のRedVinesというお菓子で、硬めのグミのような食感。このお菓子、彼の地では昔からある伝統のお菓子だ。

わたしは大のリコリス好きだ。わたしのリコリス愛は「癖になるおいしさ リコリスミント」で語らせていただいたので省略するが、「リコリス好き」という事実をもって、わたしを変人認定してもよいよ。

さて、このRedVinesには、いくつか種類があるが、代表的なものは上記の写真のもののように黒いもの(Black Licorice)と、赤いもの(Original Red)である。

わたしが買った黒いほうはリコリス入り。赤い方にリコリスは入っていない。このことからもわかると思うが、リコリスを古くから食用にしていた西洋にあっても、好き嫌いの分かれる味なのだ。

プラザには黒も赤もあった。リコリスが入ってないものに興味はないので、赤は購入しなかった。でも実は、RedVinesと聞いたら、たいていの人は赤のほうを思い浮かべるだろう。

また、形状も何種類かある。わたしが買った70グラム入りものは、袋の中に板状のものが2つ入っていて、さきイカのように裂いて食べる。

Redvines_2

Redvines_3

包装も各種サイズの袋入り他、ジャーに入ったもの(約1.8キロ入り)など。1.8キロって、米国人てそんなにRedVinesが好きなのかな。



↑ 好きみたいだね。(ちなみに "vine" とはつる植物の「つる」のことなので、こういうCMができるわけだ。)

まぁわたしは、リコリス入りなら1.8キロ入りでも買うけどね。

なお、このRedVinesの黒のうち、パッケージに “Best Before 020413 4” と書かれた1ポンド(約450グラム)入りのものは今年の夏、鉛混入により回収対象となった。(詳細はカリフォルニア週公衆衛生局の "CDPH Warns Not to Eat Certain Red Vines® Black Licorice Candy" のページで。)




夢枕獏『宿神』読了

2012-12-09 21:20:50 | 映画・小説etc.
宿神 第四巻宿神 第四巻
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2012-11-20


わたしが朝日を読み続けている理由の一つに、新聞小説(とその挿絵)がある。

夢枕獏の『宿神』は、西行(佐藤 義清)の生涯を描いた伝奇物で、2006年12月22日に朝刊で連載を開始し、2008年1月19日に連載を終了した。ちなみに同時期の夕刊小説は、荻原浩の『愛しの座敷わらし』。朝刊と夕刊の小説そのもののギャップに加え、それぞれの小説の挿絵のギャップもまた素晴らしかった。(『宿神』は飯野和好、『愛しの座敷わらし』は浅賀行雄。)


ところが、このころのわたしは時間的余裕も精神的余裕もなく、『宿神』の最初の2週間はただ流し読みしただけ。話がどんどん展開するにしたがって夢中になり、そして最終回でしみじみと涙したとき、この話を最初からきちんと読んでおかなかったことを悔やんだ。

でも、『宿神』の直前まで朝刊で連載されていた桐生夏生の『メタボラ』だってすぐに出版されたし、『宿神』だってすぐに本になるさ…

と思ったわたしが甘かった。作者はあの夢枕獏だ。「構想が膨らんだので、雑誌に続きを書く。本の出版はその後」のようなことを、朝日の紙面上で宣言し、わたしは呆然とした。これはまた下手をすると、キマイラのシリーズのようなことになってしまうかも…
わたしが夢枕獏を知ったのは、かつて何気なく手に取ったソノラマ文庫の『幻獣少年キマイラ』。発売されたばかりであった。天野喜孝による表紙の絵の美しさと絶世の美少年が1名のみならず複数登場という、漫画とSFとファンタジーを愛するオタク女子大生の食指をそそる設定であった。

しかし巻を重ね10年経っても全く終わる兆しがなく、途中で挫折してしまった。(それに本の各ページの下半分がいやに白いし。)実際、夢枕獏の長編小説で完結したものは少ない。

ということは、雑誌に続きを掲載したとして、本当に完結するのか? 完結してくれぇ!

わたしの願いがかない、ではなく、作者本人の「完結させる」という意思により、この度めでたく完結し、4冊に分冊されて、前半の2巻が今年の9月に、後半の2巻が11月に発売された。

基本的に、わたしは伝奇物の小説(ライトノベルを含む)や漫画はあまり好きではない。歴史物は好きだし、ファンタジーも好きであるにもかかわらずだ。というのは、どうも作者の「逃げ」のようなものが見える作品が結構あるためだ。

歴史がきちんと扱えないからとりあえず伝奇物にしているとか、人物の造形を一から作ることができないのでとりあえず歴史上の人物にご登場いただくとか、設定を現代にすると余計にボロが出るからとりあえず歴史物にしているとか。そんな風に感じられてしまう作品が多い。言い換えれば、作りのあらさを「もののけ」という万能調味料でごまかしている感じ。

この点において、ど素人のわたしが言うのもなんだが、『宿神』は見事だった。

この小説は基本的には伝奇小説であるから、いわゆる「怪」の存在がある。それがタイトルにもなっている「宿神」だ。これは一般人には見えないが、西行には見える。白河法皇にも待賢門院璋子も見え、後白河上皇には見ることができないが存在は感じられる。平清盛はそのような存在があるらしいことを知っているが、見ることも感じることもできない。が、そのような存在があろうとなかろうと、清盛にはそれは大したことではないらしい。

しかも、宿神はものの気配として存在する神であり、ただそこにあるだけで何もしない。何もしない宿神に人は祈り、あるいはその存在を恐れる。そうなると、描写の焦点が当たるのはその怪のなすことではなく、その存在に反応する人間ということになる。と同時に、宿神もやはり物語を展開していくうえでの重要な存在となっている。。

歴史資料の扱い方もすばらしいが、情景描写の上手さというのは、「すごい」とか「素晴らしい」というより、ときに「凄まじい」。

たとえば、第二巻にある、義清が鳥羽上皇の前で即興で襖に十首の歌を書きなぐるシーン。その場の緊張感と主な登場人物の心の動きがこちらにも痛いほど伝わってきて、こちらも息を殺し、手に汗を握ってしまうほど。第四巻の最終章の美しさは、文のみで展開されているのに、その情景の絵がよく見える。

ちなみに第三巻、第四巻は発売とともに購入したが、忙しい時期に入ってしまいなかなか読むことができず、四巻を読み終えたのはつい3日前の木曜日の夜だ。帰宅途中に地下鉄の中で読んでいて、最終章に入ったところで自宅の最寄駅に到着した。

最寄駅から自宅までは徒歩で約20分。残りは家で…などと、待てる状態ではなかった。最寄駅のホームに座り、寒いホームで残りを全て読んだ。そしてしみじみと泣いた。

というわけでこの際、冬休みに自宅にいる方の読書に、強くお勧めしたい。ハードカバーを4冊買うとちょっと高い出費だが、どこかへ外出してパッとお金を使うよりはずっと安く済む。それに、ところどころに引用されている歌まで十分に味わい尽くすまでには、相当の時間が必要だと思うので、

時代設定は、今年のNHKの大河ドラマと同じなので、清盛をみている人ならいっそうわかりやすいと思う。わたしは逆に、この新聞小説を読んでいたので、「平清盛」の時代背景が良くわかったのだが。

ちなみに、新聞連載時の挿絵を描いた飯野和義によるカバーの装画にも、同じく連載時の題字を書いた岡本光平の題字にも、惚れたよ、わたしは。

Shukujin

↑ 4冊並べると壮観です。