巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

乳がん手術後の経過観察が終了

2020-03-10 00:18:31 | 美容と健康

(病院の近くを流れる石神井公園沿いの桜)

乳がんの手術を受けたのは2009年11月9日。患側の乳房切除に当時はまだ先進医療扱いだったセンチネルリンパ節生検を合わせたものを受けた。(当時のブログのエントリーはこちら)

乳がんはゆっくり進む癌だ。なので、経過観察期間は他の癌が5年であるところ、乳がんの場合は10年だ。実は昨年の検査がちょうど10年目だったが、マンモグラフィーとエコーでは別の場所に判別しがたいものが写ったため、経過観察が1年延長になった。そして今年のマンモとエコーの結果をもって、経過観察が、つまりは保険適用の検査が、終了となった。

実のところ、オリビア・ニュートン=ジョンの例でも分かるように、乳がんは10年以上たってから再発することが結構ある癌だ。とはいえ、一応の区切りということで、おそらくめでたいのだろう。

どのような乳がんだったのかを、乳がんの情報を求めてこのエントリーにアクセスした人のために、少しだけ書いておこう。

わたしの場合、胸いっぱいに広がったがんだったので、「温存」などと言うことは考えず、乳房を完全に切除する以外の選択肢はなかった。エストロゲンに感受性のある癌だったが、術後はホルモン療法を受けず、まさに「切りっぱなし」(確定診断をした医師が使った表現)となった。この選択ができたのは、7 cm以上の広がりがあっても非浸潤がんだったからだ。

実は、切りっぱなしでほかの治療法を行わなかっただけではなく、食生活においては、最近では体力を維持するために、手術前にはあまり食べていなかった乳製品や赤身の肉も食べるようになっている。再発を気にするのであれば、牛乳や肉は控えて野菜たっぷりで太らないような食生活を、ということになるのだろう。だがわたしは、乳がんと診断される前には、まさにそのような食生活をしていた。おまけに10代のころ始めたヨガも毎日行っていた。が、結局、がんになった。結局何をやっても癌になるときはなるのだ。それに、だんだん年をとっていく生活において気をつけなければいけないのは、乳がんの再発ことだけではない。乳がんの再発防止を優先するあまり、QOLを著しく犠牲にすることはできない。

ところで、いわゆる「乳房を切除したあとの喪失感」は、わたしにはなかった。術前にネットで術後の女性の胸の画像を見ても、ピンとこなかった。自分が胸を失ったことをどう感じるのかは失ってみないと分からないので、実際に自分がどのように感じるかについては、我が事ながら興味があった。

さて、手術後、麻酔が切れて自分で歩けるようになりトイレに行って最初にやったことは、トイレにある大きな鏡で胸の手術の傷跡をまじまじと見ることだった。

「OK」

抜糸の必要のない糸で綺麗に縫われた手術の跡をみて、私が感じたのは「自分は大丈夫だ」だという感覚だった。そしてその瞬間、自分のボディイメージとアイデンティティに、片方の胸が無い事実がしっかりと上書きされた。

乳がんの手術で胸を失ったことにより、一生悩む女性は多い。しかしながら、どうやらわたしがそのタイプではなかったらしい。これはわたしが精神的に強いとか弱いとかの話ではなく、これまでの生育環境によるものだろう。わたしは子供のころ重症の機関紙喘息で長期に入院していたことがあったのだが、様々な病気の重症患者の子供を集めた同じ病室には、「五体不満足」の子もいた。というわけで、事情ありで標準の形から外れた体には、それが自分の身に起こったことであっても、それほどショックやインパクトは感じないような性格になったらしい。というわけで、手術の傷跡をみるなり即座に「乳房再建というオプションはとらない」という選択をした。

今にいたるまで、そのときの「OK」の感覚は変わることはない。温泉でも銭湯でも、他人がいる中へ一人でさっさと入る。私は、自宅には風呂があるのでわざわざ銭湯へ行く必要はないのだが、最近の銭湯は色々とリラックスできるので、レクリエーション気分でたまに行く。世の中には乳がんの手術をした女性用の入浴着というものがあり、これがたまに温泉で物議をかもすことがあるのだが、わたしはそういうものは使わないので、この意味では問題になることは無い。わたしが自分の体で気になるのは、無くなった胸よりも、むしろ残った胸とお尻が年々重力に逆らえなくなっていることや、お腹周りのお肉の付き具合といったものだ。

一方で、手術後の日常生活となると、手術前と同じというわけにはいかなくなった。体の重心のバランスが崩れてしまい、まっすぐ歩いているつもりがあちらこちらにぶつかって歩くようになり、バランスをとるために失った胸の重さに近い(といっても、全く同じ重さだとブラのストラップに重さがかかり食い込んで痛いので、実際は2/3ぐらいの重さの)ブレストフォームが必要になった。昔、叔父が「結核で肺の切除手術を受けた後、失った肺の重さを補うものをいつも身に着けている」と言っていたが、その意味と意義がやっと分かった。

さて、ブレストフォームは通気性のない厚みのシリコンの塊であるから、肌に優しい素材を使ったブラのポケットの中に入れおいても、結局は蒸れる。というわけで、胸の汗疹にしょっちゅう悩まされるようになっている。

が、より厄介なのは、患側の腋の下のリンパ節が少なくなったがゆえにリンパの流れが滞りがちになったことだ。その結果、腕は荒れやすく、乾燥しやすく、そして腫れやすくなった。虫に刺されようものならなかなか治らない。いくら手入れをしてもすぐにササクレが出来てしまい、一度ササクレからばい菌が入ったらしく、熱を出してえらい目にあった。

患側の腕に力を入れることは極力避けなければいけないため、手術前に行っていたダンベルを使っての運動は術後は中止。二の腕がダルダルになった。こうやって気をつけていたのだが、昨年の秋に仕事で「大量の雑巾を毎日手で絞らなければならない」「結構重いものを持つ」というという飛んでもない状況が発生してしまい、リンパ浮腫になってしまった。手術のために入院していた病院で乳がん看護認定看護師から教えてもらった、あの小鳥の頭をなでるようにおこなうリンパを流すマッサージなど焼け石に水であり、最終的にはその仕事を辞めるということで、解決せざるを得なかった。

こんな風に、手術の後遺症とはこれからも付き合っていなければならないのだろう。でもまぁ、この11年間はかなり上手く付き合ってきたと思う。

外科手術と被影響性の亢進が、大腿骨を骨折した母を救う

2020-01-03 21:14:51 | 美容と健康

2020年1月3日。
母がいる特別養護老人ホームの屋上から見た夕暮れの富士山。
今年も、母が健康でいられますように。




ここ数年の母は、
どうやったら歩くことができるのかを
忘れてしまったかのように
フラフラとぎこちなく歩くようになっていた。

そして、昨年9月の明け方、
母は特養のベッドから落ちて、
歩けずにいるところを見つかった。
病院へ運ばれた母は、
大腿骨転子部骨折と診断された。

重度の認知症の82歳の母。
私も弟もこの時点で、
母が寝たきりになることを覚悟した。
2日後に骨折観血的手術を受け、
ほどなくリハビリが始まった。

病院での母は、
同室の他の入院患者の付き添いの方が言うには、
医師にも看護師にも逆らわない、
きわめて扱いやすい患者だったらしい。
その一方、私が毎晩お見舞いに行っても
何の反応も興味も示さなかった。

入院日から数えて15日目に退院して
特養の自分の部屋に戻った後も、
母はほとんどのものに反応しなくなっていた。
おまけに、食べることや飲むことも
忘れてしまったかのように
食事も水分もとろうとせず、
あと1日この状態が続いたら、
点滴や栄養のために病院へ入院させるしか
ないかもしれない、という事態になった。

最後の手段として、特養のスタッフが食事時に、
同じユニットの他の入所者が集まるリビングに
母を連れて行った。

すると母は、今まで食べなかったのは
いったい何だったろうかと思うほど、
バクバクと飲み食いを始めた。

母の認知症は前頭側頭葉変性症の一種である意味性認知症で、
母は他人のやっている動作を反射的に模倣する傾向がある。
(いわゆる「被影響性の亢進」というやつ)
そこで、他の人が食べ物を食べているのを見てこれを模倣した結果、
物を食べたり飲んだりすることができるようになったわけだ。

食事がとれるようになると、母はそろりそろりと歩き始めた。
現在の母は、ラクッションパンツを着用し、
室内にはいろいろと転倒対策をしている。
職員の方たちも、これまで以上に母の転倒に注意している。
寝たきりになるのは、もっと先のことだろう。




(以下の、リンク先のAERAの記事は、高齢者の大腿骨骨折に関するもの。
母が手術を受けたのは、この記事にある高島平中央総合病院である。)
黒柳徹子が明かした「大腿骨骨折」 患者数が年々増加、寝たきりリスクも

Dakimakura

2015-09-21 23:59:27 | 美容と健康


"Dakimakura" でWikipedia英語版に載っている、日本発祥の枕である抱き枕。
写真は、「女神の無重力抱きまくらプレミアム」という商品名で、本日近所のイトーヨーカドーで買ってきましたよ。セブンネットでも購入可能。

わたしは子供のころから、仰向けに寝ない。扁桃腺がとても大きかったからだ。仰向けに寝ると、子供のくせに大きないびきをかくうえに、結構苦しい思いをした。で、わたしはいつも横向きだった。そして、常に左側を下にして横向きに寝ていた。

数年前、左側の胸の乳がんの手術をした。そのとき、検査のためにリンパ節も左の腋の下のリンパ節も3つばかりとった。
腋窩リンパ節郭清(腋の下のリンパ節をすべて切除すること)よりはダメージは少ないだろうが、それでも術後は、左側の腕から胸にかけてのリンパの流れは悪くなった。というわけで、左を下にして寝ることをやめてしまった。左腕のリンパの流れをこれ以上悪くしたくないためだった。扁桃腺は依然としてかなり大きいので、今度は右側を下にして横向きの姿勢をとった。

だが、どうしても右側を下にした寝方では、以前ほど楽には眠れない。なぜかエビぞった姿で目が覚めたりするのである。おまけに長年の無理とストレスがたまり、ぎっくり腰にも見舞われてしまった。こうなると、一番寝たい姿で眠りたい。眠りたい。眠りたい。そこでついに、抱き枕に手を出した。多少は左腕にかかる圧も分散されるかもしれない。

洗い替え用のカバーも同時購入して、1万円弱。効果に期待。

前頭側頭型認知症

2015-08-20 21:52:48 | 美容と健康
母が、「自分がおかしいみたいだ」と言いだしたのは、昨年の11月の終わりごろだった。「しゃべろうとしても、ことばが上手く出てこない」という。たしかに、何かをしゃべろうとして、「あれが、あれが…」と言ったまま、言葉が出てこないことが多くなった。私は近所のものわすれ相談医に診てもらうことにした。12月半ばのことだった。

認知症が疑われている人間に対して最初に行われるテストである長谷川式簡易知能評価スケールに、「知っている野菜の名前をできるだけ多く言ってください。」という問いがある。母はその問いにまず「ジャガイモ…」と言ったきりで、そのほかの野菜の名前はどんなに頑張っても、まったく出てこなかった。

あとになって考えてみれば、その数か月前から予兆があった。母の作る味噌汁の具の大根は、繊維にそった千六本ではなく、いちょう切りになった。同様に、ナスの味噌汁のナスの切り方も、縦方向ではなく、半月切りになった。それは、かつて母が嫌がり、そのような料理の下ごしらえをする人を軽蔑していた切り方だった。

「自分がおかしい」と言いいだしたころには、母の料理は、いつもジャガイモとニンジンを醤油で煮たものだけになり、それもとんでもない味付けのものになった。それもできなくなると、ある時から毎日、近所のスーパーで薄い野菜コロッケと、袋に入った千切りのキャベツを買ってきて、その2つだけを夕食に出し続けるようになった。ご飯も味噌汁もなかった。わたしが栄養面やらコスト面(千切りの袋入りキャベツは割高なのだ)をいっても、必ず夕食にそれだけを買ってきた。私が、「これでは栄養面がダメだし、第一これでは量としても足りないから」というと、母は黙って自分の分の野菜コロッケを私に差し出すのだった。

同じものを執拗に買うという行動は、他のものにも及んだ。毎日食品用ラップを買い続けた。歯磨き粉も洗剤もそうだった。バナナも同様で、食べきれないバナナがキッチンにあふれた。

そしてある日私は、母の部屋の押し入れの中に、どうしようかと思うほどの大量の吸水ケア用チャームナップがあることに気が付いた。数か月間の間、毎日30枚入りを2袋ずつ買い続けていたのだ。こうした行動は、買い物という行為ができなくなるまで続いた。

認知症専門の病院の予約は混みあっており、検査は3月になった。検査を受けたときには、まだ私が娘だとわかっていたが、2週間後に検査結果を聞くころには、もう「わたしもびっくりしたんだけれど、この人私の娘なんだって」というようになった。

診断は前頭側頭型認知症だった。不幸中の幸いといえば、前頭葉に委縮はみられず、主に側頭葉が委縮しているタイプだった。そのせいで、同じ前頭側頭型認知症でありながら、「ピック病」のような性格の変化はまったくない。また、アルツハイマーのような徘徊がないことも、幸運だった。

だが不幸なことには、前頭側頭型認知症には、アルツハイマー型と違って効果的な薬がない。診断を下した医師のアドバイスは、「デイサービスにいって、楽しい経験をして、出来るだけ脳に刺激を与えて、残りの機能を精一杯使うこと」だった。

デイサービスは、楽しいらしい。しかし容赦なく、そして驚くほど速く、母の認知症は悪化していく。「昨日まではわかっていたこれが、今日はわからなくなった」「昨日までは出来ていたあれが、今日はできなくなった」ということが日々わかるぐらいに。そして、母には、自分がだんだん変になって行くという自覚がある。

母方の家系には認知症が多い。すでに亡くなった母の母は認知症だった。母の妹も数年前に認知症と診断され、母の弟も軽度認知障害(MCI)だと聞く。だから母がいつか認知症になることは、ある程度は覚悟していた。だが、こんなにも進行が速いとは予測できなかった。




昨日わたしは、母を老健(介護老人保健施設)に入れた。「この時期の日中独居は熱中症の危険が高いから、暑いうちは24時間誰かの眼があるところに移せ」という医者からの指示があったからだ。

わたしが夏の間に母を入れる施設を探していることを知って、「そういう施設に入れると、認知症が進む」と言ってきた人も多い。その通りだろう。だが、熱中症のリスクを回避することが急務であり、さらにはわたしの働きながらの介護もほぼ限界だった。昼夜が逆転した母は、毎晩夜中に3回も4回も、時には6回も起きて、そのたびに大声でわたしや弟の名を呼んで泣き、そのたびにわたしの睡眠は中断されたのだから。

老健への入所は2か月間の予定だ。その後はどうなるのだろう。あらゆる可能性と、あらゆる妥当な選択肢を考えなければ…

資生堂インウイ

2014-09-14 22:56:20 | 美容と健康
Inoui

わたしにとって「絶対にこれでなければならない」化粧品のひとつが、資生堂インウイ(INOUI)の「ザ ブローライナー」BR655。今は亡き天才メイクアップ・アーティストのケヴィン・オークインがクリエイターだったころのインウイが出したものだ。わたしの「ヘルトゲ兆候がちょっと入ってます」的な眉には、これが欠かせない。(ヘルトゲ兆候とは、アトピー性皮膚炎や甲状腺機能低下症の人にしばしば見られるような、眉毛の外側1/3ぐらいが薄い眉毛のこと。)

このアイブロー、オークインはあえて1色展開として、金髪の西洋人のモデルにもこれを使っていた。また、唇の山の部分にこのアイブローをちょっとだけ入れるというテクも紹介していたことを覚えている。

インウイは、今は廃番になってしまったものが多く、生き残っているものは、このアイブローとアイライナーとリップライナーだけだ。

このブランドは、わたしの記憶が正しければ、もともとはニューヨークの25歳の働く女性をイメージしたブランドだったと思う。で、「ニューヨーク」っていうのが嘘くさくて、当初はそのフレグランスにしか興味がわかなかった。

その後セルジュ・ルタンスがクリエイターになったが、今度は芸術的すぎて、当時のわたしには、敷居が高いものになってしまった。

が、ケヴィン・オークインがプロデュースにかかわるようになって、このブランドは、再び変わった。インウイの名で出るメイクアップ製品は、どれも美しく、そして使えた。わたしは貧乏だから、それほどたくさんは買えなかったが、今でも「ジ アイズ」という5色のアイシャドーを2つ持っている。

Wt900

WT900は偏光パールの白4色+黒の組み合わせだが、それぞれのホワイトのシャドーがブルー、グリーン、ピンク、イエローを帯びて発色する。これらのホワイトを真ん中の黒のシャドーと混ぜると、単色とは異なった発色を見せるという、凝ったものだった。

Br755

BR755は鉱物の銅、プラチナ、金を意識した色出しだ。うまく入れると、目もとにすごいインパクトが出る。

これらのアイシャドーにはチップが2本ついていて、たしかそのうちの1本の片側は、アイシャドーブラシになっていたと思う。本当に素敵な、素敵なアイシャドーだった。

しかし、インウイのほとんどは廃番で、その後継たるインウイIDについては跡形もなく無くなってしまった。最近、このインウイのブロウライナーの3本入りのレフィルを置いてある店が少なくなってきてしまって、悲しい。本日、レフィルを店頭で見つけたので、2箱ほど購入しておいた。

これ以上インウイが廃番になったら、わたしは資生堂の本社前で暴れると思います。もう一度言います。銀座に向かって言います。廃番にしたら、わたしは本社前で暴れると思います。