巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

もし花見をしていれば

2014-12-31 23:44:17 | 日記・エッセイ・コラム
この歳になると、おめでたい話よりも、人を見送る話のほうが多くなる。天寿を全うした方もいれば、病気で亡くなった方も、事故で亡くなった方もいる。

死を自ら選ぶ人もたまにいる。日本はキリスト教の教義のように自殺を罪とする考え方は薄く、それよりも歴史的に見れば「切腹」があり、「生きて虜囚の辱めを受けず」で敵に捕まるよりは自決を推奨するなど、自殺という行為に対するハードルが、キリスト教文化圏よりは低い。わたしだって、死を考えることは結構ある。

だが、Kさんが自ら死を選んだことは、わたしにとっては衝撃だった。

Kさんは、私と同世代の男性で、数年前に数か月だけ一緒に働いた。職場が変わっても、同時期に同じ会社で働いていたもう一人とKさんとわたしの3人で、ときどきメールで連絡を取り合い、1年に1回から2回、飲み会を開いた。3人の共通点といえば、英語系の仕事をしていること。そして、いろいろと転職経験があること。

Kさんは、彼を知る多くの女性が言うように「男にしてはいい奴」だった。これは女よりも男のほうが優れているという意味ではなくなく、女性がしばしば「結局、男って○○なんだから」とあきれ顔でいうような、女性があまり好きではない多くの男性に共通する「○○」の部分が、Kさんにはなかったということだ。ある意味で女性的だったともいえるが、男性がしばしばいうような「「女っていつも△△だから」、の「△△」にあたる部分もなかった。

Kさんは、いつでもニコニコしていて、ポジティブで愉快だった。「これからも、半年か1年に一度ぐらい会おうよ。」と、Kさんはいつも言っていた。今年はたまたま新年会ができず、桜の季節も忙しくて花見の宴をひらく機会も逃してしまったところ、6月に訃報が入ってきた。

今年1月に来たKさんからの最後のメールはいつも通り陽気なもので、「また三人であってキャッチアップしましょう」「風邪に気を付けて日々をエンジョイしてね!」とあった。それからわずか数か月のうちに、Kさんは自分で死を選んだ。Kさんに何が起こったのかは知らない。わかっているのは、Kさんのご家族にとっても彼の選択が予測不能だったということだ。

新年会をしていれば、あるいはどんなに忙しくても、花見を企画していれば、そしてそこでKさんの話を聞いていれば、何か状況は変わっただろうか? わたしは、いまでもそれを考えている。

そしてKさんはSNSや動画投稿サイトを頻繁に活用していたため、ネット上のあちらこちらに、Kさんの痕跡が、まるで彼が生きているかのごとく存在している。その痕跡を、わたしはたまに予想外の場所で見てしまうことがある。

わたしは、Kさんの死を消化できていない。

ウィーンのシナゴーグとユダヤ博物館とワーグナーの楽劇の話

2014-12-30 02:30:14 | 日記・エッセイ・コラム
Gooブログは、前年の同時期に自分が描いたブログについて、メールをしてくる。そういえば1年前は、「冬の動物園」でウィーンのシェーンブルン動物園の動物の写真を数枚アップしていた。

あのときシェーンブルン動物園に行ったのには、ちょっとしたわけがある。

昨年の12月のクリスマス直前、1週間ほどウィーンにいた。ちょっとした仕事を一つだけ入れて、あとはフリーというスケジュールだった。

自由時間でやりたいことは、3つあった。


(写真説明:ウィーン市庁舎前のクリスマス・マーケットのヒュッテ(小屋)のひとつ)

1つはクリスマス・マーケットめぐり。滞在中わたしは、ウィーン1区を中心に、かなりの数のクリスマス・マーケットをまわった。

2つ目は音楽。わたしはあらかじめ、楽友協会で行われるピアニストのルガンスキーが共演するトーンキュンストラー・オーケストラのコンサートと、フォルクス・オーパーのヨハン・シュトラウスの『こうもり』と、国立オペラ座のリヒャルト・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の予約を入れていた。

3つ目は、ウィーンの、あるいはオーストリアや中欧一般のユダヤ人の歴史を調べることだった。

3つ目の目的のために、まずはウィーン1区にある、ウィーン・シティ・シナゴーグ(Stadttempel)のガイドツァーに参加した。

ナチスドイツによるオーストリア併合当時、ウィーンの人口の約1/10はユダヤ人であり、ウィーンには94のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)があった。1938年の「水晶の夜」事件では、ウィーンでもこれらのうち93のシナゴーグが破壊され焼き討ちにあった。内部は荒らされたものの焼き討ちを逃れて唯一残ったのが、この、ウィーン・シティ・シナゴーグ(Stadttempel)だ。なぜ残ったのかというと、ここが火事になると火がウィーンの中心部一体に火が燃え広がる危険性があったため、火をつけられなかったのだ。

ガイドの女性が語るウィーンにおけるユダヤ人迫害の歴史は、彼女があげる数字も含めて、すでにかなりの部分を、わたしは知っていた。たとえばドイツのオーストリア併合には、ウィーンの市民の99.7%が賛成したこと。迫害前夜のウィーンの医者の半分、銀行家の75%がユダヤ人だったこと。20万人のウィーンのユダヤ人の家、13万人が財産を置いて国外に脱出し、65,000人が強制収容所へ送られ、戻ってこられたのは2,000人だったこと。ドイツと違い「オーストリアはナチスドイツの犠牲者」という立場をとったため、戦後ユダヤ人に戻ってこないでほしいという態度を取り、残された財産のユダヤ人への返還もなかったこと… 知っていたからこそ、自分の眼でもっと知りたくてウィーンへ行った。

事前にそれなりの知識があっても、ガイドの女性の語るウィーンにおけるユダヤ人の歴史は、そのひとつひとつが重いものだった。もちろんわたしを含めた多くの人間は、歴史上常にユダヤ人が被害者だったというわけではないことを知っている。特に現代の、ユダヤ人が長年の悲願であった建国を果たしたあの国で、起こっていることを。

シナゴーグを出た後、ユダヤ博物館に行った。そこでは、常設展示である中欧におけるユダヤ人の歴史とともに、リヒャルト・ワーグナーの音楽と反ユダヤ主義(Antisemitism)の関係に関する大がかりな企画展をやっていた。

この企画展はかなり力の入ったもので、様々な資料とともに、ワーグナーの音楽に対する擁護者(たとえばダニエル・バレンボイム)と批判者(たとえばウディ・アレン)の両方の主張と取り上げていた。ちなみに、さすがに誰もワーグナーの人格は肯定的にはとらえてなかった。何しろ、彼は匿名で音楽雑誌に反ユダヤ主義の論文を発表したのだから。つまり論点は、彼の音楽と人格を切り離して考えるべきかどうかが中心となっていたのだが、ワーグナーの音楽がナチスのプロパガンダに大々的に利用されたという事実により、「ワーグナーの人格がどうであれ、彼の音楽は素晴らしい。その音楽の素晴らしさは、彼の人格とは切り離して評価しなければ」などと、簡単にいえるようなものではないというのが、企画展の趣旨であるという印象を受けた。

常設展示と企画展の「凄み」に精神的にどっぷりと落ち込みつつ、ホテルの朝食をとってからすでに8時間近く経っていたこともあり、わたしはすべてのフロアをまわったあとに博物館併設のカフェに入って、ピタとメランジェを頼んだ。本当は「ユダヤ人博物館」なのでユダヤ人のパンであるベーグルが欲しかったのだが、カフェがベーグルを切らしていたので、代わりにピタになったのだ。

トマトとモツァレラチーズとバジルソースのピタは、なんだかとても美味しかった。そしてバジルソースの絶妙な塩気に、わけのわからない涙が出てきた。

ピタに涙しながら、わたしは自分の精神状態がまずいことになったことを感じ始めていた。翌日の夜には、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を観るのだが、もはや、先入観なしにワーグナーの音楽を聴くことはできないだろう。いくら美味しいとはいえ、ピタに泣くような状態では。

そこで次の日は、美術史美術館で絵画三昧にするつもりだった日中の予定を変更し、朝一でバーンノラマ(建設中のウィーン中央駅の展望塔)へ向かった。高所恐怖症のわたしが高いところへ行けば、少しは滅入った気分が吹っ飛ぶかと思ったのだ。が、高いところへの恐怖ごときで、気分転換が可能なはずがない。つまりは、展望塔の上にいる間は恐怖という感情にほかのすべてを忘れても、下へ降りれば再び気分はどんよりだった。


(写真説明:バーンノラマから撮ったウィーン中心部の写真)

そこでそのあと、シェーンブルン動物園へ行った。動物好きのわたしが動物たちに会えば、すこしは気分が上向きになるかと思った。昨年のこの時期にアップした動物の写真は、動物に救いを求めながらの写真だったのだ。

しかし結局、もやもやをたくさん抱えたまま、動物園からいったんホテルに戻り、国立オペラ座に向かった。

ペーター・シュダイダーが指揮した『トリスタンとイゾルデ』は、素晴らしかった。音楽がその第一音から容赦なくわたしに襲いかかり、最初のトリスタン和音でわたしの心は早くも強烈なストレートを食らったようになった。こんなにも簡単にやられてしまったのは、おそらく前日のユダヤ人博物館の企画展が影響していたに違いない。



(写真説明:かつて、このあたりにあったゲットー(ユダヤ人居住区)を、市の他の部分から区切っていた鎖。その奥(左手の茶色の壁の建物の隣の建物)が、ウィーン・シティ・シナゴーグ。シナゴーグであることがわかりにくい外観になっている。1981年にパレスチナ系のテロリストがここを襲撃し2名が死亡、他13名が負傷したため、現在でも周辺には常に警官が配置されている。)

瑠璃色

2014-12-28 00:16:44 | ガジェット/モノ
最近わたしは、また万年筆を買ってしまった。プラチナ万年筆の#3776 センチュリー・シャルトル・ブルーというやつ。万年筆はもう何本も持っているのだけれど。(「『中学生の入学祝い=万年筆』だった」を参照。)だって、万年筆のボディがとても懐かしい色だったんだ。思わず買わずにはいられないほど。

メーカーは、あの色をフランスのシャルトル大聖堂のステンドグラスの色だと言っている。でもわたしにとっては、違う。あれは、子供のころ毎週のように通った、国立東京第一病院の小児科の診察室にあった色だ。

先生が患者の喉をみるために舌をおさえる、あのヘラのような舌圧子(ぜつあつし)が、何本もささっていたあの瑠璃(ルリ)色のガラス製の瓶。あの瓶をシカン瓶というのだそうだが、診察室に入るたびにに、わたしは茶色と透明とそして瑠璃色のシカン瓶を、うっとりしながらずっと見ていたものだった。とてもきれいな色だった。あんな色の瓶がほしいなあ、ほしいなあと、子供心にずっと思っていた。

大人になってもやっぱり、あの色がほしかったらしい。うっかりプラチナのホームページを見てしまい、あの瑠璃色の万年筆を見たら、たまらなくなって、さっさと注文してしまった。