巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

前頭側頭型認知症

2015-08-20 21:52:48 | 美容と健康
母が、「自分がおかしいみたいだ」と言いだしたのは、昨年の11月の終わりごろだった。「しゃべろうとしても、ことばが上手く出てこない」という。たしかに、何かをしゃべろうとして、「あれが、あれが…」と言ったまま、言葉が出てこないことが多くなった。私は近所のものわすれ相談医に診てもらうことにした。12月半ばのことだった。

認知症が疑われている人間に対して最初に行われるテストである長谷川式簡易知能評価スケールに、「知っている野菜の名前をできるだけ多く言ってください。」という問いがある。母はその問いにまず「ジャガイモ…」と言ったきりで、そのほかの野菜の名前はどんなに頑張っても、まったく出てこなかった。

あとになって考えてみれば、その数か月前から予兆があった。母の作る味噌汁の具の大根は、繊維にそった千六本ではなく、いちょう切りになった。同様に、ナスの味噌汁のナスの切り方も、縦方向ではなく、半月切りになった。それは、かつて母が嫌がり、そのような料理の下ごしらえをする人を軽蔑していた切り方だった。

「自分がおかしい」と言いいだしたころには、母の料理は、いつもジャガイモとニンジンを醤油で煮たものだけになり、それもとんでもない味付けのものになった。それもできなくなると、ある時から毎日、近所のスーパーで薄い野菜コロッケと、袋に入った千切りのキャベツを買ってきて、その2つだけを夕食に出し続けるようになった。ご飯も味噌汁もなかった。わたしが栄養面やらコスト面(千切りの袋入りキャベツは割高なのだ)をいっても、必ず夕食にそれだけを買ってきた。私が、「これでは栄養面がダメだし、第一これでは量としても足りないから」というと、母は黙って自分の分の野菜コロッケを私に差し出すのだった。

同じものを執拗に買うという行動は、他のものにも及んだ。毎日食品用ラップを買い続けた。歯磨き粉も洗剤もそうだった。バナナも同様で、食べきれないバナナがキッチンにあふれた。

そしてある日私は、母の部屋の押し入れの中に、どうしようかと思うほどの大量の吸水ケア用チャームナップがあることに気が付いた。数か月間の間、毎日30枚入りを2袋ずつ買い続けていたのだ。こうした行動は、買い物という行為ができなくなるまで続いた。

認知症専門の病院の予約は混みあっており、検査は3月になった。検査を受けたときには、まだ私が娘だとわかっていたが、2週間後に検査結果を聞くころには、もう「わたしもびっくりしたんだけれど、この人私の娘なんだって」というようになった。

診断は前頭側頭型認知症だった。不幸中の幸いといえば、前頭葉に委縮はみられず、主に側頭葉が委縮しているタイプだった。そのせいで、同じ前頭側頭型認知症でありながら、「ピック病」のような性格の変化はまったくない。また、アルツハイマーのような徘徊がないことも、幸運だった。

だが不幸なことには、前頭側頭型認知症には、アルツハイマー型と違って効果的な薬がない。診断を下した医師のアドバイスは、「デイサービスにいって、楽しい経験をして、出来るだけ脳に刺激を与えて、残りの機能を精一杯使うこと」だった。

デイサービスは、楽しいらしい。しかし容赦なく、そして驚くほど速く、母の認知症は悪化していく。「昨日まではわかっていたこれが、今日はわからなくなった」「昨日までは出来ていたあれが、今日はできなくなった」ということが日々わかるぐらいに。そして、母には、自分がだんだん変になって行くという自覚がある。

母方の家系には認知症が多い。すでに亡くなった母の母は認知症だった。母の妹も数年前に認知症と診断され、母の弟も軽度認知障害(MCI)だと聞く。だから母がいつか認知症になることは、ある程度は覚悟していた。だが、こんなにも進行が速いとは予測できなかった。




昨日わたしは、母を老健(介護老人保健施設)に入れた。「この時期の日中独居は熱中症の危険が高いから、暑いうちは24時間誰かの眼があるところに移せ」という医者からの指示があったからだ。

わたしが夏の間に母を入れる施設を探していることを知って、「そういう施設に入れると、認知症が進む」と言ってきた人も多い。その通りだろう。だが、熱中症のリスクを回避することが急務であり、さらにはわたしの働きながらの介護もほぼ限界だった。昼夜が逆転した母は、毎晩夜中に3回も4回も、時には6回も起きて、そのたびに大声でわたしや弟の名を呼んで泣き、そのたびにわたしの睡眠は中断されたのだから。

老健への入所は2か月間の予定だ。その後はどうなるのだろう。あらゆる可能性と、あらゆる妥当な選択肢を考えなければ…