巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

2年3ヶ月後の返信

2013-06-15 22:29:55 | 日記・エッセイ・コラム
"RE: 大丈夫?" というタイトルのメールが、大学院時代の友人から来た。"RE:" とあるからには、わたしが出した「大丈夫?」というタイトルのメールに対する返信である可能性が高いのだけれど…

はて、私はそんなメールを出したことがあったっけ?

メールを開けてびっくり。なんとあの東日本大震災の直後に、被災地にいる友人に宛てたメールに対する返信だったのだ。


友人は結婚後米国で暮らしていたが、お父様がご高齢なこともあって、たびたび故郷の大船渡へ帰ってきていた。そのなかであの日、彼女は亡きお母さまの故郷である気仙沼へ出かけていて、そこで被災した。

あの震災の日の朝早く、わたしは彼女からメールをもらっていた。それはその前夜に、彼女が大船渡に帰ってきていることを知らずに出した、わたしのメールに対する返信だった。

わたしのメールは、「福島です。三陸沖で少々強めの地震がありました。」というタイトルで、「ご実家からニュースが入っているかとは思いますが、9日~10日にかけて、三陸沖で数回の地震が起きています。」という出だしのものだった。

それに対して彼女はあの朝、気仙沼へ出かける前に、わたしに「福島さん おはようございます。以心伝心でしたね。メールしようと思ったら、、、、、、、地震は早速、大船渡で遭遇してしまいました。」だった。

だから、あの日の午後、あの本震が起こったとき、わたしは1980年代に建てられた日比谷公園近くの30階建のビルの27階にいたのだが、震源地が三陸沖だと知ったときに、真っ先に頭に浮かんだのは彼女の安否のことだった。

もちろん、彼女がメールを受け取れるような状況ではないことはわかっていた。大体わたしは、彼女の職場のアドレスにメールを送っていたのだ。彼女が大丈夫だったとしても、メールに目が通せる状況になるのは一段落ついてからのことになるだろう。しかし、わたしはメールを打たずにはいられなかった。そのメールはわたしにとって、彼女が生きていることを願うおまじないのようなものだった。わたしの方の記録では、午後3時11分に彼女にメールを送ったことになっている。

翌日、Googleのパーソンファインダーに彼女の名前を見つけた。それによると彼女は津波そのものからは逃れ、震災の日の夜中にドラッグストアの屋根の上に避難していた時に、奇跡的に携帯でLAのご主人に連絡が取れたらしい。ご主人の側の親類が、安否情報の依頼をたてたのだった。

とりあえず彼女が津波は逃れたらしいと喜んだのもつかの間、次第に分かってきた気仙沼の被災状況に、わたしはまたもや絶望的な気分になった。とくに日曜の朝刊だったか、大きく一面に大きく掲載された夜の気仙沼の火災の写真に、わたしは叫びだしそうになった。

そのような状況の中で、彼女は助かった。一度は胸まで水につかり、周りは火事だの爆発だのという状況のなかで寒さで震えながら、それでもがんばり続けたのだ。

助かったのがわかって安堵したわたしは、彼女の状況を考えてすぐには連絡を取らなかったが、2ヶ月後ぐらいたって電話とメールでの連絡が再開した。

被災後の彼女は、自身の被災体験を、故郷でもそして現在住んでいるLAでも公けに語ってきた。おそらくそれは、彼女が震災後の故郷の復興に貢献することが、自分の責務であると考えているからに違いない。

震災のことを語っているのだから、わたしは、彼女があの体験をそれなりに消化し克服したのだと考えていた。しかし2年と3ヶ月後の返信の中には、「実は、震災のときにいただいたメールが少し残っていたのですが、ほとんど、あの日からメールを見る勇気や時間がなくて、、、」とあった。

わたしには想像することしかできないが、やはりあれは、消化できるような経験ではないのだろう。当時のメールを見るのに、2年と3ヶ月かかったのだ。やっと当時のメールに目を通して、彼女は「タイムスリップした」と書いてきた。わたしは先ほど「メールに目が通せる状況になるのは一段落ついてからのことになるだろう」と書いたが、その一段落が2年3月後だったのだ。

彼女からの返信に、わたしもまたタイムスリップした。

揺れることで建物自体の倒壊を防ぐように設計されたビルの中で、ものが落ちたり割れたりする音を聞きながら、死を覚悟したこと。(乳がんが超早期で発見されるという幸運を体験した後だったので、「人間そんなに幸運に恵まれ続けるわけがないから、諦めよう」とか「死ぬなら苦しまず一瞬で死にたいな」などと、机の下で考えていたのだ。)ビルの中から火災やら曲がってしまった東京タワーのてっぺんを見ていたこと。夜遅くまで人があふれていた日比谷公園と、周辺の道路に車があふれていたこと。やっとのことで、JRに先駆けて復旧した都営地下鉄に乗ってえらい目にあったこと。(あの時の都営地下鉄の駅員さんたちのものすごい頑張りと、現場での采配には、感動して本当に涙が出た。)その後の停電やら、いろいろな物不足やら、そしてあの原発のこと…

その後のことは、ときには心が温まるような話や、明るいニュースもあったが、やはりつらく悲しいニュースのほうが圧倒的に多い。

そして、被災地の復興はいまだにあまり進んでいない。

ミュージカル「ヘアー」2013年東京公演最終日

2013-06-09 22:49:08 | 映画・小説etc.
シアターオーブにて。

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カーテンコールのみ撮影可。観客も舞台に上がり、舞台に上がらない観客も、総立ちで踊る。

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冷静に舞台全体と観客のノリをみたくて、2階の最前列を予約したのは、はっきり言って間違いだった。こういうものは、自分も我を忘れて参加してナンボ。

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ビー・インに至るシーンでは、2階にもキャストが来て、花とチラシを配っていった。ちなみにチラシはレターサイズ(アメリカだもんね)。

チラシには、「召集令状を燃やせ」と書いてある。ちなみに「何か吸うものを持ってこい」「自分用のポット(マリファナ)を持ってこい」とも書いてある。この召集令状を燃やすと、罰金か懲役かその両方を科されたはず。