巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

としまえん(あるいは、「恐怖の回転ブランコ」)

2017-09-18 21:11:25 | 日記・エッセイ・コラム
50年ぶりにとしまえんに行ってきた。



50年前のおぼろげな記憶では、あの遊園地はやたら樹が多くて、
武蔵野によくある雑木林の中にいるようだった記憶があるが、
今回行ってみた印象もそんな感じだった。







実はとしまえんは今回で3回目だ。1回目はさすがのわたしも覚えていない、
1961年。つまり0歳の時だ。その時の写真が下にある。




わたしが4月1日生まれ。母の服が夏服で、しかもこの写真が貼ってあるアルバムには、
写真の下に「早く首が座ってほしい」と書いてあるので、
生後3ヶ月からせいぜい5ヶ月ぐらいの頃だろう。
母が、24歳の写真だ。若いな。

ところで、2回目となった50年前のとしまえん、
いや当時は豊島園には、忘れがたい嫌な思い出がある。

当時、豊島園には回転ブランコがあった。
その回転ブランコは、記憶が正しければ、ほとんど装飾のないもので、
子供の目には楽しくなさそうだった。
なによりも、遠心力でブランコが斜めになるというのが、
見ているだけで怖かった。
今よくあるタイプの回転ブランコと違って、
高さが全くないものだったが、それでも子供心にはとても怖かった。

父はわたしだけを強制的にそのブランコに乗せようとした。
わたしは嫌がった。
「お父さんかお母さんも一緒に乗ってくれるの?」と必死に食いさがるも
「もう大きいんだから、一人で乗らなきゃだめだ」とか何とかいわれた。
ブランコに乗るために後ろに並んでいる人たちの目が、
「いいかんげんにしろ」と言っていた。
父は、嫌がってぐずり始めたわたしを
「他の人の迷惑になるから、早く乗りなさい」と大声で叱って、
わたしを強制的にブランコに座らせた。

ブランコが回転しはじめ、視界が斜めになり始めた時の恐怖といったら。
わたしは烈火のごとく泣き出した。
あまりに激しく泣き叫んだので、係員はブランコを途中で止めなければならなかった。
ブランコが止まり、わたしは父によって外に引っ張り出された。
父は烈火のごとく怒っていた。
ブランコに乗っている他の大人たち(当時のわたしには大人に見えたのだが、
おそらく若者だったろう)が全員冷たい目で、こちらを見ていた。
あの、大人たちの表情は、理不尽な思いとともにしっかり脳裏に刻まれてしまった。
これが今に至るまで、わたしが回転ブランコに乗れない理由だ。

ところで、父がなぜわたしを回転ブランコに乗せようとしたのかというと、
回転ブランコに乗って楽しそうなわたしの写真を、
写真を趣味としていた父が撮りたかったからだと、かなり後で母から聞いた。
が、わたしが激しく泣いたことで、その日の豊島園での家族の一日は
散々なものとなり、このときの写真は全く残っていない。

後年、『愛の嵐』という映画を観たが、
その中でナチスの強制収容所勤務の男が、
収容所に収容されている若い女たちにきれいな服を着せ、
回転ブランコに乗せて、動いている回転ブランコの彼女たちを
次々と銃で撃っていくというシーンがあった。
ほら、やっぱり回転ブランコは怖いものなんだよ。
無理やり乗せられて、怖い目を見るものなんだよ。
もう、回転ブランコは完全にトラウマ。

ちなみになぜとしまえんに行ったのかというと、
母をそこに連れていくことが可能かどうか、
下見するためだった。
認知症になった母は、子供たちが遊んでいるのを見るのが好きだ。
なので、母が腰を下ろして休めるところがあるか、
そして今の季節なら適当な日陰があるかどうか、
多目的トイレは充実しているかどうかを、
チェックしに行ったのだった。

今は回転ブランコはないし、当時は無かった110年物のカルーセルはきれいだし、
もう少し涼しくなったら、連れて行ってもいいかな。