メトロポリタン・フロイデ・コーア東京(MFC東京)第7回定期演奏会
日 時: 2007年2月25日(日) 15:00開演
場 所: 東京芸術劇場(東京・池袋)
出 演: 指揮/横島勝人
ソプラノ/田島茂代 山田綾子 メゾソプラノ/小嶋康子
カウンターテノール/本岩孝之 テノール/五郎部俊朗 牧野成史
バリトン/小島聖史 藪西正道 浅井隆仁
演奏/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
合唱/メトロポリタン・フロイデ・コーア東京(MFC東京)
曲 目: J.S.バッハ/マタイ受難曲 BWV244
母がMFC東京のメンバーなので見にいきました。バリトンの小島聖史氏が主宰するこのMFC東京は、アマチュアの合唱団です。しかし、常にプロの声楽家とプロのオーケストラとともに定期公演を行い、海外公演も何回も行っています。おまけに、その海外公演を行った場所というのがが、ウィーンの楽友協会大ホール(ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートで有名)とか、プラハのエステート劇場(モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が彼自身の指揮で初演されたところで、映画『アマデウス』のオペラシーンもここで撮影された)等、怖いもの知らずの合唱団です。(さすがに楽友協会大ホールでモーツァルトの作品は避けたようですが。)
さてその合唱団が今回取り組んだヨハン・セバスチャン・バッハの『マタイ受難曲』といえば、全68曲で3時間をの所要時間を要する、西洋音楽の「最高傑作」です。準備に1年半かけたとはいえ、そんな大作にアマチュア合唱団が取り組むとは、かなりイイ根性をしています。
感想としては、1年半の準備でアマチュアで良くここまで…という感じです。合唱団の指導者たちの苦労が偲ばれます。ソリストはプロを揃えていてさすがです。(今回はソリストのうち2名が、直前にインフルエンザにかかったとのことですが。)エバンゲリスト役のテノールの五郎部俊朗氏は、やはりいい声ですね。指揮者の横島勝人氏のうしろ姿は相変らずスリムで、その指揮は激しくセクシーではありました。
ところで、母の持っている楽譜をチラ見した限りでは、たしか楽譜内にピアニッシモの記号があったような気がしますが、残念なことに女性のコーラスは、最弱音でもメゾフォルテで歌っているような印象でした。わたしは3階の舞台からかなり遠いところから見ていたのですが、女性のコーラスの音が大きく、他の音のすべて聞こえなくなってしまうことがありました。合唱団設立の当初は「声が後ろまで通らない」で苦労したそうですから、進化しているといえば進化しているのでしょう。
ところでこの『マタイ受難曲』については、わたしは「日本人はこの曲を真の意味では理解できない」と感じています。それは以下の理由によります。
■ キリストの受難の内容と意味が理解しにくい
ご存知の方には説明不要ですが、「マタイ受難曲」とは「マタイの福音書」の記述に基づくキリストの受難を扱ったものです。具体的には、マタイの福音書の26章と27章に書かれている部分を扱っています。(マタイが受難にあうわけではありません。)
この曲の歌詞はドイツ語ですが、今回の公演では舞台の両端に電光掲示板があり、歌詞の訳が出るので、歌詞自体の意味はわかるようになっていました。しかし、その歌詞だけで、そもそも「キリストの受難」の内容全体を、わたしたち日本人がどれだけ把握できるでしょうか。
キリスト教を信仰している人、キリスト教について学んだ人や、キリストの受難が描かれている映画(『キング・オブ・キングズ』(1927)、『ベン・ハー』(1959)とか、『パッション』(2004))やミュージカル(『ジーザス・クライスト・スーパースター』等)を観たことがある人は、一連の流れはわかると思います。
それでも、ある程度キリスト教やこの時代の知識がないと「扇動されたとはいえ、何故民衆の多くがイエスの死を望んだのか?」「いったいマリアって、何人いるんだ?」、はたまた「『預言が実現(または成就)するためである』ってどういう意味よ?」「人類の罪を背負って死ぬとはどういうこと? そもそも『人類の罪』って何だ?」と、いろいろわけのわからないところが出てくると思います。「マタイ受難曲」の歌詞の内容をきちんと理解しようとなると、かなりの背景知識が必要になってきそうです。
■ 宗教体験にならない
また、このイエス・キリストの受難にまつわる一連の話の筋を知っていたとしても、あるいはキリスト教に関するかなりの知識を持っていたとしても、もうひとつの問題があります。それは「この曲が宗教体験として、日本人の心に訴えることができるのか?」ということです。
キリスト教が深く浸透している西洋では、磔刑(はりつけの刑)のキリストの像や絵画はおなじみです。これはビジュアル・イメージとしては非常に恐ろしく、グロテスクです。わたしは磔刑図なんて長時間正視できません。
なにしろイエスは十字架には縛られるのではなく、手のひらと足首に釘を打たれて十字架に固定されているんです。(手のひらに打つと手が裂けて固定が外れてしまうので、実際には手首に釘を打ったらしいのですが、どっちにしろ激痛です。)
このような状態で十字架に磔(はりつけ)になると、呼吸困難に陥り、通常は数時間かけて苦しみながら死に至るといわれています。(ウィキペディアのキリストの磔刑の項を参照)つまり、磔刑は「苦しませて死に至らせる」処刑方法であったわです。イエスの頭には荊の冠がかぶせられているため、荊のトゲで頭からも血を流しています。もちろん釘打たれた手のひらと足からも血が流れている。その表情は耐え難い苦痛でゆがんでいます。
物心ついたときかたらキリストの受難の話を「真実」として聞き、そして磔にされたその姿をビジュアルで見せられ脳内に刷り込まれて育った人々にとって、母国語(ドイツ語)で壮大な音楽とともにその受難を提示されたショックというのは、かなりなものでしょう。
一方わたしたち一般的な東洋人にとって、バッハの音楽のすごさと物語の内容までは理解できても、それ以上の生々しさはありません。この大バッハの『マタイ受難曲』は彼らにとっては「音楽体験」と同時に強い「宗教体験」にもなりえるでしょうが、わたしたちにとって「音楽体験」そのものでしかないのです。ただし、純粋な音楽体験としても、かなりインパクトのあるものになり得ますが。
とまれ、MFC東京の定期公演を見て「やはりバッハの音楽はいいなぁ」と改めて思いました。家に帰って、久々に以前途中で挫折した「インベンションとシンフォニア」に再チャレンジしようかなぁと思いましたが、思ったところまででした。装飾音の解説を読んでいたら頭が痛くなってしまったので。