巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

上場しているというリスク

2005-03-08 22:38:52 | 事例
数年前務めていた会社は英国系企業の日本法人だったが、英国の本社はロンドン証券取引所に上場していた。この本社はあまり業績が振るわず、長らく株価が低迷していた。

ある年、黒字決算を発表したにもかかわらず、株価は経営陣の期待したように上向きに動いてくれなかった。

「黒字なのに株価が安い=この企業はお買い得」

こうなると、ライバル会社がTOB を行ない、本社に対して敵対的買収をしかける可能性が高くなる。恐れをなした本社の経営陣は、株式を非公開にすることを決めた。そこで、ベンチャー・キャピタル企業の支援を得て、MBO(マネジメントバイアウト)を行なった。MBOは成功裡に終わり、本社はめでたく非上場になった。

(株式の非公開化については、大和総研の「株式非公開化という戦略」という記事が参考になる。)

このとき日本法人の従業員の多くは、この様子を他人事のようにみていたと思う。しかし、わたしや同僚のAさんらは、危機感をつのらせていた。

「ベンチャー・キャピタル企業だって、善意で投資しているわけではない。利益が出ないとなれば、あるいは自分たちの金になると思えば、本社をさっさと売り払うだろう。そうなると、この日本法人なんかは、一番ミジメな売られ方をするのではないだろうか…」

わたしは、その後ほどなくこの日本法人を辞めた。が、その後しばらくして、この企業はAさんの予想どおり売られてしまった。相手は米国に本社を持つライバル企業だった。この米国系企業にはすでに日本に資本提携している企業があったため、日本法人はこの企業に吸収された。吸収された立場の従業員の多くが、その年の終わりに企業を去った。

「上場している企業」というと、「しっかりした企業」という安定のイメージがある。多くの人間が上場企業へ就職したがる理由の大きなひとつも、その安定イメージのためだろう。

しかし本来、上場している、あるいは株式を店頭公開している企業というのは、いつもこの手のリスクを背負っているものなのだ。フジサンケイグループとライブドアの一連のニュースをみるにつけ、「なんでフジサンケイ側が、上場しているニッポン放送について、このようなことが起こることを想定していなかったのだろう」と、不思議に思ってしまう。

上場しているってことは、実はとっても大きなリスクを抱えているってことなんだぞ… もちろん、上場には大きなメリットが色々とあるのだが。件の英国本社だって、自分たちは株式を非公開化しながら、日本法人に対しては株式を店頭公開するよう命じていたし…


A社の常識はB社の非常識

2004-07-09 21:27:05 | 事例
Sham&Joshさんのブログ、「josh」「ドタキャンと常識」を読んで、ある会社で常識であることが、別の会社では非常識になることを、いまさらながら再確認した。

人間は、自分のいる世界の慣習や自分の経験したことが、世間の常識だと思ってしまいがちだ。でもそれは正しくなく、ある人間と別の人間の常識は、しばしばぶつかることがある。この常識の違いによるトラブルが企業内で発生すれば、その人物の査定や、場合によっては進退にかかわることもある。以下はその例である。

■ 就業規則に「おやつタイム」

30代の外資系金融出身の社長がいる再就職支援会社に、転職したときのことだ。ジャスダック上場の準備のひとつとして、まだ労働基準監督署に提出していなかった就業規則を、早急に準備しなければならなくなった。

再就職支援業という業種がら、従業員の中には様々な業界からの、元人事部長や元人事取締役たちが、転職・再就職で入社してきており、就業規則のドラフト作りには、複数の人間が手を上げた。

某支社の支社長であるA氏も、「わしが作る! すばらしいものを作って見せる!」と、力強く宣言した。A氏は60代で、大手トイレタリー・メーカーの人事取締役からの転職組だったが、その前には総合重機大手の労務を長年担当しており、組合対策なども経験豊富なツワモノであった。ゆえに、就業規則作りに適任に思われたし、社長もA氏を尊敬していたので、ドラフト作りを任せることにした。

しかしA氏から提出された就業規則のドラフトを見て、社長は仰天した。12:00からの昼休みのほかに、15:00~15:15に休憩時間が設定されていたからだである。

「Aさんは製造業出身だからねぇ。でも、ここはサービス業だから…」 第二次産業を経験している従業員には、A氏がこのドラフトに15:00の休憩を入れた理由が理解できた。しかし、第三次産業の中にどっぷりつかってきた社長には、その発想がどこからくるのかすら、まったく理解できなかった。

こうして、社長のA氏に対する評価は一転して、「就業規則におやつタイムを入れた非常識なヤツ」になってしまった。

一方A氏は、どの業界においても15:00時からの一斉休憩が必要なのだと、かたく信じつづけていた。その根拠は、自分の長いキャリアすべてにおいて、つねに15:00に休憩があったからだった。その信念はあまりにも強固で、サービス業出身の元人事取締役から、再就職支援会社には15:00からの休憩は必要ないし、むしろ不可能であるという理由を説明されても、聴く耳を持たなかった。

こうしてA氏の社長に対する見方は、「人事労務関連に無知なくせに、その無知さゆえに完璧な就業規則にミソをつけた無礼な若造」になってしまい、自分のドラフトが最終的に就業規則に採用されなかったことは、A氏のプライドをひどく傷つけた。

このようなことが積み重なって、社長とA氏の信頼関係は徐々に崩れてゆき、ほどなくA氏はこの会社を去ることになった。


■ 出張に日当が出ない理由

この会社で就業規則を作るときに、従業員たちがぜひ同時に見なおしてほしいと望んだのは、出張旅費規程だった。これまでの規定では、出張に対して日当が出なかったのだ。その結果、従業員たちは出張するたびに、少しずつ損をするようになっていた。

出張に日当を支給しないことに対しては、根拠があった。それは社長が、転職前の米系証券会社B社で働いていたときの、個人的な体験だった。

「前の会社では、日当なんてなかったよ。ボクが海外出張しても、日当は出なかったし。」

しかし実は、B社の規定にはちゃんと日当があったのである。こうはっきり言い切ってしまえるのは、そのB社の人事部で日当の経費処理をしていたのは、他ならぬわたしだからだった。しかも、日当の支給はB社の日本支店のみならず世界標準であり、その支給条件も金額も本社が決めていたのだ。つまり、社長の「前の会社に日当はなかった」の主張が通ってしまうと、それはわたしが前職において職務怠慢だったことになってしまう。

そこで社長が誰かに日当が出ない理由を言うたびに、(社長秘書を兼任していたので)社長と席が近かったわたしは、「いいえ、ありましたよ。わたしが海外出張のパーディアム(=per diem、日当)を担当していました。申請があれば、ちゃんとみんなもらっていましたよ。」と、横から口を出すはめになった。

この口出しに対して社長はイヤな顔で沈黙をするのが、社長の「前の会社では、出張に日当は出なかった。わたしが日当をもらわなかったのがその証拠」の信念は、てこでも動かなかったらしい。あるいは、自分も過去にもらったことがないのだから、自分の従業員たちにも、支給なしでもよいと考えていたのかもしれない。

出張に対して、日当を出してほしいという陳情は続いた。

「日当を出してほしい」と従業員が言ってくるたびに、「日当なんて、前の会社には…」と社長が答え、そこに間髪いれずに、わたしが「いいえありました」と口を出し、それに対して社長がイヤな顔で沈黙する…という、お決まりのパターンが10回は続いた。従業員たちは次第に、この社長は従業員がどんな正当な理由をもっていっても、絶対に日当を出す気はないだろうと、思うようになっていた。

かくして秘書のクセに、社長の考えを支持しなったわたしは、社長から嫌われ続けていくことになり、2年後、会社を去らざるをえなくなった。(が、そもそも「秘書だけにはしない」というのが、入社時の条件だったのだ。)そして社長もその後、従業員たちのほとんどから、背を向けられることになったのである。


デル:日本市場参入時の夢と悪夢 (1)

2004-05-30 11:55:04 | 事例
■ 受注から処理出荷までを手書きのコピーでやり取り

「おたくはコンピュータの会社なんだから、すべてはコンピュータで管理しているはずでしょ。わたしが注文したものは、いまどういう状態になっているのか、すぐ調べてよ!」

日本市場ではじめてダイレクト・マーケティングによりコンピュータを売り出した直後から、予想をはるかに上回る受注をうけてあたふたしているデルの元へ、当初はこのようなクレームがひんぱんに入ってきた。

IT関連業界にいる多くの人間にはわかっていることとは思うが、「IT関連商品を売り物として扱うこと」と「社内のIT環境が整備されていること」とは、基本的には異なる。つまり、デルの日本法人の場合、日本市場で売り出しをはじめた当時は、「注文を受けた人間が書いた手書きの注文明細のフォトコピー」がすべてだった。

今でこそ笑い話だが、この紙での受注のやり取りで営業とプロダクションの現場は混乱し、「注文した品がいつまでたっても届かない」「注文とは違うスペック(仕様)のものが顧客に届く」というトラブルが続出した。「スペックの違い」については、「注文よりスペックの低いものが届いた」というクレームはかなり受けたが、不思議なことに「スペックより高い仕様が届いた」というクレームは、1件もこなかった。

時には1台の注文に対して、時間差で同じスペックのものが3台も送られるということすら起こった。1枚の手書きの注文明細に対して、複数のフォトコピーが回ってしまったことが、原因らしかった。

「お客様。今なら幸運な方には、1台分のお値段で3台のマシンがお求めになれます。」

このようなジョークが、従業員の間で流行った。今なら余分に送られてきたマシンを売りさばく手段も結構あるが、当時は個人が自分のコンピュータを売るルートはなかった。個人の家に3台も送られた側は、さぞかし迷惑だったろう。

■ 使えなかったERPパッケージ

なぜ、すべてが手書きの受注明細に頼ることになってしまったのか?

それはSCALA(スカラ)という名のERPパッケージのハシリのようなソフトを導入したせいである。このソフトの導入は本社命令であり、社内経理から受発注、在庫管理、顧客管理まですべてが、SCALAで処理されることになっていた。

「いいかい。電話で注文を聴きながら、同時に顧客登録をして受注を入力する。オースティン(アメリカのテキサス州の州都、当時のデルの本社所在地)では、みんなこうやって注文を受けている。このときに入力される情報は、プロダクションに自動的に送られるんだ。納品書も請求書も自動的に出力されるよ。在庫管理もこれでできるし、発注もこのソフトを使って行なえる。経理もこれがあればOKさ。様々な分析だって…」

本社から出張してきたアメリカ人のSCALA導入担当者は、胸を張ってそういった。彼のことばは、今でこそビジネスソリューションのコンセプトとしては当たり前に聞こえるが、当時のわたしたちにとっては目新しいものだった。そしてわくわくしながら、SCALAのトレーニングに参加した…が…

■ 日本語を処理できない!

しかしこのSCALAは、なんと日本語を処理できなかったのだ。

これはSCALAそれ自体の罪ではない。SCALAの開発者たちは、極東において従業員総数が100人にも満たない企業が、果敢にも日本市場内でこのパッケージを使う状況は、想定していなかったろう。しかし、実際に使う側としては、内部の伝票処理はともかく、顧客にかかわるデータすべてに日本語が使えないのは致命的だった。このせいで、受注が手書きとなってしまったのだ。

社内の技術者が苦労したあげく、SCALAへの日本語の「入力」のほうを可能にしたのは、日本市場で受注と生産が始まってかなりたってからだった。受注から処理出荷までを、かなり長い間手書きのコピーに頼らざるを得なかったのは、このせいである。

SCALAへの「入力」が可能になり「画面出力」が可能になることは、実は少なくとも当時のテクノロジーでは「プリントアウトできること」を意味しなかった。画面に日本語が出るようになっても、依然としてプリンタから日本語が出てこない状態がしばらく続いた。そのため、納品書も請求書も領収書も、そして、発送伝票も、別途誰かがワープロで手打ちということになった。(経理はしばらくPCA会計とSCALAの両方を並行して使っていたようである。)

■ SCALAにインストールされた数千種類の製品番号が利用できない

さて、SCALA導入時にインストールされた数千種類の製品番号は、2回目以降入荷の製造元となるアイルランドの工場が独自につけた番号だった。ところが、初回に大量に入荷された製品にはメキシコ工場が組み立てたもので、メキシコ工場ではこの工場独自の製品番号を振っていた。そのため、日本市場参入に際して大量に輸入した初回入荷分のデータを、SCALAに入力することはできなくなってしまった。

営業はSCALAは日本語の入力が可能になった段階で、手書きの受注明細のコピー明細による方法を継続しつつ、後追いながら受注を入力し始めた。しかし、このような事情から受注データと在庫のデータはまったく連動しておらず、一体在庫はいくつあるのか、何台出荷したのか、それぞれの注文のオーダーステータスはどうなっているのか、等は、各部署の担当者が別々に作成した「手書きの受注明細を基にしたEXCELファイル」に頼っていた。

毎朝朝礼で、「今日もSCALAは使えません」の報告が続いた。あるアメリカ人のスタッフが、いみじくも、はきすてた。

"Our five-letter dirty word ? SCALA!"

(もちろん、不快語を意味する「四文字語」 (four-letter word) のもじりだ。)


デル:日本市場参入時の夢と悪夢(序章)

2004-05-15 13:50:06 | 事例
先日、仕事先の知り合いから、「新しい会社を立ち上げる。米系企業の日本法人だが、日本にはまだないことをやる。一緒にやらないか。」と、誘われた。その方の理想と情熱を聴き、誘ってくれたことに感謝しつつも、お断りしなければならなかった。今のわたしにはその体力と何かがあったときに持ちこたえられるだけの経済力がない。

その方の話を聞きながらわたしが思い出していたのは、11年前のデルの悪夢だ。PCのダイレクト・マーケティングのパイオニアとして、意気揚々と日本市場に乗り込んこの企業は、日本市場参入初期に、「まさかこんなことが起こるはずがない」と思われたトラブルを次々と体験した。このことは会社(とわたし)の信用に関わるため、最近まであまり口外してこなかった。

これから不定期に数回にわたって、このことを書きとめておこうとする理由は、まず第一にそろそろ時効だと思うからだ。社長も別の人間になっているし、当時のスタッフもほとんど残っていないはずなので、当時のデルの混乱を語っても、今のデルに迷惑はかからないだろう。それに、新しいことを始めるときにどのようなトラブルが起こりうるかの事例を語っておくことは、これから起業をしようという人間にも、トラブル事例を分析する必要がある人にとっても参考になるはずだ。

なお、これは当時の約1年間という短い期間に、ロジスティックとカスタマー・サービスを経験したある人間の目を通して見たデルの出来事だ。当時のデルにかかわった人間にはそれぞれの立場と見解があるので、100人が100人とも同じ出来事に対する違う話を持っているに違いない。なお、不定期でアップするので、後にまとめて読む場合には「事例」というカテゴリで見てほしい。

■ 序章 1993年1月9日 東京デザインセンター ガレリア・ホール

アジアの調達拠点だったデル・ファー・イーストが、正式に日本市場でのダイレクトマーケティングの準備を始めたのは1992年、そして日本市場参入は1993年1月9日だ。当時、日本法人は東京・五反田にあった。

その日、五反田の東京デザインセンターの地階にあるガレリア・ホールでの、2回の記者会見を含むローンチ・イベントには、予想外に多くの人々が訪れたため、受付とクロークは大混乱になった。すべての女子従業員が受付とクロークで対処したが、それでも手が足りないほどだった。クロークは狭すぎて棚とハンガーでは間に合わず、床に荷物やコートがうずたかく積まれ、文字通り足の踏み場がなくなった。

なにしろ「デル」とかいう名の、アメリカはテキサスのダイレクト・マーケティングのコンピュータ会社が、「日本ではじめて10万円を切る値段のパソコンを販売する」というのだ。この10万円はモニタ無しの値段で、CPUも386SXという今となってはどうしようもない代物だ。けれど、当時としては高額商品の代表だったパソコンが、何と10万円を切るという「低価格」で、外資系の企業により販売されるというのは、業界のみならず日本国内での大きなニュースだったのだ。

クロークがうずたかく積まれた荷物とコートを整理しきれないうちに、このイベントに集まった客が一斉に帰る時間となってしまったため、クロークは預かった荷物を探しだせず、再び受付とクロークは大混乱になった。

2回のイベントを終わったころには、全員がほとほと疲れていたが、とにかく終わったことは終わったし、無事やり遂げたと思っていた。社長が原稿にはないことをどんどん喋りだしてしまい、8名の同時通訳全員が対応におわれて汗だくになったり、デモ機がみんなの目の前で壊れてしまったり、預かったコートのなかには、返却時にはよれよれになった(おまけに、靴跡までついた)ものがいくつも出た。このようなちょっとしたトラブルはあったものの、大したことはなかった。通訳はプロとしてどうにか社長の話のつじつまを合わせたし、お客様の荷物でなくなったものはなかったし、壊れたマシーンはその場にいた業者さんがさっと直してくれて、その様子を見ていた回りにいた見物客たちも「コンピュータの初期モデルは、動かないのは当たり前のことなんだよ」と、フォローしてくれた。それにこんなドタバタは、これ限りのことに違いない。

しかし、この日の大混乱は、それから続く混乱の中の、とるに足りないものの1つにすぎなかったのだ。