巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

祝 青山ブックセンター営業再開! でも…

2004-09-29 14:44:52 | 日記・エッセイ・コラム
青山ブックセンター、青山と六本木で営業再開 (日本経済新聞 2004/09/24)

 民事再生法下で再建中の青山ブックセンター(東京・渋谷、磯貝栄治社長)が29日午前、青山本店で約2カ月半ぶりに営業を再開した。来店した都内在住のOL(32)は「閉店した時は驚いたが、これからは頻繁に利用したい」と話す。同日午後には六本木店でも営業を始める。

 営業時間は青山本店が午前10時―午後10時、六本木店が午前10時―翌朝5時とほぼ従来通り。同社は取引先による破産申し立てを受けて7月17―19日に全七店が営業中止に追い込まれていた。洋書取り次ぎ最大手の日本洋書販売(洋販、東京・港、賀川洋社長)の支援で再開にこぎ着けた。 (10:50)
(http://www.nikkei.co.jp/news/main/20040929AT2F2900A29092004.html)




本日再開。たしかにうれしいのだが、すこしばかり複雑な気分だ。

大学院の近くだったこともあって、渋谷にある青山ブックセンター(ABC)の本店には良く行ったものだ。本の品揃えや店の雰囲気も魅力的だったが、本のほかにも心を動かす様々なものがあり、買う予定などなかった本に加えて、必要ないパズルだとかTシャツなどをついつい買い込んでしまったことも、たびたびだった。

しかし、お店の雰囲気に惹かれつつも、そこに通うわたしにはずっと気になっていたことがあった。それはABCの経営の悪化と、従業員の労働環境についてだった。

実はわたしの友人が、長年ABCで働いていた。真面目で責任感のあるこの友人は、会社の内情を軽々しく他人に漏らしたりするような人間ではない。しかし、ちょっとしたことばや動作の端々に、ここ数年のABCの内情がかなりお寒く、そのしわ寄せが従業員に来ていることが感じられた。

もうずっと赤字経営が続いており、絶望的な状態での運営が続いているらしいこと。店舗の人員が極端に減らされ、今年に入ってからは、店を開けておくのに必要な最低の人数の人員ですら、人件費カットで確保できなかったこと??今年になってこの友人は、ほとんど休まずサービス残業とサービス休日出勤で、なんとか担当の店舗を切り盛りしていたらしかった。倒産は時間の問題だったのだ。

「ABC倒産の原因は不動産投資の失敗であり、書店経営自体は順調だった。」

そんなコメントを見聞きするたびに、「あれが本当に順調な書店経営だったのか?」と思った。出版不況で、本はどの書店でもあまり売れない。しかし店舗経営をしている限り、店は開けなければならない。帳尻を黒にするために、店舗運営に必要な最低の人数までも削り、残りの人間の責任感と無償労働に頼って「書店経営自体は順調」と言っていたのだったとしたら、これは違うだろうと思う。

企業としてのABCは、もちろん従業員の利益を第一に、存在しているわけではない。しかし、顧客や取引先の利益を考えるのと同様に、再生ABCにはステークホルダーとしての従業員の利益も考えてほしい。「書店文化に欠くべからざる存在である」 (洋販リリースニュース「青山ブックセンターの再生に参画 (2004.8.2) より」)との自覚があるのだとしたら余計に、だ。従業員は書店文化の重要な担い手なのだから。

トラックバック
「青山ブックセンターが営業再開」 (minicpress*)
「ABCで会いましょう」 (かいじゅうたちのいるところ)



シェイクスピア・イン・押入れ

2004-09-28 23:50:49 | 日記・エッセイ・コラム
家の中がわたしの本があふれかえり、本のせいでだんだん身動きが取れなくなってきた。そろそろ不要な本を処分しようと、押入れの奥の本の山をいじっていたら、Arden版のシェイクスピアの原書が10冊出てきた。大学生だった1980年代前半に、現代英語すらろくに読めもしないのに、(そしてお金もないのに)無理をして買ったやつだ。

当時、英文学科で一番ハードだったのがシェイクスピア・ゼミ。そのゼミに出席するために、机の左手奥に英語の原著、右手奥に翻訳書(大体は新潮文庫か旺文社文庫)、左手前にノート、右手前に辞書で、シェイクスピアの世界を理解しようと、自分でもわけのわからない熱意でがんばった。がんばりすぎて最後には机につっぷして眠ってしまい、気がつくとノートによだれが…ということも、じっさいにはかなりあっのだが。

昔からわたしは、少しでも自由になるお金ができると、本ばかり買っていた。そのせいで「このまま本が増えたら重みで床が抜ける」と、たびたびクレーム出て、そのつどかなりの本を捨ててきた。しかし、やはり自分で必死に読んだものは、その後ほとんど読む機会がないとわかっているものであっても、簡単には捨てられないものだ。シェイクスピアの原書とその訳本は、たびたび処分を逃れてきた。

久しぶりに声に出して『十二夜』 ("Twelfth Night") (わたしの卒論のテーマだった!)の一節を読んでみる。が、当時よりは英語力は高いはずなのに、シェイクスピアの朗読に必要なエロクェンス(eloquence)は、まったく足りない。ガッカシ…。そしてあらためて精進を誓う。

すくなくとも今後数年間は、これら10冊の原著をじっくりと読み返すことは、おそらくは無いのだろう。しかし、この本は、学生時代にわたしが熱中し、自由な時間のほとんどをそそぎこんだものだ。

わたしは、原著と訳本すべてを「捨てないで残しておく本」のほうに分類した。


人生いろいろ

2004-09-27 22:18:06 | 日記・エッセイ・コラム
インターネットが普及したおかげで、一昔前なら音信不通になったり、年賀状のみのやりとりになってしまったであろう元同僚たちとも、相変わらず定期的に連絡を取り合い、そのつど飲み会などを開くことができるようになった。「いまでもこうやってみんなで会えるのは、ネットのおかげだよね。」と、集まるたびにネットの恩恵をかみしめている。

それとは別に、かつて一緒に働いていた人たちの名前を、ネット上で偶然に見つけることがある。自分で起業して会社の社長になっている人もいるし、苦難の道を歩んでいる人もいる。

そんな中での一番の出世頭は、かつて英会話学校で「ネイティブ」として英会話講師をしていた南米の某国の男性だ。一緒に働いているときは「おいおい、これで世の中を渡っていけるのか?」と心配してしまうほどの楽天的なラテン気質や、「ネイティブ」とは偽りありのスペイン語なまりの英語の発音がやたら気になったものだが、今では30代にして母国で政府の輸出振興機関の総裁におさまって、ばりばり活躍しているらしい。(その節は貴殿の潜在能力を正しく評価しかねたことを、伏してお詫び申し上げます。)

が、ごく最近になって、10年ほど前に一緒に働いていたアメリカ人が、外国人モデルを専門としている日本のモデル・エージェンシーのオンラインカタログに載っているのを発見してしまった。シニアの部で、ポーズをとっている。どうやら日本のTVCMやテレビ番組に出演しているらしいのだが、アメリカへ帰っていたのではなかったのか? それに、この方はビジネス畑をずっと歩んでいくのだと思っていたのだが…

人生いろいろだ。いや、わたしだって10年前は、いまのわたしのこの状況を予見できなかったが…



字名(あざな)と屋号

2004-09-26 03:00:00 | 日記・エッセイ・コラム
わたしの住む町(東京都板橋区西台町)には、正式な町名のほかに地区ごとに古くから字名(あざな)がついている。この字名は地図には出てこないので、古くからここに住んでいる人間以外には、わかりにくい名前だ。

もっと昔には、かなり多くの字があったらしいが、現在残っている字名は5つで、門前東(もんぜんひがし)・門前西(もんぜんにし)・京徳(きょうとく)・田畑(たばた)・堀之下(ほりのした)だ。いまでも近くの神社の秋祭りでは、この字ごとに神輿を出していると思う。わたしの住む門前東は別名を谷津(やつ)ともいう。門前とは、この辺にあるお寺の門の前という意味だ。

また、この辺に古くからある家は、屋号を持っている。わたしの母やそれ以上年配の世代の会話には、「桶屋」とか「エンキ屋」とか「先生ん家(ち)」とかいった屋号が出てくるが、わたしの世代にはすでにちんぷんかんぷんだ。この地区には同じ苗字の家が多かったので、こういう屋号を使って、家を区別していたのかもしれないが、なかには屋号の由来があまりわからないものもあるらしい。

わたしの家は「谷津(または門前)のたくわん屋」といっていただければ、この辺の古い住人にはわかる。といっても、もちろんわが家の商売はたくわん作りではない。わたしの祖父の世代までは漬物を作っていて、銀座の料亭などに卸していた。

この土地で生まれ育って43年のわたしですら、町内の屋号がほとんどわからない。ということは、近い将来消えてしまう可能性が高い。字はもう少しは長く続きそうだが、残すつもりであれば積極的に使っていかないと、屋号と同じ運命かもしれない。