巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

シェイクスピア・イン・押入れ

2004-09-28 23:50:49 | 日記・エッセイ・コラム
家の中がわたしの本があふれかえり、本のせいでだんだん身動きが取れなくなってきた。そろそろ不要な本を処分しようと、押入れの奥の本の山をいじっていたら、Arden版のシェイクスピアの原書が10冊出てきた。大学生だった1980年代前半に、現代英語すらろくに読めもしないのに、(そしてお金もないのに)無理をして買ったやつだ。

当時、英文学科で一番ハードだったのがシェイクスピア・ゼミ。そのゼミに出席するために、机の左手奥に英語の原著、右手奥に翻訳書(大体は新潮文庫か旺文社文庫)、左手前にノート、右手前に辞書で、シェイクスピアの世界を理解しようと、自分でもわけのわからない熱意でがんばった。がんばりすぎて最後には机につっぷして眠ってしまい、気がつくとノートによだれが…ということも、じっさいにはかなりあっのだが。

昔からわたしは、少しでも自由になるお金ができると、本ばかり買っていた。そのせいで「このまま本が増えたら重みで床が抜ける」と、たびたびクレーム出て、そのつどかなりの本を捨ててきた。しかし、やはり自分で必死に読んだものは、その後ほとんど読む機会がないとわかっているものであっても、簡単には捨てられないものだ。シェイクスピアの原書とその訳本は、たびたび処分を逃れてきた。

久しぶりに声に出して『十二夜』 ("Twelfth Night") (わたしの卒論のテーマだった!)の一節を読んでみる。が、当時よりは英語力は高いはずなのに、シェイクスピアの朗読に必要なエロクェンス(eloquence)は、まったく足りない。ガッカシ…。そしてあらためて精進を誓う。

すくなくとも今後数年間は、これら10冊の原著をじっくりと読み返すことは、おそらくは無いのだろう。しかし、この本は、学生時代にわたしが熱中し、自由な時間のほとんどをそそぎこんだものだ。

わたしは、原著と訳本すべてを「捨てないで残しておく本」のほうに分類した。