巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

ワープロ専用機とワープロ専用機特有の文書レイアウト

2004-09-06 23:46:43 | 日記・エッセイ・コラム
Wordprocessing

1980年代の中ごろから1990年後半ごろまで、ワープロ専用機がかなり出まわっていた。OASYSとか、書院とか、RUPOとかいう名称だった。皆さんの家の押入れの中にも、そんなヤツが1台ぐらい眠っているかもしれない。

出てきた当初より「パソコンがもっと発達すれば、ワープロ専用機はそのうち廃れるはず」といわれていながらも、1990年代の終わりごろまで新機種が出続けたのは、特に80年代から90年代の初めごろまでは、パソコンとパソコン用ワープロソフトが高価なわりに使えなかったためだ。

当時は、パソコンを買ってプリンタやソフトウェアを別に購入すると、かなりの高額になった。(わたしが最初に買ったパソコンは、1988年に購入したNECの9801VXだが、パソコン用のNECの熱転写プリンタと東海クリエイト(クレオの前身)のワープロソフトであるユーカラアートを一緒に買って、36回ローンを組まなければならなかった。)しかもパソコン用のプリンタは高いわりには、印字の質がそれほどよろしくない。そこで、とりあえず文書を作って打ち出すことに的を絞り、そこそこの印字の熱転写プリンタを内蔵しながら、パソコンよりぐっとお値打ち価格のワープロ専用機に、多くの人が飛びついた。

わたしが最初に買ったワープロ専用機は、東芝のRUPO JW-R70FIIというポータブルの機種で、購入時期は1987年の春だった。当時の個人用ワープロとしては、液晶画面に40字×10行の表示が可能なことのほかに、何とJIS第2水準漢字標準まで標準装備するという「優れもの」だった。(この部分を読んで、笑わないように。)

さて、1980年代の半ばごろからポータブルのワープロ専用機が台頭してくると、多くの家庭にも変化が現れた。家庭で「とりあえずワープロ」の人間が増えたのだ。

ポータブルのワープロ専用機は、それまでの大きな事務用ワープロや、パソコン内のワープロソフトとは異なり、家庭向けの工夫があった。こうしたポータブルワープロは、値段が安く、プリンタ一体型なのに家においても邪魔にならない大きさで、しかも楽しい絵文字がたくさん打ち出せた。

そこで、どうでもいいような文書に、わざわざワープロを使う人が多くなった。たとえば、懸賞ハガキだ。初期のワープロ専用機では、ハガキに印字するのはかなり大変だったはずで、手書きで書いたほうがずっと効率的だったが、わざわざワープロ打ちで送ってくる人が多くなった。それもきれいに印字できず、出力後あちらこちらに修正液を塗りたくっていたものも結構あった。また、B5判1枚相当の親宛の手紙を打つために、休日丸一日をつぶす者もいた。冷蔵庫にマグネットで貼り付ける家族間の連絡メモまで、ワープロで打ち出す家もあった。

これらポータブルワープロは、パソコンはともかく、当時のオフィス用ワープロと比べても操作が簡単で安価だった。こうなると、家庭で使うポータブルワープロが、職場で使われることも多くなった。

職場では、これまでは機械に無縁だった人たちが、ポータブルワープロで文書を作りはじめた。仮名をいれて変換キーを押せば漢字が出てくる??はじめてワープロに触れた者はそんな(今では)当たり前なことがうれしく、そして「右寄せ」「左寄せ」「センタリング」「罫線」などの機能に目を見はり、次に積極的にその機能を使った。ついでに、やらなくてもいい「網掛」や「均等割付」などの機能を使いまくり、絵文字をたくさん散らし、ああでもないこうでもないと、うきうきと楽しげに文書のレイアウトを思案した。

その結果、働き盛りの高給取りのおじさんが、女子社員の冷ややかな視線を浴びつつ、簡単な文書のワープロ処理に午前中いっぱいを費やすなどという、なんとも非効率なことをやっている光景が、日本中のあちらこちらのオフィスで見うけられた。

現在のワープロのソフトは当時とは比べ物にならないぐらい発達した。その間に人々はワープロを使うべき文書と使わない文書を、当時より正確に判断できるようになり、すっきりした文書レイアウトの美と効率性を、前よりも良く理解するようになったようだ。あの当時かなり見られたワープロ専用機で作成した文書に特有のレイアウトは、一時的なワープロ専用機の流行の中に咲いたあだ花として、いまではたまに「町内会のお知らせ」のようなものの中にのみ、見うけられるだけのようだ。

それにしても、なんであんなに装飾過多にして喜んでいたんだか…

[この記事内の画像は、Wordで「ワープロ専用機はこんな風なレイアウトだった」を、再現したものであり、ワープロ専用機で打ち出したものではありません。]