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バルフィ!

2014年09月12日 | 洋画(14年)
 『バルフィ! 人生に唄えば』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)このところインド映画を見ていないなと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主人公は、生まれつきの聾唖者のバルフィランビール・カプール)。



 そのバルフィが、3ヶ月後に結婚式を控えているシュルティイリヤーナー・デクルーズ)に恋をし、シュルティもバルフィを好きになるのですが、やはり親が決めた完璧な婚約者との結婚の方を選んでしまいます。



 その後、バルフィは、資産家の孫娘で自閉症のジルミルプリヤンカー・チョープラー)とひょんなことで一緒にインド中を旅することになり、6年後にシュルティが住む街に舞い戻ってきます。



 ですが、その街でバルフィは、突然警察に逮捕されてしまうのです。それを見たシュルティは、昔の思いにとらわれて夫が止めるのも聞かずに警察署に向かいます。
 果たしてバルフィの身はどうなるのでしょうか、シュルティは、そしてジルミルは、………?

 本作はインド映画で、いつものようにまずまずの長尺(151分)で、登場人物が歌うシーンもそこそこ挿入されているとはいえ(注2)、ボリウッド映画特有のダンスシーンは殆ど見られず、主人公と二人の女性との恋愛物語が実に美しく巧みに描かれていて、長さを感じさせない優れた作品ではないかと思いました。

(2)本作では対になって描かれるものが多いように感じました。

 まずは何と言っても、バルフィイが恋するシュルティとジルミルの二人の女性。
 この場合、バルフィが能動的に恋に陷いるのはシュルティであり、ジルミルの方はいわば受動的に恋するようになった感じです。
 というのも、シュルティは婚約中であり、バルフィを愛しながらもどうしても引き気味になり、そこをバルフィの方で能動的に前に踏み込もうとするからですし(注3)、ジルミルについては、追い返してもどこまでもバルフィの後を追いかけてきてしまい、そのうちにバルフィもジルミルのことをなくてはならない人と思うようになるわけです。
 外見的にも、一方のシュルティを演じる26歳のイリヤーナー・デクルーズは、そのままで際立った美しさに目を引かれますが、他方のプリヤンカー・チョープラーについては、20歳位(注4)で発達障害者でもあるジルミルに巧みに扮しているために、映画を見た時は、まさか既に32歳で、2000年のミス・ワールドに選出されたことがある女優だなどとは思いもよりませんでした!

 次に男性陣では、バルフィには地元警察のダッタ警部(サウラブ・シュクラー)が対峙します。
 いろいろな理由からバルフィはジルミル誘拐の犯人とされ、地元警察署のダッタ警部から厳しい取り調べを受けたり、バルフィが警察署を逃亡すると執拗に追跡して来たりするのです(注5)。

 さらに言えば、本作には2つの都市が出てきます。
 すなわち、インドの西ベンガル州の州都コルカタ(昔はカルカッタと言われてました)と、ダージリン地方の中心都市のダージリン。
 この2つの都市はいずれもインド西部にあるとはいえ、随分と性格が違うようです。
 一方のコルカタは、ガンジス川の支流の東岸の平野にあるインド第3の巨大商業都市ですし、他方のダージリンは、コルカタのずっと北方の平均標高が2000mを越えるヒマラヤの高地に位置し、人口が10万人ほどの中都市で、以前は避暑地として栄えた消費都市です。
 本作では、バルフィとシュルティとはダージリンで出会い、またバルフィはジルミルのことを知ってもいました(注6)。
 そして、シュルティは結婚するとコルカタに移りますが、バルフィとジルミルも6年後にコルカタに舞い戻ってきてシュルティと出会うのです(注7)。

(3)本作は、全体として優れた出来栄えの作品と思いますが、問題点がないわけでもないと思います。

 まず挙げられるのは、本作には過去の名作の引用と思われるシーンがかなりたくさん盛り込まれている点です。
 本作の公式サイトの「Introduction」では、「本作は、『雨に唄えば』などの古き良き時代のハリウッドミュージカルや、『きみに読む物語』、『アメリ』、『Mrビーン』、『黒猫白猫』、『プロジェクトA』、『菊次郎の夏』などの世界各国の名作映画へのオマージュに溢れた、大きな映画愛に満ちた作品」だとされています。
 IMDbで「Barfi!」を調べてみても、「Connections」のコーナーで「Charlie Chaplin's City Lights」など5つが取り上げられています。
 こうした引用は、確かに「オマージュ」と言えば聞こえはいいものの、例えば北野武監督の『菊次郎の夏』を真似たシーン(注8)やバルフィが靴を投げ上げるシーン(注9)などは、オマージュというよりパクリといった方がいいような気もします〔と言って、オマージュとパクリの違いがどこにあるのかは難しいところです(注10)〕。

 また、後半になるとバルフィとジルミルの話が俄然増えてしまい、シュルティが画面に暫くの間全く登場しないのです。
 バルフィが主人公ですから、彼がかかわらないコルカタにおけるシュルティの暮らしぶりなどを描き出さないのも当然とはいえ、そうは言ってもシュルティがバルフィを忘れられないことがモノローグだけで済まされるのでは(注11)、いかにも弱い感じがします。

 さらに言えば、手話のことがあるかもしれません。
 バルフィくらいの若者でしたら、手話の取得はそう難しいことではないものと思われます。にもかかわらず、本作では、バルフィが手話を使ってコミュニケーションを取っているシーンは殆ど見当たらないように思います(注12)。
 ただ逆に、本作においてバルフィがかなり手話を使えることとすると、他人とのコミュニケーションがかなりの程度可能となりますから、あえて喋れないという設定をとることの意味が薄れてしまうでしょうが。

(4)渡まち子氏は、「ハンディを持ちながら明るく生きる青年が主人公の人生讃歌「バルフィ! 人生に唄えば」。名作映画へのオマージュがいっぱいで映画好きなら胸が熱くなる」として65点をつけています。
 暉峻創三氏は、「昨年ヒットした「きっと、うまくいく」を伝統的インド娯楽映画の極北とするなら、本作は新時代インド娯楽映画の可能性を極致まで切り開いた傑作だ」と述べています。



(注1)本作の監督はアヌラーグ・バス

(注2)何しろ、映画の冒頭では、一方でクレジットが流れますが、他方で映画鑑賞の際の注意事項が唄で歌われるのですから!

(注3)バルフィは、シュルティの両親に会って彼女との結婚を申し込みますが、うまく伝えられず、また彼女の方も、親の決めた結婚を受け入れてしまい、結局バルフィは諦めざるを得ません。

(注4)ジルミルは、父親が博打好きで母親が大酒飲みのため、6歳から施設〔「ムスカーン(ほほえみの家)」にいる女性がそう語ります〕に15年間預けられていました(ほほえみの家のダジューが、ジルミルの両親に向かって「私は15年間ジルミルを見たが、お前たちは15日間でこの有り様か!」と怒鳴ります)。

(注5)尤も、ダッタ警部は、アリバイのあるバルフィをジルミル誘拐事件の真犯人に仕立てあげようとする上司に反対したために、出世コースからはずれてしまいます。

(注6)というのも、バルフィの父親は、ダージリン一の資産家であるチャタルジー家の運転手であり、ジルミルはその家の孫娘でしたから。おそらくシュルティも、ダージリンの家柄の良い家の娘でしょう。

(注7)コルカタからダージリンに行くには、Wikipediaによれば、コルカタから夜行列車でシリグリに向かい、同市のニュー・ジャルパグリ駅で下車し「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」に乗り換える方法があるようです。
 ちなみに、この鉄道は「ダージリン・トイ・トレイン」とも呼ばれ、世界遺産に登録され、また本作の中でも大活躍します。

(注8)このサイトの記事には、元の作品の動画(部分)が掲載されています。

(注9)このサイトの記事で知ったのですが、北野武監督の『あの夏、一番静かな海』に随分と類似するシーンがあります(この動画の13分のところ)。
 本作において非常に重要なシーン(それも複数回映し出されます)が他の監督の作品からの引用というのでは、やや引けてしまうところです。

(注10)古典の中の古典として定着しているチャップリンの映画などからの引用であれば、観客の方も「オマージュ」だと感じるのかもしれませんが、例えば2004年の『きみに読む物語』(原題「The Notebook」)ともなると気がつく観客の数は相当減ってしまうのではないでしょうか(少なくとも、クマネズミは見ておりません)。
〔補注 その後DVDで『きみに読む物語』を見ましたが、本作との類似点は2,3にとどまらないように思いました。それも、重要なラストの死の場面などそっくりそのままであり、到底オマージュと言えるシーンではないように思いました〕

(注11)シュルティは、「夫と一緒にいても、心は沈黙していた」とか「完璧な夫婦は、愛が不足していた」、「私は、心に従う勇気がありませんでした」などと語りはするのですが。

(注12)ちなみに、シュルティは、夫と別れた後、「手話の教室で教えるソーシャルワーカー」となっていたようです(このサイトの記事によります)。



★★★★☆☆



象のロケット:バルフィ! 人生に唄えば