映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

トスカーナの贋作

2011年03月12日 | 洋画(11年)
 『トスカーナの贋作』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)この映画は、初めのうち美術品の贋作を巡るお話と思わせておきながら、どうやらそれにとどまらず、もっと幅広い視点から「贋作」を捉えていることが次第に分かってきます。
 冒頭は、イギリスの作家ジェームズウィリアム・シメム:オペラのテノール歌手とのこと)が、トスカーナ地方の町で、自分の贋作に関する著書『Copia Conforme』(注1)について講演する場面です。講演者の机には、立派に装丁された本が展示されています。ですが、そんな本など出版されてはいないのですから、それ自体が「贋作」でしょう!



 次いで、その講演会に顔を出したフランス人の「彼女」(ジュリエッタ・ビノシェ)が、ジェームズを連れ出して小さな町の美術館に入りますが、そこには女神ポリムニヤを描いた絵画が展示されています。「トスカーナのモナ・リザ」と言われているこの絵画は、映画の中では、贋作であることがわかったのちも美術館で展示されていると説明されています。もしかしたら、この話自体が作りものかもしれません。
 それに、その絵を巡って、「ダ・ヴィンチのモナ・リザの絵でさえ、モデルのジョコンダ夫人の複製だ」などといった発言がとびだします。そんなことを言い出したら、何でも複製になってしまい、収拾がつかなくなってしまうでしょう!いうまでもないことながら、たとえば、ウィリアム・シメムが演じるジェームズ自体、フィクションですから本物ではあり得ません!
 さらに、フィレンツェのシニョリーア広場に置かれているミケランジェロ作のダビデ像は複製であることが、話の中に出てきます(本物は、アカデミア美術館に置かれています)。

 そして、その辺りから映画の展開が非常に錯綜してきます。
 ジェームズは、その像の前に佇んでいた親子を見たのが、自分が本を書いた動機だ、などと話すのですが、「彼女」の方は、それを聞いて「他人の話ではない」などと言い出し、次第次第に二人は旧知の間柄、まるで夫婦であるかのような会話をフランス語でし始めます。
 アレッ、ジェームズは英語しか話せないはずでは、変だな、と思っていたら、なんとフランス語でどんどん「彼女」と口論までするのです。ここでは偽物の夫婦が登場したような、オカシナ感じが漂ってきます。
 さあこの事態をどう解釈すべきなのでしょうか?

 評論家の粉川哲夫氏は、「映画の「解説」のなかには、「彼女」がジェイムズのファンで、「彼女」がこの機会に彼に接近し、この映画が描く奇妙な「ラブ・ストーリー」が展開するかのような解釈をしているものがる。また、ふたりは、夫婦でありながら、他人同士を装い、ある種のゲームを披露するというふうに解釈したものもある」が、「わたしの解釈では、ジェイムズと「彼女」とは、15年来の愛人関係にあり、たまたまこの映画は、二人があたかも見知らぬ者同士であるかのように「ゲーム」をするのだと思う。その出逢いは、ジェイムズがイギリスに、「彼女」がイタリアにいるという形で長いあいだ引き離されたのちの再会でもいいし、もっとひんぱんに会っているという設定でもいい」と述べています。

 そうか!ここには解釈の余地がたくさんあるのだな、それだったら自分は自分なりの解釈をしてみてもかまわないな、それがどんなに変なものであっても、何か解釈を提起すればこの映画のゲームに参加することになるのかもしれない、などと思えてきます。

 そこで、誠に不束ながら、クマネズミの解釈を申し上げればこうです。
 レストランで、ジェームズは、「彼女」に対して、「5年前のあの時に、あなたは時速100kmで車を運転しながら、居眠りしていたな、なんでそんな時に居眠りをしたのだ、子供を乗せていながら」などと言い募ります。
 もしかしたら、その時、ジェームズの妻であった「彼女」は、交通事故を引き起こして、息子とともに亡くなってしまったのではないでしょうか?
 ジェームズの講演会場に現れた「彼女」と息子は、亡霊なのではないでしょうか(いきなり現れたかと思うと、「彼女」は最前列の席に座り、息子の方は、会場のあちこちを傍若無人に動き回ったりします)?亡霊の「彼女」に連れられて、フィレンツェ郊外の小さな町へ行ったりして、様々の口論をしますが、それは昔やったことがある口論の繰り返しなのであって、教会の鐘が激しく打ち鳴らされると、亡霊は消え去って、ジェームズは予定通り夕方9時の列車で帰国の途につくのではないでしょうか?
 この解釈も、おかしい点はいくつもあるでしょう。ジェームズがフランス語が出来ないのであれば、なぜ亡霊の「彼女」とはフランス語で話すのか、といったことなどです。
 でもかまいません。自分なりの解釈である程度の話の辻褄が合えば、それで十分だと思いますから(なにより、題名からすれば、紛い物のレビューであっても許されるでしょうし)。

 この映画の主演女優であるジュリエット・ビノシュについては、最近では、『PARIS パリ』とか『夏時間の庭』(昨年11月20日の記事で若干触れています)を見ましたが、実にチャーミングで知的で、前作の『夏時間の庭』に引き続いて本作も美術を巡る物語だというのは、興味深いことだなと思いました。



(2)贋作に関しては、昨年11月24日のこのブログの記事「ゴッホについて若干のこと」で触れましたように、愛知県立芸術大学教授の小林英樹氏は、その著『ゴッホの復活』(情報センター出版局〔2007年〕)において、東京にあるゴッホ作『ひまわり』は贋作であると強く主張しています。
 なにしろ、1987年に安田火災海上保険が2,475万ポンド(当時の為替レートで約58億円)が贋作だというのですから只事ではありません。
 尤も、同書によれば、「外国の有力新聞紙上や研究家などから、何回か贋作の疑惑が発せられ、所蔵者側は防戦一方の感があった」とのこと(P.219)。
 ところが、その後「ファン・ゴッホ美術館の主任学芸員」であるティルボルフ氏の判断に加えて、カナダ・トロント大学教授オフシャロフ氏の論文(1998年)と、シカゴ美術館の研究発表(使われている麻布に関するもの)とによって、贋作疑惑は「あっけなく覆され」、「真贋論争はようやく決着がついたかのように見えた」ようです(P.221)。
 ですが、同教授は、東京にある『ひまわり』を「以前も、いまも、本物でないと確信している。いかなる発表があった時も、核心が揺らいだことはなかった」と述べ(P.230)、たとえば次のようにその論拠を明らかにしています。
・その『ひまわり』には、「当時のゴッホのどの作品にも見られない理性の抑制を失った激情的な水平方向のタッチの集積」がみられる(P.241)。
・その『ひまわり』では、「花瓶は玉葱のように丸く、見るからに不安定である」(P.244)。
等々。
 小林教授は、この『ひまわり』ばかりか、ワシントンナショナルギャラリーにある『自画像』なども贋作としていて、その研究対象が今後どのような広がりを見せていくのか、興味深いところです。

 さて、ここまでくると、映画の冒頭で映し出される偽書『Copia Conforme』のことが思い起こされるでしょう。そんな本など実在しないのに、堂々と講演援者の机の上に展示されているのですから(ただ、外側だけで中身がありませんから、実際には「本」とはいえないかもしれませんが)!
 そして、偽書と言えば、たとえばHP『古樹紀之房間』に掲載されている宝賀寿男氏の論考「『武功夜話』の真偽性」が大変興味深い内容となっていて、そこからも歴史研究の方に引き寄せられます。

(3)この映画を制作したキアロスタミ監督の作品については、上記HP『古樹紀之房間』に掲載されている「地震について」が、少しは参考になるかも知れません(注2)。
 そこで取り扱われている作品(注3)と今回の映画とを比べてみると、あるいは、それらの作品に映し出されている光景が、あたかも本当の地震直後のドキュメンタリー映像の如くでありながら、実際は、それらの作品のために後からしつらえたものであるという点、すなわち本物と偽物が分かちがたくなっている点に、あるいは関連性が求められるのかもしれません。

(4)朝日新聞記者・石飛徳樹氏は、2月25日朝日新聞夕刊に掲載された映画評において、「美術の真贋で始まったはずが、いつしか男と女の真贋についての考察になっている。キアロスタミの術中にはまるのは実に心地よい」などと述べています。


(注1)ジェームズが書いた原著をイタリア語翻訳したもの。映画の原題は、さらにそれをフランス語にして「Copie Conforme」。

(注2)丁度、ニュージーランドの地震があったばかりのことでもありますし。
 なお、甚大な被害を被ったクライストチャーチについては、興味深いことに同じHPの「多様な目線と視点」(1999年に作成されたエッセイ)でも触れられています。

(注3)三部作とされている『友だちのうちはどこ?』(1987年)と『そして人生はつづく』(1992年)、それに『オリーブの林をぬけて』(1994年)。






★★★★☆





象のロケット:トスカーナの贋作