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理系・文系(下)

2009年10月12日 | 
4.『文系?理系?』
 としたところ、最近、志村史夫著『文系?理系?』(ちくまプリマー新書120、2009.10)という中高生向きの新書が出版され、ナントその中でも「地球温暖化問題」(注1)が取り上げられているではありませんか!



 著者は、「大気中に占めるCO2の割合は、水蒸気の100分の1ほどの0.035%です。このようにわずかなCO2の増加が「地球温暖化」の主因になり得るのでしょうか。私は、さまざまな科学的見地からも歴史的事実からも、断じてあり得ないと思います」(P.147)と述べます。

 著者は、「マスコミの報道を鵜呑みにし、マスコミに振り回されることなく、ものごとを科学的に考える習慣をつけることも、さまざまな勉強の大切な目的の一つ」だとして、このように主張します(P.149)。
 要すれば、ワケの分からない人たちがマスコミを通じていい加減なことを主張しているが、「理系」の志村氏のように「科学的に考え」れば、その主張に問題があることがたちどころに理解出来るのであって、やっぱり「理系」的なものの考え方が必要だ、ということでしょう。

 でも、元々の「地球温暖化」の議論は、マスコミが言い出しっ屁ではなく、いわゆる「理系」の人たちが持ち出してきたはずでしょう?そして、上記の塩谷氏のような「理系」の人たちが、マスコミを通じてソレを増幅し早いとこ抜本的な対策を取らなければと声高に叫んでいるのではないのでは?その挙げ句が、「理系」の鳩山総理による「温室効果ガス25%削減宣言」でしょう!

 こういった動きに対して、同じ「理系」の志村氏(静岡理工科大学教授)が強く批判し、「ものごとを科学的に考える習慣をつけること」が重要だと主張しても、それを読む中高生たちは「科学的に考える」とはいったい何だということで一層混乱してしまうのではないでしょうか?

 むろん、志村氏は、「科学的態度」とは「きちんと筋道立てて考える」ことだと最初の方で述べていますから(P.32)、ここでもそういった幅広い意味合いで使っているのであれば、あるいは受け入れることもできましょう。

 ですがこの本は、全体として、「数学や物理などの理科系科目(特に数学)が嫌いな人、苦手な人」(P.12)である「文科系の人」に対して、それらが「好きな(嫌いではない)人、得意な(不得意でない)人」(P.11)である「理科系の人」に属する筆者が、中高生に対して、理科系的なものの見方は重要だし面白いよ、と主張しているのです(注2)。
 さらには、「「文科系の人」と「理科系の人」の〝筋道〟に違いがあ」って、前者の「基盤は〝個別的〟、〝地域的〟になる傾向があ」るが、後者の「基盤は、その理屈を考える自然科学から導かれる宇宙規模で普遍的な自然の摂理」であり(P.30~P.31)、特に、「数学」(なかでも微分・積分)は「筋道を立てて考えることを教えてくれる、またその訓練をしてくれる最たるもの」だそうです(P.177)。

 ここまでくれば、上記の「科学的態度」とは、やはり「数学が得意な人」のものの考え方だということになるでしょう。となると、「地球温暖化問題」を巡る論争は、同じ「理科系の人」の間での話ということになり、私のような「文科系の人」としては、「筋道」に違いがあるわけですから、この問題に対してどのような態度を取ったらいいのか、途方に暮れてしまいます。

(注1)「上」では「気候変動問題」としていましたが、「下」では一般によく使われる「地球温暖化問題」といたします。
(注2)本書では、「これから求められるのは「文芸理融合」型人間」だとか、「「理科系の人」には「文科系の素養」を大いに高めてただかなくてはなりません」などと述べられているものの、P.50以降本書の末尾までの全体の4分の3は、理科系科目に属するトピックしか取り上げられていません!
   

5.『理系バカと文系バカ』
 実は、冒頭で触れた小飼弾氏のブログでは、『日経サイエンス』に掲載された塩谷氏のエッセイに言及しているだけでなく、4月24日の記事においては、竹内薫著『理系バカと文系バカ』(PHP新書586、2009.3)が紹介されています(注1)。



 そして、この本でも「地球温暖化」の問題が取り上げられているのです!それも、なぜか上記の志村氏と同じように、著者の竹内氏も、「現在の地球温暖化問題については2つの疑問がある」として、「実際にCO2の濃度が上がっているのか」という点と、「それは人間のせいなのか」という点を挙げています(P.190)(注2)。
 その上で、こうした疑問を検討することによって「理系センス」が磨かれるとしています。

 ですが、そもそも「地球温暖化」を巡る議論は、「理系センス」を持った専門家たちが持ち出してきたわけですから、非専門家がこの問題に首を突っ込んでその乏しいセンスを磨いたとしても、行き届いた理解が出来るようになれるとはトテモ思えないところです。

 なお、本書は、科学・技術の分野で直ちに取り組まなければならない問題をいくつか取り上げていて、その点は高く評価できると思います(注3)。
 ですが、それだけを述べたのでは、いくら内容が良くとも一般人の興味を惹かないでしょう。そこで、「理系バカ・文系バカ」といったドギツイ言葉をちりばめながら面白オカシク話が進められています。
 ただそうなると、本書が「科学的根拠はいっさいない」(P.38)と批判する「血液型性格分類」とか、国民性や県民性を巡る議論といったものと同じ穴の狢になってしまうのではないでしょうか(注4)?

(注1)著者の竹内氏は、前者の疑問については「温暖化が進めば50年後ぐらいには平均気温はこうなる。温暖化が起きると台風などが増え、勢力も大きくなる」などといった、気候学者の説明を掲げ、後者の疑問については、人間も関係しているが、宇宙的な環境も関係している」とする地球物理学者や宇宙物理学者の説明を挙げています。
(注2)節の末尾に、「いずれにせよ、「環境問題」について、地に足のついた議論をするためには、理系的思考と文系的思考の両方が求められるだろう」と述べてありますが、とすると「理系センスを磨く」という話はどこへいってしまうのでしょうか?
 なお、「理系センス」を取り扱っている第4章には、「間主観性とは?」という節があって、「「物理学」には「間主観性」という考え方がある」と述べられているところ、「間主観性」といったら、一般的にはむしろドイツの現象学哲学のフッサールを想起すべきではないでしょうか?
(注3)著者が本書で特に言いたいのは、第3章で述べている点ではないかと思われます。
 すなわち、著者は、科学系論文数の伸び率の低下(P.137)、物理学専攻の学生数の激減(P.138)、技術者不足(P.143)、進学するにつれて理科離れ(「算数・数学離れ」も)が増えていくこと(P.145)、科学雑誌(科学書も)の売行きの悪さ(P.153)、といった日本特有の現象をいくつも指摘します。
 その上で、著者のような「サイエンスライター」とか「科学コミュニケーター」の「人材育成と格上げ」が「科学を社会に普及させるためには必要不可欠だ」と主張し(P.162)、さらには、「教育現場の雰囲気」にも問題があり、特に日本の奨学金制度の貧困さ加減についても指摘がなされています(P.174)。
 本書で指摘されている様々な問題点はまさにその通りだと考えられ、早いところ何らかの手を打たないと事態は大変なことになると思われます。その意味で、なにはともあれ、こうした本がベストセラーになったことは慶賀すべきと思います。
(注4)面白オカシイ話の方に興味が集中してしまい、上記注3で取り上げたような著者の言いたいことは二の次になってしまう恐れがないとは言えません。
現に、小飼氏は、「本書の主張も、本blogの主張とほとんど変わらない」とし、「「理系文系」問題というのは、実は適性の問題ではなく、教育コストの問題という結論に達する。そして日本は、理系教育コストが高く、そしてそれを当 然のこととして受け止めているふしがある。科学雑誌はなぜこんなバカ高なのだろう?なぜ奨学金制度がこれほどしょぼいのだろう?文理の分離は、実は格差の固定の一環なのである」と述べていて、本書を自分の「理系・文系」の議論の中に取り込んでしまっています(でも、「しょぼい」奨学金制度は、何も「理系」に限った話ではないのでは?)。

6.おわりに
 「地球温暖化問題」は、専門家・非専門家がそれぞれ自分の得意とするアプローチで誠実に議論すれば(注1)、そのうちに解決の糸口が見えてくることでしょう。むしろ、理系・文系の話を持ち出すことによって、議論はヨリ混迷してしまうのではないかと思えます。

 ここでは「地球温暖化問題」に焦点をあててしまったために、専ら「理系」にかかわる議論になってしまいましたが(注2)、何はともあれ理系・文系にかかわる話は、総じてティー・タイムの話題にとどめておくべきではないでしょうか?

(注1)社会学者の宮台真司・首都大学東京教授の『日本の難点』(幻冬舎新書122、2009.4)の第5章「日本をどうするのか」では、次のように述べられています。
「最近「環境問題のウソ」を暴く本や言説がブームです。僕は爆笑します。「温暖化の主原因が二酸化炭素であるかどうか」は指して重要ではないからです。なぜなら、環境問題は政治問題だからです。そうである以上、「環境問題のウソ」を暴く本が今頃出てくるのでは、15年遅すぎるのです」(P.225)。
 要すれば、池田氏のように塩谷氏に噛みついたり、また志村氏や竹内氏のように、今頃になって「理系の人」の「筋道」に立ったり、「理系センス」を磨いたりして「地球温暖化の主因はCO2」との説に異を唱えても、それは最早時期遅れであって、「「負け犬が、今頃になって何を言っているんだ」というのが、欧州各国の日本政府や経済界に対する冷ややかな見方」であって、「そうした見方が完全に支配的である以上、日本の主張が国際政治を動かす可能性はありません」ということになるでしょう(P.230)。
 となると、9月24日の鳩山総理による国連演説(温室効果ガス25%削減宣言)についてはどう考えるべきなのでしょう?
 さすが「理系」の総理のことだけはあると絶賛すべきでしょうか(ニューズウィーク誌に掲載された米国在住の冷泉氏によれば「88点B+」とのことですが)?
 それとも、池田信夫氏のように、「物理的に不可能な目標を掲げ、「大和魂さえあれば何とかなる」と国民を鼓舞するのは、前の戦争に日本が突っ込んでいった時を思わせる」と嘆くべきでしょうか?
(注2)僅かな実例から一般論を引き出すのは危険なことながら、「理系・文系」の議論を持ち出すのは、どうやら「理系」の人が専らではないかと思われます。もしかしたら、塩谷氏が言うように、実力があるにもかかわらず「権力の座には遠かった」、とする事情が反映しているのでしょうか?


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1 コメント

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馬が良いか鹿が良いのか (やっぱり馬好き)
2009-10-20 22:36:42
  竹内薫著『理系バカと文系バカ』というのを一冊読んでみました。
  全体が五章あるうち、最初の二章はある意味でありきたりですが、第三章の半ばくらいからなかなか面白く、ある意味で当たり前であっても、日頃の思考・行動に警鐘を鳴らしてくれる意味で、私には拾い物という感じでした。
 日本の総理には、高学歴の理系出身者がいないという記事もあり、たしかに水産学を少し学んだ鈴木善幸や中央工学院出の田中角栄では、理系といえるほどのことはなく、お話しになりません。今度、初めて理系の鳩山由起夫氏が総理になりましたが、環境関係で早速、炭酸ガス排出量規制で、向こう見ずの発言をしており、この辺には危惧されます。竹内氏は、「環境問題に関する二つの疑問」(190頁)という記事の中で、「環境ビジネスの中でも、特に問題があると思うのは「CO2=二酸化炭素排出権取引」。これはEU諸国が、自分たちが儲かるルールを作っているからだ。それに乗せられている日本は大丈夫なのだろうか」という指摘をしています。この結論の是非はともかく、多角度的な視野と複眼的な見方が、判断の前提として必要だと感じます。
  大学で何を学んだから、それがすべてに影響があるわけではないはずです。実のところ、自然科学にせよ、人文科学にせよ、科学の一部門ということでは同じですから、論理的合理的なはずし、結論に至るには、多角度的な検討と総合的な展望、バランス感覚が必要なものだと思われるからです。

  問題を歴史研究の分野に限っていえば、最近は理科系の学問を学んだ方々がかなり入ってきて、いろいろ発言がされます。新しい刺激と思考方法が歴史研究にもたらされるのは、ありがたいことで、その辺は大歓迎です。ところが、問題がないわけでもありません。自らが学ばれた論理と知識だけを押す反面、検討対象たる分野の基本的な知識と総合的体系的なチェック、バランス感覚が欠けているように感じるものです。
  どうも理系の方々は、文系の学問やそれを学んだ人に対して、なんらかの優越感をもっているのではないかというようにも感じます。その反映なのでしょうか、歴史学などの文系分野の累積してきた学問の成果を無視する議論を平気で行うのは、辟易します。戦後の歴史学界で過剰に風靡してきた考古学者にあっても、総じて、思考方法は理系の学問を学んだ方々と同じように感じる面があります。どうして、「物」だけ見て、「人」やその行動の現れたる祭祀・地名・伝承などの要素を無視しがちなのでしょうか(これは、客観的な見方ではありません)。構築物を含めて「物」が勝手に組成するわけではありません。「人」が作ったという要素が無視されすぎているように感じます。そして、人々の行動には、かなりの個別性・主観性があります。信長のようなケタ外れの人物が現れて歴史が作られていくのです。
  二酸化炭素や年輪などで年代が端的に測定できるというのは、対象が「人」や「物」ですらありません。火山と多湿多雨に激しい地域差がある日本列島の自然の特殊条件をあまりにも無視しすぎています。新しい科学技術を使って、大自然を対象とした新しいアプローチの結果、これまでの学問が営々と積み上げてきたものを革命的につき崩すからといって、それがすべて合理的なのでしょうか。理系的な結論を導き出すための「条件の無理な均質化」は、人間による多くの様々な行動・事件の累積である歴史とは矛盾するものではないでしょうか。

  そういえば、最近、津堂城山古墳の発掘調査が始まったとの新聞記事をみました。この巨大古墳は、皇室系譜のなかの重要性、古墳の年代的な位置づけや白鳥埴輪などの出土物等々、様々な事情で、被葬者を倭建命とみることが十分成り立つはずのものですが、戦後の津田史学とその亜流学者は、論理性に欠ける議論を自覚しないまま、倭建命を非実在の人物として切り捨てましたから、おそらく被葬者は永遠に謎のままとなります。こうした不自然な、かつ徹底性を欠く否定論は、論理的に根っ子から破綻をしていると思うのですが、どうして考古学者の学究はその辺に気がつかないのでしょうか。文献無視は、判断する手がかりの一つを自ら放擲するものです。そうしたものを欠いた結論が、正しく導かれるのは無理な話です。 
  最近の『週刊文春』誌(平成21年10月22日号)では、同誌に珍しく、箸墓などの歴史年代に関する記事があります。炭素14年代測定法や年輪年代法などをもとに、トンデモナイ年代値を鼓吹しまくる歴博(国立歴史民俗博物館)の姿勢は、東アジア全体の総合的な歴史の流れを無視するもので、奇妙なものですから、多少正確さを欠いていたとしても、一般人に分かり易く記事が書かれるのとはよいことだと思われます。最近のマスコミ報道は、関西派考古学者の考古年代観をもとに一方的な記事を書きまくっていますので、これが真実だと一般人なら思い込みそうですから、反対記事があっても良い時期です。卑弥呼の墓に限らず、歴史的事象は考古学だけの視点で決められるものではありません。複合的な視点、多元的な視点が欠けた単純思考が、科学的なはずがありません。
  なお、安本美典氏の年代観は、年代の引下げ過ぎだと判断しています。安本氏のほうは少し引き下げすぎであり、歴博や関西派考古学者のほうは極めて大幅な引き上げですから、この辺は足して2で割ればよいという状態ではありません。批判が正しくとも、その批判者の説く結論が正しいわけではありません。

  文系でも理系でもかまいませんが、両方の立場からアプローチして総合的体系的合理的な結論が歴史分野でも得られないのでしょうか。総合的な止揚(aufheben、アウフヘーベン)が必要だと思われます。だから、理系とか文系とかという視点に拘りすぎて、客観性・合理性を欠く議論は「バカ」といわれますから、馬鹿にならない「馬」にとどまる程度のほうがよいと感じます。
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