孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

「サラエボ事件」から100年 「民族の英雄」と「テロリスト」のあいだで埋まらぬ溝

2014-06-29 22:17:24 | 欧州情勢

(銃撃の瞬間を描いたイラスト。車上のフェルディナント大公と妻ゾフィーに銃口を向ける暗殺犯でセルビア人国家主義者のガヴリロ・プリンツィプ。【6月29日 The Huffington Post】)

【「この式典は、何百万もの死を越え私たちがどう行動していけるかを問うている」】
第1次世界大戦は日本ではあまり強いイメージはありませんが、戦場となった欧州では膨大な犠牲者を出し国土は荒廃しました。

また、機関銃や航空機、戦車、更には毒ガスといった新兵器の登場で、戦争の在り方がそれまでとは大きく変化した戦いでした。
更に、この戦争で生じた傷と憎しみが、次の第2次世界大戦を導くことにもなりました。

****第1次世界大戦【ウィキペディア****
古い戦争の思想のもとに始められた第一次世界大戦は、機関銃や航空機、戦車をはじめとする新しい大量殺りく兵器の出現や、戦線の全世界への拡大により、開戦当時には予想もしなかった未曾有の犠牲をもってようやく終了した。

戦線が拡大し、長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、セルビア37万人、アメリカ13万人に及んだ。

またこの戦争によって、当時流行していたスペインかぜが船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。

帰還兵の中には、塹壕戦の長期化で一瞬で手足や命を奪われる恐怖に晒され続けた結果、「シェルショック」(後のPTSDと呼ばれる症状)にかかる者もいた。

これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの賠償金によって取り戻すことが通例だったが、参戦国の殆どが国力を出し尽くした第一次世界大戦による損害は、もはや敗戦国への賠償金程度でどうにかなる規模を遥かに超えてしまっていた。

しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎み、戦勝国は敗戦国に報復的で過酷な条件を突きつけることとなった。
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その第一次世界大戦の引き金となったオーストリア皇太子暗殺事件から28日で100年になるのを機に、EUは26日、当時の激戦地ベルギー北西部イーペルで首脳会議を開き、平和を祈念しました。

****第一次世界大戦100年:激戦地イーペルでEU首脳黙とう****
・・・・(EU)首脳らは当時の大英帝国戦没兵の名前が刻まれた門「メニン・ゲート」で黙とう。EUの公式24言語で「平和」の言葉が刻まれた「平和のベンチ」を設置し、和解と連帯の重要性を強調した。

ファンロンパウ欧州理事会常任議長(EU大統領)は「この式典は、何百万もの死を越え私たちがどう行動していけるかを問うている」と述べた。

(ベルギー北西部)イーペルの戦いでは60万人以上が犠牲になった。史上初めてドイツ軍が本格的な毒ガス攻撃を行った場所としても有名で、周辺には約150の戦没者墓地がある。メニン・ゲートは、大英帝国(現英連邦)戦没者墓地委員会が1927年に建立、5万4896人の名を刻む。

連合軍兵士はこの門付近を起点に戦場へ向かった。門にはオーストラリアやインド、カナダなどからの出征兵士の名前も多く、世界中から子孫が訪れる。(中略)

郊外にはドイツ兵の墓地もある。身元不明の遺体は一つの墓石の下に合同で埋葬されている。「不明の4人」。そう刻まれた墓石の前でひとりのお年寄りがじっと黙とうをささげていた。【6月27日 毎日】
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毒ガス兵器を開発したハーバー博士の話
話が少し横道にそれますが、イーペルの戦いでドイツ軍が初めて使用した毒ガスである塩素ガスを兵器として開発したのがドイツで「化学兵器の父」と呼ばれる化学者フリッツ・ハーバー博士。
アンモニア合成法の開発者として、化学の教科書で目にする名前です。

****第一次大戦100年:世界はいま 続く毒ガスの悲劇 最初の舞台はベルギー****
・・・・この塩素ガスを兵器として開発したのが、ドイツで「化学兵器の父」と呼ばれる化学者フリッツ・ハーバー博士だ。

「科学は、平時は人類のため、戦時は祖国のため。それが愛国者だった彼のモットーでした。開発に成功した時、ドイツ国内ではほとんど反対の声はなく、彼はまさに英雄だったのです」。ハーバーに詳しいハイデルベルク大学のエルンスト・ペーター・フィッシャー教授(67)=科学史=はそう話す。

同じ化学者だった妻クララは毒ガス使用に反対したが、夫は聞く耳を持たない。絶望したクララは15年5月、幼子を残したまま拳銃自殺してしまう。

それでもハーバーは研究を続け、その後再婚。18年にはアンモニア合成法の業績が認められ、ノーベル化学賞も受賞した。

だが、ナチスが政権を握ると、ハーバーの人生は暗転する。彼はユダヤ系だった。ドイツを愛し、ユダヤ教からキリスト教に改宗までしたが、ナチスのユダヤ人迫害政策の影響で33年に研究機関を追われる。家族と共に英国などに逃げ、34年にスイスで病死した。

世界はその後も、化学兵器を使い続けた。ベトナム戦争、地下鉄サリン事件、そしてシリア内戦と、第一次世界大戦開戦から100年たった今もその脅威は衰えない。

追放の身となったハーバーは死の直前、息子に遺言を残した。「クララと一緒の墓に埋めてほしい」。二人は今、スイス・バーゼルの墓に眠っている。【6月28日 毎日】
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ハーバー博士も歴史の荒波に翻弄されたひとりのようですが、最後になって「クララと一緒の墓に埋めてほしい」というのは虫がよすぎるような感じもします。絶望して自殺した奥さんはどのように思うのでしょうか?

熟年離婚も普通のことなった現代からすると、「それでいいのか?」という感もある結末です。
連れ添った妻なら許してくれる・・・というのは身勝手な男の思い込みでしょう。

閑話休題

【「テロリスト」と「英雄」 歴史認識の溝
1914年6月28日、当時のボスニアを領有していたオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇太子が暗殺され、第1次世界大戦が勃発するきっかけとなったボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでも記念のコンサートなどが開催されましたが、欧州各国首脳の訪問もなく、国家主催の行事もありませんでした。

そこには、今も民族対立に苦しむボスニア・ヘルツェゴビナの現状があります。

****サラエボ事件、遠い和解 「テロリスト」「英雄」…政治が利用 欧州、消えぬ戦火の影****
・・・・サラエボでは28日、平和構築をテーマにしたパネル展が暗殺現場からも近い遊歩道で始まった。同夜には、オーストリアからウィーン・フィルを招いた記念コンサートが開かれる。

だが、首都を舞台とした国家主導の行事は開かれなかった。欧州連合(EU)各国の首脳らのサラエボ訪問もなかった。

一方、内戦をひきずってボスニア国内を二分する「準国家」の一つであるセルビア人共和国の側は、民族主義をアピールする機会としてこの日を設定。同共和国のビシェグラードで、暗殺実行犯のセルビア人青年をたたえる式典を開き、セルビアのブチッチ首相やセルビア人共和国のドディック大統領らが出席した。

首都サラエボで国家レベルの行事が開けなかった背景には、サラエボ事件の位置づけをめぐり、ボスニア内部や近隣旧ユーゴスラビア諸国間にある歴史認識の溝が作用している。

セルビア人側の指導層は、オーストリアによる支配からの解放をめざした実行犯の青年を英雄視する。この日の式典でも「彼が放ったのは自由への一撃だ」(ドディック大統領)と位置づけた。

一方、旧ユーゴ内のほかの民族勢力の間では「テロリスト」との見方が大勢。そうした説に対してセルビア人側は、大戦の開戦責任を自分たちに押しつけるものだ、と反発してきた。

ボスニアは国家の中に「セルビア人共和国」と、それ以外の主要民族であるボシュニャク人、クロアチア人で構成する別の政治体制が並立し、互いに牽制(けんせい)しあう状態が続いてきた。

このいびつな状態が最大の障害となり、事件についての統一した見解もまとめられずにいる。現地が和解を描けない以上、EU首脳らの訪問も不可能だった。

歴史の政治利用が続く中、歩み寄りの模索もある。サラエボではこの日まで、セルビアも含め欧米各国の学者らが出席し、サラエボ事件を学際的にとらえなおす国際会議が開かれた。ノビサド大(セルビア)から参加したボリス・クルシェフ教授は「事件をめぐり、全く異なる解釈ばかりが強調される現状は、歴史の事実とは関係ない政治の反映だ」と語った。【6月29日 朝日】
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ボスニア・ヘルツェゴビナは対立するセルビア人国家とボシュニャク人、クロアチア人の国家が併存するような特殊な状況にありますが、その首都サラエボで開かれたウィーン・フィルを招いた記念コンサートには、オーストリアのフィッシャー大統領は出席しましたが、セルビアのニコリッチ大統領は参加を拒否しました。

上記記事にあるように、「サラエボ事件」に対する評価はセルビア人とその他では全く異なります。

****第一次大戦100年:ボスニア首都で式典 民族間の溝深く****
・・・サラエボ市の式典会場は、ボスニア内戦(92〜95年)の初めにセルビア人武装勢力の砲撃で焼け落ち、今年5月に再建された国立図書館。
皇太子夫妻が暗殺直前に立ち寄った場所で、オーストリアのフィッシャー大統領も出席し和解をアピールする。

だが、セルビア側は「セルビア人犯罪者の手で焼け落ちた」と銘板に書かれたことなどに反発し、記念式典に応じない構えだ。

100年後の(皇太子暗殺犯)プリンツィプへの評価は、民族間のしこりを象徴する。
セルビア人の多くはプリンツィプを「民族自決に若き身をささげた聖人」(カフェ経営のミロスラブさん)などと「英雄」視するが、ボスニア人やクロアチア人は「暗殺者」と冷ややかだ。

現地の報道によると、サラエボのセルビア人居住区では27日、プリンツィプをたたえる銅像の除幕式が開かれた。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは8カ月ごとの輪番制で、ボスニア人とクロアチア人、セルビア人の代表が国家元首を務めるが、出席したセルビア人代表のラドマノビッチ氏は「自由のための100年前の行動は、今後我々が進むべき100年の方向を示している」と事件を正当化した。【6月29日 毎日】
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歴史認識の違いを克服し、共存の未来につなげるには・・・
歴史認識の呪縛から解き放たれて互いの和解を進めるということが難しいのは、日本でも痛感するところです。

初代韓国統監を務めた伊藤博文を1909年10月26日に満州ハルビン駅構内で襲撃して殺害した安重根に対する韓国と日本の評価も、ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるプリンツィプへの評価と重なります。

****民族主義の矛盾、今も サラエボ事件から100年 ヨーロッパ総局長・梅原季哉****
「20世紀が始まった街角」。

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで100年前、オーストリア皇太子夫妻の命を奪い、第1次世界大戦へとつながった2発の銃声が響いた「ラテン橋」のたもと。現場跡に建てられた博物館は、その看板を掲げる。

ハプスブルクのオーストリア・ハンガリー、オスマン・トルコ、帝政ロシア……。第1次大戦をきっかけに、中東からアジアまで含めて当時の世界を牛耳った多くの帝国が崩壊した。欧州ではその領域に、民族自決を旨とする新たな国民国家がいくつも生まれた。

しかし、その際に残された矛盾は、現代につながる相克の原因となった。
第1次大戦後、民族自決権を与えられず独立を認められなかったウクライナがその一例だ。1990年代、ソ連が崩壊してやっと独立を果たしたが、今もなお、ロシアの影響圏にとどまるのか、欧州寄りにかじを切るのか、両者のはざまで苦しみ続けている。

ボスニア自体も、まさに第1次大戦開戦時からの矛盾を引きずる。

暗殺犯の青年プリンツィプが銃弾に託した「南スラブ」の民族自決という理想を引き継いだユーゴスラビアという国家は、まず王国として、ボスニアも含む形で発足したが、第2次大戦によって分裂。この地は、複数の民族主義勢力による残虐行為を経験した。

戦後は共産党の独裁者チトーが率いる連邦国家として再びユーゴの旗を掲げたが、結局は冷戦終了とともに崩壊。連邦を構成した共和国の中で、多民族共生の好例だったはずのボスニアは、泥沼の内戦に陥った。

ユーゴ王国の統治下や共産主義の時代には、プリンツィプは「英雄」として描かれてきた。ユーゴを担う最大の民族だったセルビア人の間では、今も彼の行為をたたえる気風が強い。

一方、オーストリア・ハンガリー帝国の植民地統治がボスニアの近代化に一定の役割を果たしたと評価する派からみれば、彼は「テロリスト」とされる。

相反する二つの像が存在したまま、事件100年を迎えた。20世紀をめぐる歴史認識の溝に足を取られ、前に進めない姿は、東アジアの現状とも通じる。

民族主義によって立つ国家は、国家創造の歴史をめぐる「神話」に依存しがちだ。だが、その民族主義は、和解を妨げる「怪物」ともなりかねない。

歴史認識の違いを克服し、共存の未来につなげられるのか。戦争の世紀を終えた人類の英知が問われている。(サラエボにて)【6月29日 朝日】
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「民族の英雄」と「テロリスト」の間を埋めるのは難しいことですが、まずは、立場が異なれば全く異なる評価がなされるのはごく普通の自然な話だと冷静に対応し、いたずらに相手の異なる評価に感情的にならない・・・そういうあたりから和解に向けた最初の1歩が始まるのでしょう。

「事件をめぐり、全く異なる解釈ばかりが強調される現状は、歴史の事実とは関係ない政治の反映だ」(ボリス・クルシェフ教授)

更に、日本について言えば、朝鮮支配・中国進出をどのように総括するのかという話にもなりますが、自国の歴史を批判的に評価することがためらわれるような現在の風潮には、再び「サラエボ事件」を生むような怖いものを感じます。

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