孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

カンボジア  特別法廷の公判が始まる ポル・ポト政権幹部は<革命>をどう認識していたのか?

2009-02-25 20:56:04 | 世相

(トゥールスレンに展示されている処刑された人々の写真から この女性は当時の外務副大臣の妻であったチャン・キム・スルン 
ひざに乳飲み子をかかえています。背筋を伸ばし正面を見つめるその姿は、自らとわが子に襲い掛かる不条理のなかで、絶望を見つめているかのように思えます。
写真を眺めてしばらくして、女性の目元を伝うものがあるのに気づきました。
涙でしょうか。)

【収容所長から難民救援へ】
先週、カンボジアでようやくポル・ポト政権幹部を裁く特別法廷の公判がはじまりました。
(ポル・ポト自身は98年4月、権力を失いジャングルの中で死亡しています。)
国連とカンボジア政府が2006年に共同設置した特別法廷は、国内法手続きにこだわるカンボジア人判事と国際法廷を基準とする外国人判事との調整が難航、資金難も加わり、当初予定から1年7か月も開廷が遅れました。
(その背景には、自分自身がかつてはクメール・ルージュに身をおいていたフン・セン首相が、古傷を暴くことにもなる裁判について、特にその国際的基準での運営について、あまり熱心ではないのではとも勘ぐられます。)

****ポル・ポト裁判 初公判 政権崩壊30年 大量虐殺を解明****
1970年代後半、カンボジアのポル・ポト政権(当時)が約170万人を虐殺や餓死に追いやった事件の真相究明と、その責任を問う特別法廷が17日、プノンペン郊外の同法廷で政権崩壊から30年をへて初めて開かれた。
初公判には当時「S21」と呼ばれたトゥールスレン政治犯収容所で、子供や外国人を含む約1万5000人を処刑するなどしたとして殺人罪や人道に反する罪などで起訴された元所長、カン・ケ・イウ被告(66)が出廷。被告は水色のシャツ姿で被告側の席に座り、硬い表情で前を見つめた。被告への質問の予定はなく、裁判官が冒頭で、被告が問われる罪や、遺族らも尋問などで審理に参加する法廷の仕組みなどを説明した。

被告の弁護人は「すでに被告の拘束期間が9年9カ月と7日を経過した。カンボジアの法律では3年以上の拘束は認められていない。直ちに釈放すべきだ」と主張したが、裁判官はこれを認めなかった。罪状認否などの本格審理は3月の次回公判以降となる見通しだ。特別法廷はほかにポル・ポト元首相と並ぶ最高幹部、ヌオン・チア元人民代表会議議長(82)やキュー・サムファン元国家幹部会議長(77)、イエン・サリ元副首相(83)と妻のイエン・チリト元社会問題相(76)の4人を逮捕しているが、起訴には至っていない。【2月17日 産経】
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トゥールスレン政治犯収容所のカン・ケ・イウ被告は通称ドッチの名前のほうがよく知られています。
学校の成績は抜群で勉強熱心な少年だったそうですが、高校の数学教師になってから共産主義に傾倒していったようです。
少年衛兵を使って、拷問によって1万5000人を超える人々を死へ追いやったドッチですが、ポル・ポト政権が崩壊した79年1月からはその行方がわからなくなっていました。
99年にその存在が確認されたとき、ドッチはタイ国境近い森の中で、国連やアメリカの民間救援組織のバックアップを受け、難民救援活動に従事していました。
96年にはカトリックの洗礼を受けたとか。

ドッチは、ポル・ポト政権幹部になかで唯一自分の罪を認めている人物です。
公判がドッチから始まったのは、そういう事情もあってのことでしょう。
発見された彼は、「私の罪は、あおのころ神ではなく共産主義に仕えたことだった。殺戮の過去を大変後悔している。」「裁判で死刑にされてもかまわない。私の魂はイエスのものだから。」と語ったそうです。
【「ポル・ポト<革命>史」(山田寛著)より】
なお、特別法廷には死刑がなく、同被告には終身刑が言い渡されるとみられています。

法廷では、検察側が、トゥールスレン収容所が解放された直後、収容所の内部が撮影された記録フィルムの証拠品提出を申請しました。
提出されたビデオには、元高校校舎の廃棄された収容所で、ベッドの鉄枠に縛りつけられたまま膨れ上がった死体が複数映されるなど、恐怖の光景が記録されているそうです。
これに対し、被告弁護人は、証拠品がベトナム側のプロパガンダ映画である可能性が高いとして異議を唱えています。【2月18日 AFP】

昨年の正月にプノンペンのトゥールスレン収容所を訪れ、鉄枠のベッドも実際に目にしましたが、床に残るしみが血のあとのように思えた記憶があります。
(カンボジア2008 ①狂気の記憶(前編)・・・トゥール・スレン
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10209621/)

【「なぜ善人がこんな罪で非難されるのか分からない。」】
今回「人道上の罪」「戦争犯罪」「拷問」「計画的殺人罪」で起訴されているドッチですが、政権中枢にいた幹部ではありません。
政権中枢からの指示を冷酷・忠実に、元数学教師らしい律儀さで実行した立場にあります。
一体ポル・ポト政権がどういう考えであの<革命>と称する虐殺を行ったのか・・・その謎の解明には、まさに政権中枢にいた他の4名の幹部の公判が待たれます。

そのひとり、イエン・サリ元副首相の妻で、社会問題相だったイエン・チリトについての記事がはいっています。

****旧ポル・ポト政権の「ファーストレディー」、特別法廷で悪態****
1970年代にカンボジアで大虐殺を行ったポル・ポト政権の元幹部を裁くカンボジア特別法廷で24日、イエン・サリ元副首相の妻で、ポル・ポト派の「ファーストレディー」の異名をとるイエン・チリト元社会問題相(76)の保釈請求に対する審理が行われた。

イエン・チリト被告は検察側に対し「呪われて地獄に落ちるがいい」と悪態をつくなど、法廷内で延々と怒りと非難を口にした。同被告は1975-79年の独裁政権下で犯した戦争犯罪や「人道に対する罪」などで起訴されている。
被告は公判の冒頭では「わたしはあまりに弱っている」ため、身柄拘束に対する不服申し立ては弁護人が自分の代わりに行うと述べた。
しかし、被告が社会問題相を務めていた時期に起こったトゥールスレン収容所の大量虐殺について、被告が知っていたのではないかと検察側が言及した場面で逆上し、15分間にわたって「わたしを人殺しなどと非難すれば、おまえが地獄に落ちるだろう」などの発言を止めなかった。被告は「なぜ善人がこんな罪で非難されるのか分からない。わたしは非常に苦しんできた。誤った非難を受け続け、これ以上我慢ならない」とも述べた。
自らの罪の否定には衰えをまったく見せなかったイエン・チリト被告だが、高齢のため健康状態が懸念されている。
検察側は、被告の身柄の安全確保と公共秩序の維持、また逃亡防止などの観点から、同被告の身柄拘束の必要性を主張している。裁判所は後日、公判開始までの保釈に関する決定を言い渡す。【2月24日 AFP】
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“底辺の人民による革命”を唱えたポル・ポト政権幹部には、上流階級・ブルジョワ出身、当時の最高学府シソワット高校卒業、フランス留学、高校教師の経験という共通特徴、一言で言えばエリート出身という特徴があります。
ポル・ポトの妻となった姉のイエン・ポナリー(死亡)と妹のイエン・チリト姉妹は、このすべての特徴にあてはまり、シアヌークも子供時代の彼女等を知っているという王家とも近い上流階級の出です。

ポル・ポト夫妻、イエン・サリ夫妻の4名は“四人組”とも称され、権力の文字通り中枢を形成していました。
フン・セン首相はかつて、「私はポル・ポトとも生活したことがあり、彼等をよく知っている。ポル・ポト夫妻、イエン・サリ夫妻の四人組が真の実力者だった。二人の妻はキュー・サムファンなどよりよほど力があった。チリト夫人の夫への影響力はすこぶる大きく、サリやサムファンが出す文書の多くが、実は彼女によって書かれていた・・・」と述べています。【「ポル・ポト<革命>史」(山田寛著)より】

一方、イエン・チリトは政権崩壊後の会見で、自身が76年半ばに行った北西部地域視察について、「めちゃめちゃでした。老人・妊婦・赤ん坊に授乳している婦人・小さな子供は田畑で働かないようにというのが首相の指令だったのに、誰もがひどく暑い日光の中で、水田で働いていた。下痢やマラリアで苦しんでいる病人がいっぱいだった。そこで、私は北西部地域の幹部達は意図的に党の命令に背いているという報告書を書きましたよ。スパイが私たちの間に入り込んだのです。」と語っています。

自分たちの行っていた<革命>について、その実態について、どのような認識を持っていたのでしょうか?


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