孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

中国・天安門事件から30年 問われる国家の資質  当事者が語る30年前の実情、今の思い

2019-06-04 22:21:22 | 中国

(まだ“お祭り気分”のような雰囲気も漂う1989年5月中旬の抗議デモ【5月31日 WSJ】

 

【ポンペオ国務長官 中国共産党を「異論を認めず、利益のためなら人権を侵害する」などと批判 中国も応戦】

ここ数日の国際面を賑わせている話題となると、やはり30年が経過した中国・天安門事件に関するもの。

一昨日も取り上げたばかりですが、その後も興味深い記事もいくつか目にしていますので、それらを紹介する形で。

 

天安門事件を振り返る報道や中国側の警戒態勢は、この時期の例年のことではありますが、今年いつになく関心が集中している感があるのは、やはり「30年」という節目にあたること、それと、激しさを増す米中対立のなかで、アメリカ側が中国非難のカードとして使っていることがあるでしょう。

 

そのことは、「米中対立」は単なる貿易戦争ではなく、将来的な両国の覇権争いがその本質になりますが、世界をリードする立場を狙う国家としての中国にとって、天安門事件に象徴される人権弾圧、一党支配、情報隠蔽、歴史改ざんという問題が、指導的立場に立つ国家としての資質を問う形で改めて問題とされているとも言えます。

 

****人権改善の希望失う=天安門30年で中国批判―米国務長官****

ポンペオ米国務長官は3日、中国の民主化運動が武力弾圧された天安門事件から4日で30年になるのに合わせて声明を発表し、中国の人権状況が改善していないと強く非難した。

 

その上で「中国が国際システムに統合されることで、より開放的で寛容な社会になると期待したが、その希望は打ち砕かれた」と語った。

 

ポンペオ氏は、天安門事件の実際の死者数も「依然判明していない」とし、中国政府に対し、事件の犠牲者や行方不明者に関する完全な説明を求めた。さらに、人権や基本的自由を求めて拘束されたすべての人々を解放するよう要求した。【6月4日 時事】

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ポンペオ国務長官は中国の天安門事件への対応をもって、中国共産党を「異論を認めず、利益のためなら人権を侵害する」などと批判。また、新疆ウイグル自治区でイスラム教徒の少数民族が拘束されていることにも触れ、「中国の1党体制は異論を認めず、その利益のためならいつでも人権を侵害する」と痛烈に批判しています。【6月4日 日テレNEWS24より】

 

(歴史を消そうとする習近平国家主席 Illustration: Julia Kuo【6月3日 WSJ】)

 

これに対し、中国側も「驕り」「見下している」と激しく反論

 

****天安門事件に米は「偏見とおごり」、中国がポンペオ氏発言を非難****

中国政府は4日、マイク・ポンペオ米国務長官が天安門事件について「偏見とおごり」からくる声明を発表して中国の体制を傷つけ、内政に関して中傷したと非難した。(中略)

 

在米中国大使館の報道官は声明で「中国国民を見下し、虐げようとすれば歴史上の灰の山となるだけだ」と反論した。 【6月4日 AFP】

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また、30年前の対応を正当化する発言・報道も。

 

****中国紙、天安門事件での政府の対応を擁護「政治的混乱への免疫力与えた」****

中国の国営紙「環球時報」は3日、中国の民主化運動を当局が武力弾圧した天安門事件から今月4日で30年を迎えるにあたり、当時の政府の対応を擁護し、事件は中国に政治的な混乱に対する「免疫力」を与えたとの見解を示した。同国で天安門事件に関する論説が発表されるのは非常にはまれ。(中略)

 

中国共産党の機関紙、人民日報の傘下にある環球時報は英語版で、「6月4日は政治的混乱に対する免疫力を中国に与えた」と題した論説を掲載。政府によるこの「出来事」への対応を称賛し、「天安門での出来事は、中国社会のためにワクチンとして将来、どんな政治的動揺にも中国が対処できる免疫力を大幅に増大させる」と主張した。

 

これに先立ち、魏鳳和(ウェイ・フォンホー)国務委員兼国防相は2日、シンガポールで開催されたアジア安全保障会議で、天安門事件での流血を伴った弾圧について「正しい政策」だったと擁護。環球時報による今回の論説は、この発言に同調するものとなった。 【6月3日 AFP】

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【長期戦になりそうな様相の米中対立】

こうした国家体制の本質を問う激しい応酬を見ていると、米中対立はG20での何らかの手打ちといった形ではなく、長期戦になりそうに思えます。(もっとも変わり身の早いトランプ大統領の対応はわかりませんが)

 

****ついに「長征」を宣言した習近平氏、米国との持久戦を覚悟****

1934年、国民党軍と戦っていた中国共産党軍10万人は拠点としていた江西省瑞金の地を放棄し、壮絶な行軍を始めた。約2年の歳月をかけ1万2500kmを移動して陝西省延安にたどり着いた時、残っていたのはわずか2万人とも3万人とも言われている。この長期にわたる行軍の中で、毛沢東は共産党における指導権を確立した。

 

中国近現代史におけるハイライトの1つ、「長征」と呼ばれる出来事である。無残な敗退戦だったとの見方もあるが、中国では長征を歴史的偉業と位置づけている。形勢不利の中でも持久戦に切り替えて耐え忍んだことが反転攻勢のきっかけとなったことは間違いなく、この出来事は中国共産党のDNAに深く刻まれた。

 

5月20日、長征の出発地を訪れた習近平国家主席は「今こそ新たな長征に出なければならない」と国民に呼びかけた。米中貿易交渉は行き詰まり、対立が激化している。米国との争いの短期決着は諦め、持久戦に持ち込むとの宣言とも取れる。(中略)

 

このままの展開が続けば、待ち受けるのは経済や技術のブロック化だ。問題はそれが中長期的に必ずしも米国にとって有利に働くとは限らない点にある。

 

次世代通信技術では中国は世界最先端の地位を確立した。国家規模でのビッグデータやAI(人工知能)活用においても、プライバシーなどの壁をクリアしなければならない民主主義国家に比べて中国が有利だ。弱点である半導体などの技術分野も急ピッチで追い上げている。中国がブロック経済圏を確立してしまえば、技術的にも経済的にも米国の影響力はむしろ失われる。

 

一方の中国にも弱みはある。今日6月4日は1989年に起きた天安門事件からちょうど30年に当たる。民主化を訴える学生への武力行使は、中国共産党にとっては消し去りたい記憶だ。

 

節目を迎える中で、海外メディアによる天安門事件についての記事が目立つ。肝心の中国国内における民主化運動は下火だが、それも経済的な豊かさがあってこそ。天安門事件以降、中国共産党は経済成長を以前にも増して追求し、国民に豊かさを享受させることで、一党独裁体制の安定を図った。

 

民主化への動きが下火になっている現状は、そのもくろみが現段階ではうまくいっているということだろう。ただし今後、貿易戦争による経済の混乱が拡大し、長期化すれば、現在の政治体制への不満が噴出しかねない。それは中国政府にとって最も避けたい展開だろう。

 

激しさを増す米中の貿易戦争。「新長征」を呼びかけた習国家主席はこれを共産党の存続をかけた戦いと位置づけたのかもしれない。

 

だとすれば、両国の争いが容易に収まることは考えづらい。日本経済への影響もさらに大きなものになりそうだ。【6月4日 広岡 延隆氏 日経ビジネス】

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長期戦の影響については、中国経済はそうした長期戦には耐えられないだろうと、アメリカ有利を指摘する声もあります。

 

いずれにしても、対中国強硬論は、ひとりトランプ大統領の考えではなく、また、与党・共和党だけもなく、野党・民主党を含めたアメリカ政治の総意ともなっていますので、トランプ大統領が貿易上の「ディール」で幕引きを図ろうとしても(以前は、そうしたシナリオで動くのではと私は思っていましたが)、アメリカ国内がそれを許さないという面も強まっています。

 

なお、中国との対立関係にあり、総統選挙も控えた台湾の蔡英文総統も4日、30年前の天安門事件を巡って、中国は民主活動家への弾圧についての真実を隠蔽し続けていると強く非難。【6月4日 ロイターより】

 

一方、国連のドゥジャリク事務総長報道官は3日の定例記者会見で、発生から30年の中国の天安門事件に関するグテレス事務総長のコメントを求める記者の質問に対し「特にコメントはない」と回答とのこと。【6月4日 共同より】 まあ、立場上、そうでしょう。

 

【地方都市の「天安門事件」】

30年前、北京以外の様子についてどういう報道がなされていたか記憶にありませんが、抗議行動は中国各地に広がっていたようです。そうした事態も、危機感を持った中国指導部が強硬な対応をとった背景でもあるでしょう。

 

****地方都市の「天安門事件」、30年前に起きた中国各地の抗議デモ****

天安門事件が中国を揺るがした30年前の春、米国出身の人類学者、カール・ハッタラーさんは1989年6月、宿泊するホテルの屋上で、中国警察が広場に向けて催涙ガスを発射し、夜陰に紛れて警棒を振りかざす治安部隊が展開する様子を見つめていた。

 

ハッタラーさんは首都・北京の天安門広場近くにいたのではなく、そこから1800キロ以上離れた同国南西部の都市、成都の現場に居合わせたのだった。(中略)

 

ハッタラーさんの証言は、中国全土で当時、大規模なデモが発生していたことを思い起こさせるものだ。(中略)

 

中国共産党内部の会議や報告を扱った漏出文書をまとめた書籍「The Tiananmen Papers」によると、1989年5月末までに、中国各地100都市以上で抗議デモが起きていた。

 

1989年当時、同国中部の湖南省にある医科大学で英語を教えていたアンドレア・ウォーデンさんは、大規模な抗議運動を目撃。「それは全国規模の大衆運動だった。人々による運動だった。皆が少なくとも、さらなる自由と権利への欲求を共有していた」と述べた。

 

しかし、中国当局が組織的に歴史を抹消・改ざんし、それに疑問を抱く人々を処罰する中、地方部での抗議活動に関する話は、北京以外では外国メディアの存在を欠いていたこともあり、その多くが失われてしまった。

 

ウォーデンさんは、「こうした話が完全に途絶えてしまうのも時間の問題だ」と語る。

 

■北京との連帯示した抗議

1989年4〜6月に、北西部の甘粛省蘭州から南部の広東省にかけて、市民たちは言論の自由を要求し、汚職に対して抗議するデモを行った。経済面での不安や私生活への政府の干渉、民主主義への願いに駆り立てられた一方で、多くの場合は天安門広場で起きていた出来事に呼応したものだった。

 

湖南省の省都・長沙では5月17日、ウォーデンさんの推定で少なくとも2万人の学生がデモを実施。「北京でのハンガーストライキを支持」と書かれたポスターが掲げられていたという。(中略)

 

漏出した米国の外交公電、中国共産党の内部告発者や、目撃者からの情報を集めた、ルイーザ・リム氏の天安門事件に関する著書「The People's Republic of Amnesia」によると、成都での推定死者数は10〜300人とばらつきがある。

 

先の「The Tiananmen Papers」によると、100人超の学生が頭部を負傷して病院に搬送された他、警察が電気棒を使用して多くの人を殴打したという。

 

ハッタラーさん自身の経験と友人からのまた聞きの情報をまとめたメモによれば、1989年6日10日、治安部隊は「警棒やナイフ」を使い、デモ参加者が「動かなくなるまで」手を休めなかったという。さらに、「地面で横になった人々や、慈悲を請う人々さえ、棒で殴られた」とも記されている。(後略)【6月2日 AFP】AFPBB News

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【「あの春の天安門広場はお祭りだった」】

天安門広場での抗議行動は、多くの抗議行動がそうであるように、多くの参加者の意識としては、最初はそれほど深刻なものでもなかったようです。

 

****権力側にいた大学生「天安門警備は『野球』だった」****

日本列島がバブル景気に沸いていた1989年4月。中華人民共和国では学生たちが「変革の夢」を胸に、天安門広場へと集まっていた。およそ2カ月後、世界を震撼させる大弾圧の舞台になるとも知らずに――。

 

双方を理解できる稀有な存在

魏陽樹(仮名) 事件当時19歳、某警察系大学学生、取材当時44歳、投資会社幹部(中略)

「あの春の天安門広場はお祭りだったなあ。大学の授業は休みばかり。友達みんなと、太陽の下でご飯を食べてタバコを吸っておしゃべりをして、テントやバスのなかで寝る。今と比べて娯楽が少ない時代に、考えられないほど刺激的だった。とくに18歳や19歳の学生だとね、とにかくそのことが面白くて来ていた連中が全体の5割・・・。いや、8割だったかもしれない。僕自身もそうだったんだ」

 

遠い目をして当時の広場内部の状況を語るのは、私が北京滞在中に会った魏陽樹(ウェイヤンシュー)である。

 

(中略)「デモ隊の主張への共感は・・・。当時はそりゃあ、明らかにあったね。党幹部の息子みたいな特権階級じゃなくても、公平なチャンスがもらえる社会が来たらいいよなあと思っていた。広場で熱く語る別の大学の先輩や友達がすごくカッコよく見えて、演説に『なるほど』って頷いていた。リーダーの柴玲(ツアイリン)の演説も自分の耳で聞いた。本当に感動したこともあったんだ」

 

とはいえ、魏の立場はちょっと複雑でもあった。(中略)

彼の母校は、天安門広場から約20キロほど郊外にあった。警察官僚を養成する大学のひとつだったのである。もとは一般の大学が1980年代前半に警官養成用の大学に変えられた経緯を持ち、校風は「お上」の教育施設としてはかなり自由だった。だが、一応は公安部の下部機関であった。

 

天安門の警備は「野球」だった

1989年4月、学生のデモ隊が天安門広場を占拠した。魏陽樹の大学では他校のように学校単位でのデモ隊は組織されなかったが、彼を含む同級生たちは個人的な立場として、この「お祭り」に大挙して参加した。だがやがて、大学からはこんな指示を受けた。

 

「同級生たち数百人と一緒に、制服を着せられて警備に出ろという指示を受けたんだ。5月4日にアジア開発銀行理事会総会が北京で開かれたときと、5月15日からソ連のゴルバチョフ書記長が訪中したときだった」

 

(中略)もっとも、魏陽樹にとってデモ警備の体験は、個人の立場で占拠学生の側にいたときと同じく「面白い」出来事でしかなかった。

 

運動はこの5月中旬の時点まではとくに悲壮感や切迫感がなく、とりわけ下っ端の学生たちは、まだまだお祭りムードを漂わせていた。軍人や中央党校の教員が個人的にデモ隊に加わる例も多くあり、党中央はさておくとしても、末端の治安関係者とデモ隊との関係はそれほど対立的なものではなかったのだ。

 

「たとえるなら、野球だよね。まずは攻撃側、同年代の学生チームがワーッとこっちを押すので、僕らはスクラム組んで守る。今度は僕らのチームがワーッと押すので、学生チームが守る。で、『おお、勝った勝った。やったぜ』みたいな」

 

そもそも当時までの中国において、学生運動は(公然と党体制の打倒を主張しない限り)タブーではなかった。大学進学率が数パーセントにとどまった1980年代、大学生はこれから社会を率いていくエリート予備軍だ。未来を担うインテリ青年たちが国を変えるために声を上げる行為を好ましいとみなす風潮は、官民ともに存在していた。

 

天安門の学生デモに対しても、5月中旬までは当局側の態度はまだまだ穏健で、学生側にも共産党や政府への信頼が残っていた。警備側との押し合いへし合いも殺気立ったものにはならなかった。

自分はなぜ権力の側にいるんだろう、みたいな難しいことは何も意識しなかったし、警察大学の学生としての役目が嫌だとも思わなかったな。むしろ運動会みたいで、非日常的な場にいることを同級生たちと一緒に面白がっていた。きっと学生側もそうだったと思う」

 

現場のレベルでは、党の長老や保守派の怒りなど知るよしもない。「野球」の攻撃側も守備側も、彼らの考えはやはり気楽なものであった。

 

タマゴがつくなんて最高だ!

ゴルバチョフの警備から数日後、魏陽樹と同級生たちは新たな任務を与えられる。私が資料を確認する限り、おそらく5月18日の話だろう。

 

「学生のハンスト抗議がはじまって、水も飲まないって姿勢になった。でも、人込みで救急車が入れない状態だった。天安門広場の隣に公安部があるんだけど、学生の代表がそこに来て交通整理を依頼したんだ」(中略)

 

「公安部の建物のなかの、玄関から入って右側の場所に、映画館みたいな場所があってね。われわれはそこで寝泊まりして、ごはんを食べた。食事はおかゆとマントウと、タマゴひとつ。たまに野菜が出た。当時は貧しい時代だし、僕も若かったからこれを粗末な食事だとは思わなくて、腹いっぱいになるから嬉しかったな。糧票(リヤンピヤオ=食料配給切符。事実上、食料購入専用の通貨だった)なしでタダ飯が食べられる。しかもタマゴがつくなんて最高だ! って」

 

魏は相変わらずだった。もっとも、さすがに公安部から寝食を提供される身の上について多少は意識するようになりはじめた。

 

「個人として広場にいたときはいろいろ話していた連中でも、このときはデモについての政治的な討論は誰もやらなかったね。広場で他の学校に通う友達を見たとか、あいつはデモ中に彼女ができたらしいとか、面白いことになったなあとか、そんな話ばかりをしていた」

 

魏自身を含めて、デモ隊にシンパシーを抱く警察学校生も少なからずおり、誰も運動を積極的に止めたいとは考えていない。一方で現場が混乱しないように秩序を維持するのも大事だし、上からそう言われた以上は命令に服することにも違和感はない。いずれにせよ、暴力を伴った運動の鎮圧を命じられたわけではないのだから――。当時の魏たちの考えはそんなものだったようだ。

 

いっぽう、まだまだ事態を甘く見ていた末端の学生たちの知らない場所で、政治は風雲急を告げていた。この18日の朝、鄧小平(とうしょうへい)ら8人の党長老は改革派を除く政府首脳を集めて会議を開き、北京市内での戒厳令の発令を決定。やがて来たる決定的な破局に向けて、最初のスイッチが押された瞬間だった。(後編に続く)【6月3日 安田 峰俊氏 JB Press】

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その後の悲惨な展開は多くの報道が示すところです。

 

【天安門事件のときにみんなが本当に欲しかったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現された】

上記記事の魏陽樹氏(仮名)は以下のようにも。

 

「最近、北京で同年代の友達と、みんなでおしゃべりをする機会があった。弁護士だとか社長だとか、全員がいまの社会でそれなりに成功している人だ。でね、もしも天安門が成功していたら――。共産党政権がなくなっていたら中国は大丈夫だっただろうかって話になったんだ」

 

「結論としては『大丈夫だった』と自信を持って言う人間は誰もいないって話になった。日本でも例があるでしょ? 試しに民主党に政権を任せてみたら、国がグジャグジャになったじゃないか。中国の場合はもっとひどいことになるんだ。仮に当時の学生が天下を取っていたら、別の独裁政権ができただけだろうと思う」

 

「中国は変わったということなのさ。天安門事件のときにみんなが本当に欲しかったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されてしまった。他にどこの国のどの政権が、たった25年間でこれだけの発展を導けると思う? だから、いまの中国では決して学生運動なんか起きない。それが僕の答えだ」【6月4日 安田 峰俊氏 JB Press】

 

この話は、一昨日ブログの「パンか自由か」という話になります。

 

 

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