世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(6)

2024-08-26 00:00:00 | Weblog

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP62によれば、1936年には18件も頻発していたのである。次のそれらを羅列しておく。 

 

 

相次ぐ反日テロ事件(1935年11月~1936年11月) 

 

1.1935.11.9、上海海軍陸戦隊中山秀雄1等水兵射殺される。 

2.1936.1.21、角田汕頭領事館巡査射殺される。 

3.1936.6.30夜、青島で大工の岩田軍三が14,5名の中国人に襲われ危篤状態。 

4.1936.7.10夜、上海で三菱商事社員菅生鈜作が自宅付近で頭を撃たれ即死。 

5.1936.8.20、長沙の湘南旅館に爆弾投擲。邦人1名軽傷。 

6.1936.8.21、北京で森川堡太郎(朝鮮人)が第29軍兵士に殴打され、重傷。 

7.1936.8.24、成都事件。日本の新聞記者4名が暴徒に襲われ2名死亡。2名重症。 

8.1936.9.3、広東省北海で薬や「丸一洋行」を営む中野順三が食事中自宅に乱入してきた抗日団体によって殺害される。 

9.1936.9.17夜、汕頭の日本人商店に爆弾が投げ込まれたが、不発。 

10.1936.9.18、豊台で演習帰りの日本軍1個中隊の小岩井光夫中尉の 

乗馬が馮治安軍兵士に投打され、更に看護兵が暴行させれる。 

11.1936.9.19、漢口の日本租界と旧英国租界の境目で巡邏中だった吉岡庭二郎巡査が後ろから近付いた中国人に後頭部を撃たれ即死した。 

12.1936.9.23夜、上海の海寧路を歩いていた4名の日本水兵を数名の中国人が狙撃した。田港2等水兵が即死。2名が重症。 

13.1936.9.27、長沙の湘潭日清汽船の事務所および倉庫に放火、大事に至らず 

14.1936.10.21夜、上海で海軍陸戦隊関係者が、中国人5名に襲われ、服をずたずたに裂かれ、歯を折られる重症を負った。 

15.1936.11.2、湖南省長沙で在留30年の山岸賢藏が自宅で襲われ首に怪我。 

16.1936.11.5、上海で妻と子供と散策中の鹿児島茂か、ナイフで襲われ、首を怪我した。 

17.1936.11.11夜、上海で高瀬安治(笠置丸船員)が散策中銃撃を受け即死 

18.1936.11.25、上海の光明洋行で店員の林邦彦が硫酸瓶を投げつけられ方に当たったが、無事だった。瓶には「日本人を皆殺しにせよ」     と伝票がつけられていた。 

 

 

そして、「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP63には、 

 

漠然と日本軍が横暴な振舞をして中国人をいじめていた、といったイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、それは全くの見当違いです。 

 この1年間に日本兵による中国市民に対する暴行殺害など1件もなかったにもかかわらず、中国人による日本人殺害・暴行がこの表のように行われていたというのが実態なのです。反日は、政府、軍閥、知識人などのプロパガンダによるところが大きな原因であって、日本軍、日本人が不当なことをしているためではないのです。 

 

と真実が記述されていることに注目したいところである。 

 

しかしながら、小学館の『日本大百科全書』には『…‥日本軍は1937年7月27日、第29軍掃討のため通州を爆撃、自治政府保安隊に大きな損害を与えた。このため保安隊は自治政府に反乱を起こし、‥…在留日本人・朝鮮人二百数十人を殺害した。』と、間違って記載されているのである(P64)。 

 

小学館、直ちに謝罪し「日本大百科全書」改訂すべきである。 

 

 

当然ながら、日本では「暴支膺懲」(暴れる支那をこらしめる)の世論が高まったのであるが、日本政府は、不拡大方針をつらぬき画期的な「船津和平案」を決定したのである。それは満州事変以前の状態に戻そうということで、日本が北支で得た権益をほとんど放棄しようというもので、当時の支那側が要求しているものを大部分盛り込んだものであった(P80)。 

 

そして第1回の和平交渉が、1937(S12)年8月9日行われたが当日の午後6時半ごろ、巡邏中の日本軍派遣隊長ら2名が中国保安隊によって惨殺されるという事件が起こってしまった。 

 

1937(S12)年8月9日夕刻日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、中国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。しかもその殺し方がひどいものであった。 

 

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP81によると、 

 

大山中尉は全身に大小8ヵ所の銃創、刀創を受け頭部は2つに割れ、顔面半分は全くつぶされ、内臓を露出し、心臓部は拳大の穴をあけるなど鬼畜も及ばざる暴行を加えられていました。 

 例によって中国側は、大山中尉がピストルで中国兵を撃ったので中国側が反撃したなとと言い訳をしましたが、大山中尉のピストルは袋に入れ肩にかけたままでした。しかも、犠牲者として殺されている中国兵を解剖したところ、拳銃ではなく小銃で撃たれていたことも判明し、中国側の嘘が明白となりました。‥… 

では中国側には、というと、この目的、効果を考えればすぐわかります。この事件により、せっかくの船津和平工作は雲散霧消してしまいました。和平が実現しては困る勢力がいたという証拠です。具体的にその勢力、そしてこの虐殺を命令していた人物について、ユン・チアン、ジュン・ハリディ著「MAO」 (マオ、講談社)では、隠れ共産党員であった南京上海防衛隊司令官の張治中であると述べています。 

 目的はもちろん和平の実現を阻止し、戦争へと中国軍を向けることでした。 ‥… 

(続く)

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