豊田の生活アメニティ

都市デザイン、街歩き・旅行、くらし

足助の町並み保全5期

2008-03-27 | 都市計画・まちづくり
足助の町並み保全5期 (05~  )
 03年に環境整備事業が終わり、05年に合併しました。合併の理由は人口減少と過疎化が進み、国の地方交付税削減による財政危機があげられます。合併前に最後のチャンスとして、伝建選定の動きをしています。新市建設計画や景観計画など注目の足助には、多くの事業が予定され錯綜しています。遅ればせながら支所に庁内連絡会議もできました。町並み整備の計画も西村さんと浅野さんをアドバイザーに、作られようとしています。しかし、住民参加の議論よりも、先に整備ありきの計画策定に追われている感じです。問題の背景に「定住の促進」(シャングリラ計画)か人口減少止むなしか、恵まれた財政の豊田市に依存か山村振興か、合併の影響と地域のアイデンティティなどがあり、揺れていることころでしょうか。バイパスのトンネルも開通しますが、効果も未定です。地域会議、まちづくり推進会議、観光協会、商工会などの動向に注目していきます。浅野さんが伊勢市マスタープランで実践した参加プロセスの手法が、足助でも早く軌道に乗せられるか、ここが将来展望への分岐点になる気がします。写真は最盛期の飯盛山のかたくり。
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足助の町並み保全4期

2008-03-26 | 都市計画・まちづくり
足助の町並み保全4期(90~03年、整備陳情から住環境整備)
 守る会の自主規制だけでは、町並み保全に限界を感じたのだろうか。90年に整備陳情をし、91年に西村さんが提言をし、93年に7団体で足助まちづくりの会をつくっています。町の担当は産業振興課で、建設省の環境整備事業の補助を10年間受けました。ガイドラインを設けましたが、町並み保全にどれだけ貢献したか検証すべきです。現場をみた松波さんは「民芸調に修復された町屋や郷倉」、「映画村というよりも安物の舞台セットのようになってしまった一角」と批判しています。しかし、「足助の町並みを構成するのは、伝統的な町家だけではありません。新しい建物を含めたすべてのもの、川、路地、家々の合間から見える山々、空、そして住んでいる人々、町のにおい、音、空気までもが、かけがいのない要素です。巴川、足助川、マンリン小路、海老屋小路、飯盛山、真弓山、足助城、足助屋敷、油屋、たばこ屋、白久・・・数え挙げればきりがありませんが、みんな重要なものです。」(松波97)と、町並みの価値を認めています。守る会は97年に解散してしまいました。93年に商工会を中心にしたAT21ができて、99年に街道ひなが行われ、02年からたんころりんなどソフト面が、盛んに企画され注目されてきました。10年の整備事業のいきさつと結果の評価を検証する必要があります。
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足助の町並み保全3期

2008-03-25 | 都市計画・まちづくり
 町並み保全3期(80~90年、伝建選定断念から自主規制、整備陳情まで)
伝建選定には自治体で地区を決め保全計画をつくり、住民合意が必要です。さらに、規制内容と財政措置も必要なため議会の条例化が必要で、それから文化庁への申請になります。保全計画案や条例案はできましたが、町(町長、教委)と守る会役員の会議で80年に選定を断念しました。その理由として、「看板、交通など伝建は規制が厳しい。商家と非商家があり考えに違いがある。景観のみで商業・生活環境整備が無い。厳しい町の財政事情では改修補助ができない。議会では市街地以外の農村議員もいて賛成が得られない。」などでありました。文化遺産の保存、住環境の整備、商業(観光)振興など突っ込んだ議論がされました。守る会は一時期停滞しましたが、自主規制でまちづくりを続けました。86年には足助川を守る会もできています。また、田口さんを中心に会報も出され、町並みゼミには多数参加し、地域学習会には一流講師が多数来ています。商工会に専門家の相談会を設置しましたが、充分機能しなかったのでしょう。自主的な「修理の結果は、必ずしも好ましいとは言い難い。いずれも民芸調で、復元的修理を行った例はまれである。」(松波)としています。田口さんは「選定されなくて良かった。死んだ町になってしまう。重伝建の価値があるとも思わない。」(後藤『まちづくり批評』)としていますが、西村さんは「変わっていない」し、「伝建の価値はある」と述べています。伝建の意義、町並み保全のデザイン基準、総合的整備計画など、オープンな公開討論が必要です。写真は今も営業している旅館(旅籠)の玉田家。
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足助の町並み保全2期

2008-03-24 | 都市計画・まちづくり
足助の町並み保全2期(1970~80、過疎指定から守る会の伝建断念)
 足助町は1970年に過疎地域が指定されました。多くの山村の自治体と同じく、人口減少の歯止めは今もかかっていません。当時の町役場の中心振興策として、一の谷の事例に学びながら一季的な香嵐渓の観光から、通年の町並み保存と資料館を模索しました。町並み保存では役場の小澤さんから矢澤さんを軸に、伝建の指定に動きました。75年に足助の町並みを守る会(田口会長)が発足しました。町史の編纂と、町、文化庁、ナショナルトラストなどが町並み調査をしました。会は会報を発行し、中馬館の買収と資料館、豊信のデザイン、そして第一回の町並みゼミの足助・有松での開催でした。 しかし、80年に三州足助屋敷はできましたが、伝建指定は断念しました。
会報1号(77年)で水野さんは次のような指摘をしていました。町並みが「注目を浴びている一方、周辺農村の搾取の上にできた町並みという冷ややかな目と、町並み保存で商業活動は心配ないだろうかと不安げな目、保存を通し住環境の好い町の再開発と云う希望に輝く目の交叉するのが現実の足助だと思う」。写真は馬頭観音(案内板NO2)です。
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足助の町並み保全1期

2008-03-23 | 都市計画・まちづくり
足助のまちづくりはユニークで、地域の歴史、文化が継承され全国的にも注目されています。「町並み保全とその後」を考えてみたいと思います。香嵐渓のもみじから1970年の過疎指定までを1期とします。香嵐渓のもみじは1624~43年、香積寺(こうじゃくじ)の参栄禅師が植えたのがはじめです。その後、大正末期から昭和の初期にかけ、多くの住民の奉仕によって、新しい植樹と手入れがされました。町は戦国時代から、足助城の小城下町として形成されました。1775年に大火があり、1836年加茂一揆があり、1882年に大水害、1911年に中央線が開通、1970年に過疎指定となりました。足助は塩や生活物資を運ぶ交通の要地で、陣屋の町、宿場町でもありました。鉄道が開通し衰退しましたが、周辺の山村などの商業的中心地でもあり、在郷町として発展してきました。
 足助の町は山峡にあり、巴川と足助川の合流点にあります。街は川を挟んで、西町、新町、本町、田町、新田町と細長く続きます。「町並みは妻入り、平入りの混在、狭くて屈曲に富む旧道は多くの辻と奥行きを生み出し、視点に変化を与える」(松波)。自然と歴史と文化を継承し、様々な行事が行われているのも特徴です。
 
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一の谷

2008-03-22 | 都市計画・まちづくり
今日は足助調査に行きました。足助資料館へ行く前に一の谷へ寄りました。巴川のせせらぎは心地よく、うぐいすなどが鳴いていました。魚はいましたが透明感は足助川の方が綺麗です。先週の土曜日はかたくりが一輪咲いていましたが、今はちらほらだそうです。不審火にあった足助村も再建されていました。
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自動車放火

2008-03-22 | 市民生活・企業都市
明け方4時に消防車のサイレンで目が覚めました。自動車の後部から煙が出ていました。翌日見ると、後部の車輪付近から放火したと思われます。駐車場は車の所有者から離れているし、街灯もありません。昨年も竜神、寿当たりで放火が続いていました。1昨年には自動車の放火は犯人が検挙されました。物騒な世の中になってきました。
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証言・町並み保存、足助

2008-03-19 | 気になる本
西村幸夫・埒 正浩編著『証言・町並み保存』学芸出版社、2007年
 この本は、町並みゼミの先進的な地域のリーダーと西村さんとの対談形式になっています。それぞれの共通項もあり、地域特性もあり先人からの教訓を受け継ぐ必要があります。特に、最初の「町並み保存運動」の由来記と足助について、要点を確認したいと思います。私も町ゼミには1昨年の八女福島に参加しました。由来記では、町並み保存が全国に波及する契機となったのは、1950年代末の「妻籠の町並み保存」からとしています。妻籠宿を守る住民憲章が、白川郷や竹富島に受け継がれました。妻籠の小林さんや、町ゼミの中心人物石川忠臣さんも、足助の町並み保存に影響を与えた人です。1975年に伝建地区の制度化がされましたが、地方では保存か開発か厳しい対立は続いてきました。楽しさを重視した倶楽部化の傾向を指摘しています。日本の町並み保存は欧米と違って、「制度を構築し、これを適用するといった計画技術的な側面よりも、地域住民の形成を進めるといった運動的な側面が強い」としています。そして強力なリーダーが存在し、人間的魅力と、先導する先見性が備わっていたのです。「傑出したリーダーの多くがその土地の生まれでない」という点も、興味深いです。町並みゼミの交流は足助のまちづくりに大きく影響しています。
 足助編では小澤さんと矢澤さんです。はじめは観光栗園の造成事業をし、香嵐渓の一季集中型の観光を周年型にかえるために、地域文化を大切にする施設を作りました。それが三州足助屋敷です。町並みは田口金八さんと共に進め、宮本常一、西山卯三など講師に勉強会をやりました。小澤さんは「江戸期の建物はほとんどなくなった」としていますが、西村さんは「そんなに変わっていない」としています。豊田市と合併して、お金は出してくれるが、急激な変化を心配しているようです。矢澤さんも、「勉強会を次の世代がもういっぺんやっていかないと」と、気にしています。これからは「建物の建て方のルールをきちんと作るべきではないかと思う」と、西村さんは指摘しています。これらの三方の意見は最もな意見ですが、2年先に整備ありきの豊田市の方針で、担当がどれだけ理解されているか疑問です。小澤さんと矢澤さんが三州足助公社を作って自立させたのは、合併を見越してなのか、指定管理者の制度の運用については、経営分析しないと評価はわかりません。足助川を守る会のろうそくで川沿いに浮かべるイベントや、鱸さんのおひなさんやカタクリの群落作りなど、「自然発生的」にやる力があったと、小澤さんは述べています。これからの地域づくりで、小澤さんは人口減少を食い止めようと、総合計画で取組んできたとしていますが、歯止めがかかりませんでした。大企業が近くにあり、賃金収入は確保できますが、農林業は衰退してきました。合併は過疎化と共に、国の財政危機による地方交付税削減が、合併へと追いやったのでしょうか。この点は住民アンケートで評価を聞きたいところです。次のステップに向けて、「よそもの」をどれだけ受け入れる制度ができるのか、デザインコードと、持続的に町並み保全するNPO組織ができるかが課題だと思います。
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奈良町の暮らしと福祉

2008-03-16 | 気になる本
黒田睦子「奈良町の暮らしと福祉」東信堂、2006
 「奈良町は高度成長期に若者が去り、お年寄りばかりになった」。研究会を発足させたのは1979年である。著者は新聞で見て好奇心から会員になったのであり、「よそ者」を受け入れたところが素晴らしい。奈良町は89年に伝建地区の検討があったが、住民合意がえられなかったのは足助と同じである。登録有形文化財制度の活用を薦めたのは足助との違いである。「奈良町の原風景である率川の流れを再び取り戻したいと思うのは誰しもの思いである。水辺は町の生命であり潤いである。」として、水路の暗渠化には反対している。「87年、奈良市は建物の高さ制限を31mから40mに緩和を進めた。」が、西山卯三も奈良の建築高さ制限には、「歴史的景観とまちづくり」など論陣を張っていた。奈良まちづくりセンターは行政と住民との中間組織として、社団法人となっている。多様な人が参加し、楽しむ組織形態の最も学ぶべき点である。調査し、研究し、提案して行政を動かしてきたのである。瀬戸市の職員は世田谷と由布院と奈良に若い職員を2年間無償で、研修に送り込んでいたのである。世田谷のまちづくりセンターで、瀬戸市職員に会ったが、豊田市と大きな違いがある。アジアとの交流もあり、武漢市やハノイは行って見たい都市である。TMOは「地域住民の自発性、主体性がないまま進められても、『笛吹けど踊らず』になりかねない」とは、全く同感である。
人口減少、高齢化の中で、「居住福祉」の視点からのまちづくりは、足助に必要なことだと思います。この本は奈良の奈良市写真博物館で購入しました。奈良町はもう一度訪ねたいところです。
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新薬師寺

2008-03-16 | traveling, town walking
新薬師寺は「あらたかな」薬師寺という意味だそうです。国宝も沢山ありますが、なんといっても12神将が気にいりました。パンフの解説では「奈良時代の建築の中に瑠璃光に照らし出された12神将は豪壮華麗である。化粧屋根裏、合掌とあいまってこの内陣の豪華さは日本の莫高窟といっても過言でないだとう。」とは、言いえて妙である。BAZARA大将は私のえとでもあり、パンフの表紙にもなっていました。内部の写真が撮れないのでポストカードを買いました。今回は街中はじっくり歩けませんでしたが、奈良の歴史と文化の重みをちょっと感じた小旅行でした。
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