松本清張(1982)『徳川家康』講談社
現在放映中の時代劇、家康の伝記である。初めは近くの知名や本多姓が出てきて見ていたが、時代考証に違和感を覚え最近は見ていない。偶然、松本清張のこの本を検索して、図書館で借りた。清張の時代背景は良く調べてある。40年前に書かれているが面白く、一気に読んだ。今の東京も家康が原点であった。信長、秀吉は個人の支配であったが、家康は長い人質時代から苦労を重ね、人生訓や学問から組織体制を整備し天下統一を維持した。以下、気になる箇所のメモ書きである。( )書きは私のコメント。
強い人間は苦労しても、じっと辛抱して耐える。どんなに苦しい時でも、歯を食いしばって勇気を失わない。
百姓が困ることは、武士階級も困ってくる。なぜなら、刀や槍で威張っても、武士は何も作らない。米や野菜をつくるのは百姓である。(ものづくりは車だけでなく、米や野菜も含まれる。が、豊田市の「ものづくり」は、車だけに感じる。)
秀吉が家康を関東に追いやったのは、褒美もあるが、庶民が家康を慕っていた。それを嫌って、未開拓の関東地方へ追いやった。後の江戸城や江戸にしたのは、家康の力である。
連れ小便のはじまり・・・「関八州古戦禄」に書いてある。
家康は正信に「第2に、自分の部下の者を使うのに、ひいきや不公平があってはならぬこと」。
秀吉の生活は派手であった。大がかりな茶の湯の会をしたり、目を驚かすような花見の宴をしたり、日頃の暮らしも華美であった。家康の生活は質素であった。家康の処世の哲学は質素倹約だ。それと「いつも足ることを知っている」。
1592年に、明と戦うために、朝鮮に兵を出した。誰一人として止めるものがいなかった。家康は、秀吉の時に闘った朝鮮とも仲直りをし、明とも交わりたいと望んだ。進んで外国と交易しようと望んだが、キリスト教の布教を恐れ、平戸と長崎を開港場として、鎖国した。
家康の心の中では、信長の命令で殺した、我が子信康のことが思い出された。
家康の功罪は議論がある。鎖国は残念であるが、戦国の世を鎮め300年太平の基を築いたのは功罪である。それと江戸のまちを切り開いた。
偉人とは出世することばかりが偉人ではない、平凡ななんでもないことに気をつけて、りっぱにこの世に処していくのが、偉人であろう。
このような視点を持って、「どうする家康」を又観ることにした。